1 calando
読んでいただきありがとうございます。
「アビゲイルお嬢様、お迎えがいらしてます」
「あら、思ったより早いわね」
伯爵家に長く勤める家令から声を掛けられたのは、ちょうど全ての身支度を終えた時だった。
今夜は侯爵家の夜会に招待されている。伯爵の父だけでなく、ゆくゆくは伯爵家を継ぐ予定である私――アビゲイル・デッカーとその婚約者でクラーク公爵家の三男、ユージーンも招待されている。
――ああ、またこの色なのね。
鬱々としたアビゲイルの胸の内も知らず、ユージーンが手をとってそっと口付ける。
「アビー、綺麗だ。君の美しさと言ったら、相変わらず月の女神も裸足で逃げ出す程だね」
「その使い古された言い回しはどうかと思うけれど、ありがとうジーン。貴方もいつも通り素敵よ」
にっこり笑ってお礼を返しながらも、アビゲイルの心は分厚い雲に覆われていた。
憂いを帯びた婚約者の様子には気付かず、ユージーンはアビゲイルの少し後ろに立つ妹、マリアベルにわざとらしく目を向ける。まるでさもたった今その存在に気が付いたように。
アビゲイルは知っている。ユージーンがアビゲイルに声を掛けるよりずっと前から、彼女の後ろを歩く妹にちらちらと視線を送っていたことを。
「やあ、ベル。君も今夜は一段と美しいね」
……それは貴方の気持ちがマリアベルに向いているからではないの?
妹が頬を赤らめ笑顔でお礼を言うのを横目に見ながら、アビゲイルは思わず口から出そうになる言葉をなんとか呑み込んだ。
そのまま親し気に会話を交わす二人をぼうっと眺める。明るい笑顔を浮かべながら話すふたりの姿は、未来の兄妹というより、仲睦まじい婚約者同士と言われたほうがしっくりくる。
あの場所はかつて、自分の場所だったのに。
父伯爵を待つ間、煌びやかな服装と反比例するようにアビゲイルの気持ちは萎れていった。
程なくして姉妹の父であるロレンス・デッカー伯爵が姿を現し、一行は二台の馬車に分かれて侯爵家へ向かった。
勿論、公爵家の馬車にユージーンとアビゲイルが、伯爵家の馬車に父ロレンスとマリアベルが乗った。例えユージーンとマリアベルがどれだけお似合いだとしても、彼の婚約者はアビゲイルなので、当然である。
馬車に揺られながら、マリアベルが馬車に乗り込む直前に浮かべた離れがたそうな表情を思い出し、アビゲイルの憂鬱は深まった。
***
アビゲイルが自分は世の中の基準で言うところの『普通』と違うらしい、と気が付いたのは、五歳の時だった。
当時、屋敷に通いで来ていた庭師のおじいさんはいつも猫を連れていて、アビゲイルはその猫が大好きだった。白くてふわふわでルビーのように真っ赤な目をしていた。名前はジャスミン。
父伯爵から動物を飼うことを禁止されているため、庭師のおじいさんが来る日はいつも楽しみにしていた。
ある日、夕方になってもジャスミンの姿が見えず庭師のおじいさんは困り果てていた。あちこち探し回って、諦めて帰りそうになった時、ジャスミンの色が見えた。
「きっとあそこよ!ジャスミンの緑が見えたもの!」
アビゲイルは庭師のおじいさんを連れ、先程色が見えた納屋まで走った。納屋は普段、使う時以外は鍵がかかっているので、まだ探していなかったのだ。
納屋に到着すると、扉は閉まっていたものの、鍵が開いていた。使用人の誰かが閉め忘れたのだろう。
中に入り、にゃーんと声が聞こえた方を見ると、ジャスミンが棚の上で震えていた。たまたま開いていた納屋に入り込み遊んでいたら、棚から降りられなくなってしまったのだろう。
無事庭師のおじいさんの腕の中に収まったジャスミンは幸せそうに鳴いた。
「お嬢様、どうしてジャスミンが此処にいるって分かったんです?納屋の扉は閉まっていたのに」
「ジャスミンのきれいな緑が見えたの!こんなにきれいな緑色は中々いないからすぐわかったわ」
ジャスミンと戯れるアビゲイルに庭師のおじいさんの眉間の皺は深まった。
「お嬢様、ジャスミンが緑に見えるんですか」
「ええ?なに言ってるの。ジャスミンはその名の通り、ジャスミンの花のようにまっしろよ!」
「……では、ジャスミンの緑色ってのは」
「ジャスミンの声の色よ?とってもきれい。おじいさんもそう思うでしょ?」
「お嬢様は……音に色がついて見えるのですね?」
「そうだけど……みんなそうでしょ?」
この時、きょとんとするアビゲイルに庭師のおじいさんが優しく言い聞かせてくれた言葉は、後から思えばアビゲイルの人生において、最も有益な助言であった。
「……お嬢様、ひとつ、この爺と約束してください」
「やくそく?」
「はい。お嬢様が大きくなるまで、音に色が見えることは爺とお嬢様の秘密にしてくだされ」
「どうして?」
「お嬢様が特別だからです。爺には音に色は見えません。爺だけじゃありやせん。普通の人はお嬢様のような特別な瞳は持っとりませんで、色なんて見えないのです」
「まぁ……そうだったのね」
その時、五歳のアビゲイルは深く納得した。
時々家族やメイドと話が通じないことがあり不思議に思っていたが、思い返せばすべて音色に関することだった気がする。
「お嬢様が特別であることが知られてしまうと、悪い人がお嬢様を怖い目にあわせるやもしれません。だから、お嬢様が大人になって、本当に信頼できる人に出会うまで、このことは爺とお嬢様ふたりだけの秘密ですぞ?」
五歳のアビゲイルには、庭師のおじいさんの言う『怖い目』が想像出来なかったものの、きっと良くないことが起こるのだろうと思い頷いて指切りした。
あれから十二年――アビゲイルの目を通して見る世界では、相変わらず音はカラフルに色付いている。
そして、アビゲイルは未だその秘密を共有出来る相手を見つけていない。
あの時の庭師のおじいさんは、あれから数年後風邪をこじらせて亡くなったと聞く。彼は約束通り、秘密を天国まで持って行った。
アビゲイルの秘密を知るのは、この世でアビゲイルただひとり。
***
「やぁロレンス卿、今日もエヴィーは一緒じゃないのかな?」
四人揃って主催者に挨拶を済ませると、壮年の男性がグラスを片手に近付いてきた。
わざわざ父の前で母の愛称を口にしたところをみると、この男性も母の信奉者のひとりらしい。
アビゲイル達の母で現デッカー伯爵夫人であるエヴリーンは名の知れたピアニストだ。隣国からこの国に拠点を移した母はかつて、平民ながら女神もかくやの美貌と卓越した演奏技術でその名を轟かせ、社交界をそれそれは美しく飛び回ったそうだ。
奏でる音楽同様、自由奔放なエヴリーンは数多の男性と浮名を流した後、二十四歳でアビゲイル達の父、ロレンスの情熱的なアプローチに絆され結婚した。結婚し子どもを産んでからも、母の自由奔放な言動は変わらず、夜会などに出れば沢山の信奉者たちが花に群がる虫のように寄ってくる。そう、目の前のこの男のように。
「積もる話もあるし、たまには夫人を連れてきてはいかがかな?鳥籠に閉じ込めてばかりじゃあ、いつか飛ぶことも出来なくなってしまう。鳥は空を自由に羽ばたくからこそ美しい」
「ご心配いただかずとも、鳥籠に鍵などかかっていませんので」
父は男を見つめ、意味深な笑みを浮かべた。
父は自由奔放な母を溺愛しているため、母の言動を咎めたり制限したりすることは無いが、それでもやはり愛する人に自分以外の男が近づくことは気分の良いものではないらしく、夜会には母を連れずにひとりで出席することが多い。母も母で、結婚前とは違いデッカー伯爵夫人として、立場に見合った振舞いを求められるのがあまり得意ではないらしく、それについて不満は無いらしい。
父に話しかけてきた男は、それを知らないのだろう。社交界では父が熱心にアプローチして母と結婚したことは有名だから、嫉妬の炎を燃やした父が母を軟禁しているとでも思っている人も多いのだ。
「そうかい?ならいいんだけど」
男はそう言うと、父の横にいた私達に視線を向ける。
「おや、これは失礼した。こんばんは、レディ達、それに君はクラーク家のご子息だったね?」
無視するわけにもいかず、私達は簡単に挨拶を返す。
「それにしても、アビゲイル嬢はエヴィーにそっくりだね。まるで生き写しじゃないか」
男が父に近づいてきた時から、ちらちらとアビゲイルに視線を向けているのには気付いていた。淀んだ色が男の唇から発せられる度、身体に巻き付いていくようでアビゲイルは気分が悪くなった。
「確かマリアベル嬢とは双子の姉妹だったよね。驚いたな、あまり似てない」
不躾に姉妹を見比べる視線を遮るように、ユージーンがマリアベルの前に立つ。
その咄嗟の行動にユージーンの今の気持ちが表れているようで、アビゲイルは思わず俯いた。
――どうしてマリアベルを庇うの?
そう思ったのはアビゲイルだけではないらしい。
「おや、クラーク公爵子息はアビゲイル嬢の婚約者だと思ったが……マリアベル嬢の婚約者だったのかな?」
「なっ……!私の婚約者はアビーです」
男の皮肉にユージーンがカッと顔を赤く染める。
自分でもまずいと気付いたのか、慌ててマリアベルから距離を取りアビゲイルの腰に手を回す。
アビゲイルは今すぐその手を振り払いたい衝動をこらえ、体を硬くした。
「アビー、ベル。喉が渇いているんじゃないか?あそこにあるピンクレモネードは侯爵家夫人お手製で旨いと評判と聞く。ユージーンと一緒に行ってきなさい」
「はい、ではこれで失礼します」
父が助け舟を出してくれたお陰で男から離れることは出来たが、三人の間には気まずい空気が流れている。
アビゲイルとマリアベルは双子の姉妹だ。とはいっても、二人の外見は全くと言っていい程似ていない。
姉であるアビゲイルはピンクブロンドの髪に菫色の瞳をした母、エヴリーンに色合いも顔立ちも、メリハリの利いたスタイルまでそっくりで、唯一違う点といえば、菫色の瞳の中に銀色の星がきらきらと輝いて見える点だけだ。
対して、妹のマリアベルは父親譲りのアンバーの髪と瞳をした少女で、一般的な基準で言えば十分美人であるが、貴族令嬢の中では容易に埋没してしまう容姿であった。
この容姿こそ、アビゲイルの大きな悩みであった。
お茶会や夜会で人前に出る度、母とそっくりなアビゲイルには沢山の視線が注がれる。大人しくしていても、男性からは纏わりつかれ、女性からは含みのある視線を向けられ遠巻きにされる。
年齢を重ねるにつれて、その状況はエスカレートし、特に男性から明らかに欲を含んだ色を向けられることが多くなってきた。
女神もかくやといわれた母の生き写しであるアビゲイル。
実際、母の昔の肖像画と鏡の中の自分を見比べてもよく似ていると思う。
母のかつての奔放な振舞いを、社交界は忘れてはいない。
アビゲイルはデッカー伯爵家の長女であり、将来は婿を取って家を継ぐ立場だ。決して母のように奔放ではないことを示すために、これまでずっと肌の露出は極力避けた、ともすれば質素な程シンプルなドレスを身に着け、華美を嫌い、人一倍マナーや言動に注意して生きてきた。
それでも周囲は『あのエヴリーンの娘』という色眼鏡でアビゲイルを見る。男性に色目など使った覚えもないのに、言いがかりをつけられることもしょっちゅうだ。
アビゲイルと違い、母ではなく父に似ているというだけで、マリアベルは一切そんな煩わしい出来事には巻き込まれていない。
同じ親から同じ時に生まれ、同じ家で育ったのに、ただ容姿が母に似ているというだけで貶められるアビゲイル。母を選んだこと以外は堅実と言われる父に似ているだけで、「あんなお姉さんがいて貴方も大変ね」と同情されるマリアベル。
アビゲイルは知っている。親戚連中の中には、母に似ているアビゲイルではなく、父に似たマリアベルを後継にすべきだと言う人間が少なくはない数いることを。
勿論父は相手にしていないが、アビゲイルが伯爵家を継いだところで苦労するのは目に見えている。
誰もアビゲイルの中身など見てくれない。
見てくれだけで判断し、アビゲイルの内面を見ようともしない。
だからこそ、アビゲイルにとってユージーンは特別だった。
アビゲイルとユージーンが婚約したのは十年前。アビゲイルは七歳、ユージーンは八歳だった。
その頃にはもう、アビゲイルは自分の目に見える色がどういう意味を持つのか感覚で理解していた。
音が色付いて見える。それが当たり前でないと知った時から、アビゲイルは周囲をよく観察し、色について考えるようになった。物が出す音は大体いつも同じ色。でも動物や人間は違う。その時々で例え同じ言葉を吐いていたとしても、色が違うことは多々あった。違いはなんだろうと考え、アビゲイルが行きついた結論は、感情によって色が変わるということだった。
怒っている人が吐く色は土砂降りの水溜りみたいな色。
悲しい人が吐く色は冬の空の色。
嬉しい人が吐く色は、教会の鐘の色。
声の色と言葉や表情が一致していない人は沢山いた。
あの人は笑っているけど悲しい色。あっちの人は怒っているけど本当は喜んでいる色。
そんな風に過ごす内に、アビゲイルは次第に人から向けられる色、人の嘘に敏感になっていった。
婚約者が決まったと父から聞かされた時、アビゲイルは怖かった。よくいるのだ。腕を組んで微笑みを浮かべているのに、淀んだ色ばかり吐いているカップルが。
自分もそうなるかもしれない。憂鬱な気持ちを押し殺して婚約者に会ってみれば、その不安はあっさり霧散した。
ユージーンは年頃の少年にしては、驚くほど素直な性格で、表情と音色が一致している数少ない人物だった。ユージーンがアビゲイルに向ける色は、純粋な好意が滲んでいて気持ちが良かった。
ユージーンはアビゲイルとマリアベルを比べて嘲笑したり同情したり蔑んだりしない。
いつも真っすぐな心根で向き合ってくれるユージーンの隣は心地よくて、アビゲイルはすぐにユージーンのことが大好きになった。
公爵家の優秀な二人の兄達と比べて地味で目立たないユージーンを揶揄し、アビゲイルと釣り合っていないと陰口を叩かれることもあったが、アビゲイルは気にしなかった。
あれから十年。出会った時からすっかり成長し、精悍な顔立ちの青年になった婚約者の横顔を眺める。
「アビー?飲まないのかい?」
ピンクレモネードを持ったまま、ぼうっとするアビゲイルの顔をユージーンが覗き込んだ。
背丈こそ伸びたものの、優しい眼差しも柔らかな物腰も笑った時にだけ出来る笑窪も、変わらずそこにある。
――変わったのは、それを向ける先が私だけじゃないってこと。
「ロレンス卿の言う通り美味しかったから飲んでごらんよ」
「ええ」
頷いて、レモネードを口に含む。
鼻に抜ける爽やかなレモンの香りとほどよい甘さが身体に染みていく。
「本当ね、とても美味しい」
「だろ?あっという間に飲み干しちゃったよ」
隣でマリアベルとユージーンが楽しそうに会話する。
「レシピを聞いたら教えてくれるかなぁ」
「秘伝のレシピらしいから、無理じゃないかしら」
「ちぇっ。じゃあ今の内におかわりしてこよう」
「私ももう一杯いただこうかしら。お姉様は?」
「私はまだあるから大丈夫よ。ふたりで行ってきて」
「すぐ戻るよ」
レモネードのテーブルへ仲睦まじく歩いていくふたりから目を逸らし、壁際のソファに腰掛ける。
途端に周囲からひそひそと話す声が耳に飛び込んでくる。
「ねぇ、やっぱりあの噂は本当なのかしら」
「どう見ても妹君の方が婚約者のようよね」
「先程ワルーイ侯爵と話されていた時見ましたかしら?マリアベル様を庇っているように見えましたわ」
彼女達の吐き出す色は汚い。嫉妬。蔑み。嘲笑。優越感。
耳を塞いでも、纏わりついてくる。
近頃、婚約者のアビゲイルではなく、妹のマリアベルとユージーンが恋仲なのではないかという噂が真しやかに囁かれているのはアビゲイルの耳にも入っていた。
幼い頃から、将来の義妹としてユージーンはマリアベルを可愛がっていたし、マリアベルも未来の義兄としてユージーンを慕っていた。ユージーンがデッカー家に遊びに来る際は、マリアベルも混ざって一緒にお茶をした。
そのバランスが崩れ始めたのはいつからだったのか、アビゲイルには分からない。
いつからか、マリアベルの声には明確な恋慕の色が見え始めた。それでもユージーンはアビゲイルの婚約者だ。ユージーンがマリアベルに向ける色は親愛の色。ユージーンはマリアベルの気持ちに気が付いていないようだった。
家同士が決めたことでもあるし、アビゲイルだってユージーンが好きだ。マリアベルには悪いが諦めてもらうしかない。マリアベルの気持ちに気が付かないふりをして、過ごして来た。
それなのに、いつからだろう。ユージーンがアビゲイルに向ける言葉の色に、淀んだシミが混じり始めたのは。アビゲイルへ向ける好意は確かにあるのに、所々淀んでいた。シミが増えるにつれて、なんとなくぎくしゃくすることが増えた。
アビゲイルがユージーンを繋ぎ止めようと努力すればする程、シミは増えていく。表面上は今までとなんら変わりないユージーンの態度に、アビゲイルは次第にどう接していいのかわからなくなった。
アビゲイルとユージーンの仲がぎくしゃくするのと反比例するように、いつしかマリアベルがユージーンの隣で楽しそうな笑顔を浮かべている姿を見ることが多くなった。
ただでさえ人目を集めやすい容姿のアビゲイルと婚約者の変化に、周囲が気付かないはずはない。
最近ではこうしてあからさまに噂されることも増えてきた。
今ではもう、ふたりを見るのが辛いとさえ思う時もある。
ユージーンは気付いているのだろうか。
妹へと向ける言葉の中に、かつて彼がアビゲイルに向けていた色が滲んでいるということを。
苦い思いを流すように、アビゲイルはそっとグラスの中身を飲み干した。