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2 tempestoso

読んで下さりありがとうございます。長いので、休憩しつつ読んでいただけると幸いです。

「こんにちは、アビゲイル嬢」


 頭上から降ってきた()()()に顔を上げると、どこの誰とも知れない黒目がちでアッシュグレーの髪色をした男が立っていた。目測八十パーセントが筋肉で構成されていそうな身体に、顔だけなら10代前半といっても通りそうな童顔が乗るアンバランスさが怖い。


「……ごきげんよう」


 経験則から言って、()()声をした人間に付き合うと、禄なことが無いのだ。

 感情を殺した愛想笑いを浮かべながら、脳内の貴族名鑑を高速で捲る。


「相変わらず、会場の誰よりも美しいね」

「まぁ、そのようなお言葉お戯れが過ぎますわ」

「ねぇ君、近頃色々あってストレスが溜まってるんじゃない?」

「いやですわ、そんなことありませんわ」


 ――困った。さっぱり思い出せない。相変わらず、と言ってきたってことは、会ったことがある人かしら。


 生返事をしながら男の全身に視線を走らせる。


 服はそこそこいい生地を使っている。カフスボタンとチェーンブローチは揃いで中々芸の細かい彫刻が入っているし、服装だけなら高位貴族と判断してよさそうなものだが、如何せん振る舞いが高位貴族のそれではない。

 妙に傲慢なところを見ると、運よく高位貴族に婿入り出来た幸運に胡坐をかいている下級貴族の三男以下、ってところかしら。


 許可も得ずどかりとソファの隣に腰を下ろす男を不快に思いながらも、男の正体がはっきりしないままではあからさまな拒否も出来ず、アビゲイルは男がいるのと反対側のソファの端に限りなく寄った。

 助けを求めて周りを見回すが、ユージーンの姿は見えない。


「もしかして、婚約者を探してる?」


 アビゲイルと目が合うと、男は一際いやらしい笑みを浮かべ、ダンスホールの方へ顎をしゃくった。

 何気なくその方向を見て――アビゲイルの心臓は鷲掴みされたようにぐしゃりと鳴った。


 視線の先では、先程レモネードのおかわりを取りに行った筈のユージーンとマリアベルが踊っていた。ふたりはアビゲイルの視線には気付かず、楽しそうにくるくると踊っている。


 くるくる、くるくる、くるくる……人波を縫って踊るふたり。


 アビゲイルは隣の男の存在も忘れて、息を止めたままその姿を食い入るように見ていた。


 ――どうして……どうして。


 次第に音が消え、色だけがアビゲイルの世界に溢れていた。

 呆然とするアビゲイルの隣で、男の唇がぱくぱくと動いている。まるで無声映画のようだとぼんやりしていると、痺れを切らしたのか男が強引にアビゲイルの腕を掴んで立ち上がった。

 我に返った時にはもう遅く、男の手がアビゲイルの柔らかな細腕に食い込んでいた。


「いや、触らないで!」

「いいじゃないか。君の婚約者も妹と()()()()やってんだ。君も僕と仲良くしようよ」

「誰が貴方みたいな男なんかと!」

「そう言わずにさぁ、君のママは大層美しく()()()()だったんだって?ママにそっくりな君もきっと()()があるさ」


 咄嗟に身体を捩って抵抗するが、男の力には敵わない。そのままずるずると人気の少ない方へ引きずられる。周囲の人間は皆ダンスホールを向いていて、アビゲイルと男の壁際の攻防には気がついていない。


 いよいよ頬を一筋涙が伝った時、よく通る声が聞こえた。


「ちょっと、そこのキモ野郎!嫌がってる女に無理強いするんじゃないわよ!」


 振り向いた先に立っていたのは、特徴的な銀髪と美しいタンザナイトの瞳をした美女。彼女の唇から吐き出される音はまっさらで気持ちのよいシルクのような白だった。


 王族特有の月の如く輝く銀色の髪をした若い女性は、現在この国にたった一人。

 

「シェリー・ルーセント公爵令嬢……」


 現在は臣下に降り、公爵位を賜った王弟スタン卿の溺愛する末娘。


 呟いた瞬間、男がぎょっとしてアビゲイルから手を離す。

 シェリーはすっと目を細めて男の顔を凝視すると、びしりと男を指差した。


「あんた……見覚えがあるわ。デボラ大叔母様の飼い犬(ペット)のひとりね?」

「ひぃっ」

「はぁーん、わかったわよ。貴方、デボラ大叔母様に内緒で此処に来たでしょ。いくら大叔母様が王家の問題児だからって、こんな躾のなってない駄犬を外に放つ訳がないわ。ご自分の立場をよく理解し、ギリギリを見極めているからこそ、あれだけ放蕩を尽くしても貴族でいられているのだもの」


 シェリーの話した内容が図星だったのか、さっきまでの傲慢な態度は鳴りを潜め、男は顔を真っ青にしていた。


「大方、デボラ大叔母様が他の駄犬(ペット)と旅行でも行ってる間に、大叔母様宛の招待状を掠めとって此処に潜り込んだ、ってとこかしら」


 そこまで言うと、シェリーは同性でもぞくりとするほど妖艶な笑みを浮かべる。


「全く、デボラ大叔母様の趣味は相変わらず理解できないわ。震えているところを見ると図星なんでしょ?このことを大叔母様が知ったらどうなるかしら。おまけに伯爵家の次期当主に狼藉を働いてたと分かったら――」


 ――貴方、殺されるかもね?


 シェリーが右手の親指を首元にやり、ギロチンの如く真っすぐ横に滑らせる。


「ぼっ、ぼぼぼぼ僕は何もしていないっ」


 悲壮な叫び声を残し、男は会場の出口へと走り去っていった。

 アビゲイルは呆気に取られ男の背中を見送っていたが、


「ねぇ、大丈夫?」


 シェリーの言葉に一気に我に返ると、震える身体を叱咤し大慌てで頭を下げた。


「ルーセント公爵令嬢、助けていただきありがとうございました。名乗りもしませんで申し訳ございません。デッカー伯爵が長女、アビゲイルと申します。この御礼は必ず……」

「イヤだ、やめてよ。顔を上げて」


 恐る恐る顔を上げると、先程勇ましく男を追い払ったのが嘘のように穏やかな笑みを浮かべたシェリーがいる。


「御礼なんていらないわ。むしろ身内の不始末で迷惑をかけて謝るのはこちらの方よ。ごめんなさいね、怖かったでしょう」

「あ……」


 シェリーが近づきいて来てそっとアビゲイルを抱きしめた瞬間、アビゲイルの目から一粒涙が落ちた。ハンカチを取り出しそれを拭うと、シェリーは近くにいた給仕に温かい飲み物を持ってくるように指示し、すぐ近くのバルコニーのベンチにアビゲイルを促し腰を下ろした。


「少し、落ち着いた?」


 ホットココアをアビゲイルに手渡しながらシェリーが聞く。


「はい、もう大丈夫です。本当にありがとうございました」

「さっきも言ったけど、気にしないで……ってあちっ」


 シェリーが持っているマグカップにふーふーと息をかける。

 火傷しないように気を付けつつ、アビゲイルもカップに口をつける。

 甘いココアが身体を芯から温めていくようで心地良い。

 

「あの、ルーセント公爵令嬢……」

「シェリーでいいわよ。その代わり、私もアビゲイルって呼ばせてもらって構わない?」

「も、勿論!アビゲイルでもアビーでもお好きな様にお呼びください」


 こくこくと首振り人形のように首を動かすアビゲイルがおかしかったのか、シェリーが声を上げて笑う。その様子をじっと見つめながら、アビゲイルの胸はドキドキと高鳴っていた。


 シェリー・ルーセント公爵令嬢は貴族令嬢としては一風変わった女性だ。

 父は現王陛下の弟で、スタン・モーガン・ルーセント公爵。臣下に降った王族の公爵位は一代限りと法律で決まっているため、ルーセント公爵の子供たちは爵位を継承出来ない。


 そのためかどうか、「父が死んだら平民ですから」を口癖に騎士の真似事をしたり、身分を隠して冒険者として活動したりと、普通の貴族令嬢では考えられないお転婆な言動をすること多数。

 かといって、貴族令嬢としてのマナーは完璧に身に着けており、必要な場では完璧な公爵令嬢として振る舞っている。


 実は、アビゲイルは密かにシェリーに憧れていた。


 小さい頃、お茶会で初めて見かけたシェリーは銀色の美しい髪を風に靡かせ、まさにお姫様といった風貌で思わず目を奪われた。ところが、ある意地悪な令息が令嬢をいじめているのを見つけた途端、勇ましくその場に乗り込んでいって、こてんぱんにやっつけてしまった。当然、令息共々後で大人たちに怒られてはいたが、あの真っすぐな気高さはアビゲイルに強い衝撃を与えた。


 その後も、お茶会や夜会で何度も同じような場面を見た。勿論、やり方は些か乱暴だった幼少期と比べ、淑女の戦い方とでも言うべきものに変わってはいたが、その気高い心は変わることがなかった。


 誰にも媚びず、理不尽を跳ね返し、不都合に目を背けず真っすぐ向かっていくその姿は、いつでもアビゲイルの憧れであった。


 その憧れの人とこうして並んでココアを飲んでいる。

 あの最低な男にも、少しだけなら感謝してもいいかもしれない。


「はぁ、それにしてもデボラ大叔母様の悪癖も困ったものだわ。あの男に他に何かされなかった?」

「いいえ、強引に引きずられた以外は何も」

「それならよかった……って言っても、貴方にしたら災難には変わりないわよね。はぁ」


 シェリーが大袈裟に溜息を吐く。


 シェリーの言う“デボラ大叔母様”とは、シェリーの祖父にあたる、今は無き先々代の国王陛下の年の離れた異母妹、デボラ・ウィンフリー前男爵夫人だ。

 若い時分から素行不良で嫁の引き取り手もなく、困り果てた当時の国王陛下が領地付きの男爵位と引き換えに大きな商会を経営する年老いた男の後妻になんとか彼女をねじ込んだものの、僅か二年で夫と死別。放蕩ぶりに耐え兼ねた男爵家の跡取り息子夫婦に家を追われたデボラは見事に出戻った。


 それから現在に至るまで、再婚はせず離宮にお気に入りの男性を取っ替え引っ替え引き込んでいるという。


「大叔母様って小動物めいたものに弱いの。あの男も首から上だけなら人化したハツカネズミみたいな顔してたじゃない?」

「じ、人化したハツカネズミ……」


 言い得て妙な言葉にアビゲイルは思わず肩を震わせた。


「よかった。やっと笑ったわね」


 そう言ってアビゲイルを見つめるシェリーの瞳は優しい。

 アビゲイルは気になっていたことを尋ねた。


「あの……先程のあの方はどこの家のお方なのですか?先程、以前から私のことを知っているような様子だったのですが、私には覚えが無くて」

「ああ、あの男は大分昔に没落した子爵家の、確か三男……だったかしら?没落する前も後もずうっとロクデナシ。未だに一部の貴族の男とつるんでいることもあるみたいだから、その縁で貴方のことを知っていたのかしら。大叔母様には改めて私から注意しておくから、あんな奴のことは忘れてしまいましょう」


 拳を握りしめるシェリーにアビゲイルは頷いた。


「そう言えば、シェリー様はもうじきご結婚なさるのですよね」

「ふふっ、そうなの。やっとよ。六年も待ったんだから」

「え、ろ、六年ですか!?お相手は確か先日子爵位を賜った研究者の方だと聞きました」

「そうよ。十七の時にプロポーズされたはいいけど、当時の彼はまだ王宮に仕官している平の文官でね。うちの父が許さなかったの。うちは姉も兄も結婚して他国に行ってしまったものだから私を手放したくなかったみたいで、『うちの娘と本気で結婚したいなら自力で爵位を得てこい!』ってね」

「それは随分と……」

「親バカを拗らせすぎてどうかしてるわよね」


 シェリーが肩を竦める。


 近年は戦争もなく国内情勢も安定しているため、法衣貴族位ならまだしも、余程の功績が無い限り領地付きの爵位など賜ることはない。

 今回シェリーの婚約者が爵位を授与されたのは、久々の快挙なのだ。


「結局六年もかかっちゃったけど、あの人はちゃんと功績をあげて父との約束を守ってくれた。授与式の後でやっぱり娘はやらん、って父が言い出した時は、流石に二週間無視してやったわ」


 そう言って憧れの女性(シェリー)が幸せそうに微笑んだので、見ているアビゲイルまで胸が温かくなった。


「おめでとうございます、シェリー様」

「ありがとう」


 互いに微笑み合い、穏やかな空気が流れる中でふとアビゲイルは疑問に思った。


「シェリー様、来月結婚式ってことは準備で大変なのでは?此処にいて大丈夫ですか?」


 既に結婚している親戚や友人から、結婚式の準備はかなり大変だったと聞く。それこそ、寝る暇もない程だと友人はいっていたが……。


 シェリーの貴重な時間を奪っているのではないかと心配になったアビゲイルにシェリーはからりと笑って答える。


「いいのいーの。正直言って私、結婚式にそんなに興味ないの。重要性は分かるけど、本音を言えばその分の費用や時間を別のことにあてたいなぁって思っちゃう」


 なんとも合理的な人である。

 母には怒られるけど、とシェリーは口を尖らせて続ける。


「今ちょうど家に父が客人を家に呼んでいて、家族はそっちにかかりきりだから息抜きに抜け出しちゃった」

「結婚前のお忙しい時期に客人ですか?」

「うん、そう。客人っていうか父の旧い友人で、有名な音楽家なの。私たちの結婚式で演奏してくれないかって父が頼んだら、二つ返事で来てくれたらしいわ。ついでに暫くこの国に滞在するみたいだけど……マエストロ・グレゴリオってご存知?彼とそのお弟子さんよ」

「マ、マエストロ・グレゴリオっ?!」


 恥ずかしながら私は音楽とか疎くて全然知らなかったの、と呟くシェリーにアビゲイルは目を剥いた。


 マエストロ(巨匠)・グレゴリオ――グレゴリオ・オルシーニは、音楽界では超有名人(スーパースター)である。

 隣国ロマノ教国の公爵家に生まれ、かつてはロマノ教国の筆頭宮廷音楽師を務めていたが、十数年前にその座を辞して以降、作曲家兼演奏家として各地を巡っていると聞く。

 あらゆる楽器に精通しており、大国の権力者や他国の王族からも引き合いがあるが、決して専属の誘いを受けることはないそうだ。また、彼の機嫌を損ねた者は、どんなに金を積んでも演奏聴くことは出来ないらしい。


 その彼がわざわざ友人の娘の結婚式のためにはるばるやってきたことも驚きだが、その彼を知らないシェリーにも驚いた。


「あら、その反応。やっぱり有名なのね?」

「そ、それは勿論、一生に一度聴けたら幸運という、あのマエストロですよ!?」

「うーん、普通のおじ様よ?気難しい感じもなくって、頼まれなくても四六時中楽器を触ってるわ。お陰で屋敷中が聴き入っちゃって、メイドなんて仕事が明らかに遅くなってるのよ」


 呑気に笑うシェリーに、なんという大物……とアビゲイルは先程までとは違う意味で尊敬の念を抱いた。


「そういえば、デッカー夫人もピアニストだったわよね。グレゴリオおじ様が今度、久々に会うピアニストの友人と二重奏(デュオ)するって言っていたけど、それってもしかするとデッカー夫人だったりして」


 思いがけない言葉にアビゲイルは言葉に詰まった。

 隣のシェリーに不審に思われないよう、言葉を捻り出す。


「………それが本当なら素敵ですわ」

「アビゲイルは音楽をやるのかしら?デッカー家には立派なピアノがあると聞いたことがあるわ」


 シェリーの言う通り、デッカー伯爵家にはかなり立派なグランドピアノがある。父が母のために特注で作らせた品で、所々に金細工が取り付けられており、美術品といっても良い程美しいものだ。


「確かにピアノはあります。父は母に甘いので……随分高値だったと聞いています。母は毎日暇さえあれば弾いてますけど、私は幼い頃軽く弾いたくらいですね。今は全然です」

「そうなの。残念。貴方のピアノ、聴いてみたかったわ」


 シェリーが少し寂しそうに微笑んだその時、


「シェリー様っ!こんな所に」


 バルコニーの外側からクリーム色のドレスを着た若い女性が入ってきた。


「げっ、リリー」

「人の顔見て『げっ』とはなんですか。随分探したではないですか!」


 リリーと呼ばれた女性が腰に手を当て仁王立ちする。その淑女らしからぬ仕草に驚きつつ、アビゲイルは気配を殺し黙って成り行きを見守ることにした。


「今日はウェディングドレスの最終確認だってあれほど言っておいたのに!気がついたらいないから屋敷中大慌てですよ、もう。漸くセバスを締め上げてシェリー様の行き先を聞き出したと思ったら、何で夜会に来てるんですか!そのせいで、ついでとばかりに私までこんな格好させられるはめになったんですからね!」

「セバスめ……チクったわね」

「シェリー様?ちゃんと聞いてます?」


 リリーがシェリーに凄む。その圧にシェリーは無意識に後ずさった。

 リリーの()は情熱の色。相当にシェリーのことが好きらしい。


「聞いてる聞いてる。良いじゃない、リリー。そのドレス似合ってるわよ」

「似合ってるわよ、じゃないんですよ!なんで私がこんな格好――」

「それは子爵令嬢だからじゃない?」

「名ばかりなんですからいいんですよ。私は生涯シェリー様のお側に仕えるんです!」

「リリー、何度も言ったけどそれは無理よ。結婚したら私は子爵夫人よ?子爵夫人に仕える子爵令嬢って……ないわー。貴方もいい男を捕まえて子供産んで、一緒にママ友になりましょうよ」

「私は夫なんていりません!シェリー様のお側でシェリー様に仕えるのが私の幸せなんです」

「うーん、でもぉ……貴方に子供が生まれて、万一私たちの子供と結婚したりしたら、名実共に本当の家族になれるわよ?」


 シェリーの言葉にリリーは雷に撃たれたように目を見開き固まったかと思うと、やがてぶつぶつと虚ろな目で呟きだした。


「シェリー様のお子と結婚………本当の家族になれる……私の子供とシェリー様のお子………」

「そうそう」

「それは……なんというぎょうこ…う……………ん?()()()()()()?」


 リリーはそこで突然正気に返り目を剥いた。


「まっ、まさか!シェリー様!アンドリューの野郎と!!!」

「………えへ」

「なっ、なっなっ」


 唇を震わせるリリーに、シェリーがポッと頬を赤らめそっとお腹を撫でた。


 アビゲイルは思わずシェリーのお腹を見つめた。

 普段から身体鍛えているシェリーは、胸は小ぶりながらきゅっとくびれた細い腰をしている。お腹はぺたんこだしくびれも顕在だが、シェリーがコルセットをつけていなかったことに今更ながらアビゲイルは気が付いた。


「いいいいいい、い、何時ですか!?」

「秘密。授与式より後、とだけ言っておくわね」

「そ、そんな………」


 幸せそうに恥じらうシェリーを前に、リリーは今にも砂になってさらさらと崩れていきそうだ。


「今から頑張れば、()()()の婚約者か……それが無理でも乳兄弟にはなれるわよ?」

「なんと!」


 リリーの瞳にきらりと光が戻る。


「シェリー様!リリーは、リリーは……直ぐにでも孕んで見せます!」

「あ、駄目だわこれ」


 拳を天高く上げ、今にも手当たり次第に殿方に突撃していきそうなリリーの首根っこをシェリーが掴む。


「リリー?相手は誰でもいいなんて言わないわよね。だって、()()()()()()()になる可能性があるのよ?」

「はっ、そうでした!」

「貴方の相手は私も見極めてあげるから」

「シェリー様!一生ついていきます」


 目に涙を浮かべ、胸の前で両手を握ったリリーに呆れた視線を送ると、シェリーはアビゲイルに振り返った。


「突然ごめんなさいね。この子はリリー・モリス。モリス子爵家の五女で、私の家で押しかけ侍女をしてるの」


 シェリーに紹介されたリリーは「押しかけってなんですか押しかけって」と口を尖らせながらも見事なカーテシーでアビゲイルに挨拶した。


「リリー・モリスです。貴方様は確か、デッカー伯爵家のご長女ですわね?ご挨拶が遅れて申し訳ありません。つい興奮してしまいまして……」

「いえ、お気になさらず。アビゲイル・デッカーです。どうぞよしなに」

「噂通り美しいお方ですね!シェリー様の次にお綺麗です!」

「こら」


 シェリーがリリーを小突く。


「気を悪くしないでね。この子、昔お茶会で嫌な奴に絡まれているのを助けた時から妙に私になついているのよ」

「あの時からシェリー様は私の唯一ですわ!」


 肩を竦めるシェリーと、それをきらきらした瞳で見つめながら胸を張るリリーを見て、アビゲイルはリリーが()()お茶会で令息にいじめられていた女の子だと気が付いた。


 あの時は今より大分ふくよかな体型をしてずっと俯いていたが、今のリリーはその面影すらない。

 ドレスの上からでも分かるスレンダーな体型に、明るい表情。その声には、あの頃纏っていた沈んだ色はなく、晴れやかな色に色付いている。


 傍から見ていただけのアビゲイルでもシェリーに憧れているのだ。実際にシェリーに救われた彼女にとって、シェリーは天使のように映ったに違いない。

 リリーのシェリーへの傾倒ぶりは、アビゲイルには納得のいくものだった。


「はぁ、仕方ない。リリーを野放しにすると危険だから、私はそろそろ会場に戻るわね。貴方は?」

「……私はもう少し、此処にいます」

「そう?さっきみたいなこともあったし、貴方みたいな美女が一人だと心配だわ。今日はひとりで来たの?」

「いえ、その、父と妹、それに婚約者と……」

「あら、婚約者の方も来てたのね」

「こんな美女をひとりで放っておくなんて信じられませんわ」


 アビゲイルはそっと目を逸らした。

 シェリーたちが善意で言ってくれているのは分かっている。彼女たちはきっと、近頃社交界に蔓延っている悪意のある噂を知らないのだろう。


「アビゲイルの婚約者は確か、クラーク公爵家のご子息だったかしら」

「三男のユージーン卿ですよね。どちらにいらっしゃるの?」


 アビゲイルはバルコニーから会場に視線を走らせた。

 ユージーンはすぐに見つかった。クラーク公爵家特有のエメラルドグリーンの髪色は何処にいてもよく目立つ。

 その隣で楽しそうに笑みを浮かべているのはマリアベルだ。

 周囲からどんなに親密な仲に見えようと、婚約者ではない二人が連続してダンスを踊ることは出来ないため、ああして壁際で話しているに違いない。


 アビゲイルの視線の先を追ったシェリーとリリーは思わず眉を寄せた。


「アビゲイル、私の勘違いでなければ、あれって貴方の妹君よね?」

「あの……私、先程シェリー様をお探ししている時にあの二人が踊っているのを見たような気がするのですが」


 リリーが気遣わしげな顔をアビゲイルに向ける。

 何も知らない部外者の二人から見ても、ユージーンとマリアベルは親密に見えるということだ。


 アビゲイルは居たたまれず、答える代わりにそっと目を伏せた。

 シェリーがそっとアビゲイルの肩に触れる。


「アビゲイル。こっちを見て」


 シェリーの声に、アビゲイルはのろのろと顔を上げる。

 シェリーの顔は真剣だった。


「何があっても俯いては駄目よ。自らハイエナたちの餌食になることはないわ。貴方が俯く必要はどこにも無い」

「シェリー様、私……」


 ――こんな自分を、シェリー様(憧れの人)に見られたくなかった。


「誰がなんと言っても、貴方は素敵な美女よ。自信を持って」


 シェリーの肩越しに見えるリリーも大きく頷く。


「もしも困ったことが起きたら、私に言って。私で出来ることは力になると約束するわ。私自身はただの小娘でも、父はそれなり権力があるから」


 臣下に降ったとはいえ、シェリーの父は王弟殿下だ。それなりに権力がある、なんてものではない。

 わざと冗談めかして言ったのは、シェリーの気遣いだろう。

 胸が温かくなって、アビゲイルは顔を上げた。


「……ありがとうございます、シェリー様」

「そう、それでいいの。じゃ、行くわよ」

「え?」

「ああいう男、私大嫌いなの。一発ぶちかましてやるわ」

「シェ、シェリー様!?」


 焦るアビゲイルの横で、リリーが溜息を吐く。


「シェリー様。暴れるのは禁止されているでしょう?ただでさえ屋敷を抜け出してるっていうのに、公爵にまた叱られますよ」

「だって、許せないんだもの」

「あの、シェリー様。私は大丈夫ですから」


 アビゲイルの言葉に、シェリーとリリーが揃って顔を見合わせる。


「リリー」

「……ジャブくらいなら、良いんじゃないんですかね?」

「よし、行くわよ」

「えっ、え?」


 シェリーは先程までの砕けた雰囲気を一変させると、見事な淑女の微笑を浮かべ、迷いない足取りで会場の一角に向かう。その先にいるのはユージーンとマリアベルだ。アビゲイルは慌ててシェリーとリリーの後を追った。


 憧れの人と一緒だからだろうか。先程までの絶望的な気持ちは薄れ、周囲の視線を気にすることも忘れていた。



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