17 riverbero(2)
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アルトゥーロが出ていって学園付きの医務官の男性が間もなく戻って来た。彼は一通り診察した後、やはりアビゲイルの声が出ないことを確認すると、部屋の隅に置かれた机の引き出しからノートとペンを取り出し、アビゲイルに渡してくれた。
「筆談は出来るかな?」
医務官の問い掛けに頷き、未だだるさの残る身体を起こしペンを握る。
《治療、ありがとうございます》
遠慮がちにペンを走らせたアビゲイルに、医務官の男が微笑んだ。
「私は何も。お礼ならそこの彼と、貴方のご友人に」
そこの彼というのはアルトゥーロだとして、私の友人……?
思い当たる人物がいない。首を傾げつつ、ベッドサイドに立つアルトゥーロに向かってぺこりと頭を下げる。
貴族の令嬢として礼を欠いているが、身体が思うように動かない上に声も出ないのだから仕方ない。
医務官の彼によると、発熱はあるがアビゲイルの身体自体に問題は無いだろうとのことだった。森の中を歩いた際に草木によって傷つけ等れた膝下も、湿布を巻いていれば傷も残らず綺麗に治るだろうとのことだった。
死んでもいいと思っていたくせに、いざ傷が残らないと聞いてほっとしてしまった自分がいる。
「熱が出ているのは疲れと、長時間濡れていたせいだから暫く休めば問題ないよ。問題は声たけど、声が出ないのは恐らく……強い精神的ショックや過度のストレスによるものだろうと思う」
彼は学園に常駐している医務官だ。このところ学園中で囁かれているアビゲイルの醜聞も耳に入っているのだろう。気まずそうに目を伏せた。
それまで黙っていたアルトゥーロが口を開く。
「医務官殿。彼女の声は、もう戻らないのですか」
アルトゥーロの問いに、医務官の男は苦い顔をした。
「一時的かも知れないし、この先ずっとかも知れない。今の状態では、私には正直何とも言えない。詳しい検査を勧めはするが、身体というよりも精神の問題だからね。出来るだけ心穏やかに過ごせる環境で過ごし、様子を見るしかない、という結論しか……」
どこか申し訳なさを滲ませる彼は、精密検査をするのならば、知り合いの医師への紹介状も書いてくれると言ったが、それが有効な解決法だと考えていないのは傍目にもわかった。
王侯貴族の通うこの学園に常駐している医務官は、学園ではなく国に雇われている。詳しくは知らないが、国お抱えの医務官には、医師の資格を持つものの中でも一握りの優秀な人しかなれないと聞いたことがあるので、きっと彼の見立ての通りなのだろう、とアビゲイルは納得した。
それにしても、アルトゥーロと医務官の彼の話によると、自分は昨日の夜助けられてから現在までほぼ丸一日寝ていたという。
アビゲイルの位置からは窓の外は見えないが、壁に掛かった時計を見ると今はもう夕方。
父は昨日、自分を「明日領地へ送る」と言っていた。侍女にも学園に荷物を取りに帰るとしか告げていないので、今頃騒ぎになっていないといいのだが。
ペンを持ったまま、傍らのアルトゥーロを見つめる。話したいことがあると察したのか、医務官の男はアビゲイルに少し席を外すと断って部屋を出て行った。
アビゲイルはアルトゥーロに視線でベッド脇の椅子に座るよう促すと、少し悩んでからペンを走らせた。
何故この学園の生徒でも教師でもないアルトゥーロが?という疑問はあるが、ひとまず助けて貰った御礼を言うべきだろう。
《助けてくださり、ありがとうございます》
「あ、ああ、うん。」
《申し訳ないのですが、私の家から連絡がありましたか?》
「ルーセント公を通して昨日の内に伯爵家には連絡してある。心配しなくていい」
またしてもルーセント公爵に迷惑を掛けてしまった。到底返せそうにない恩だけが積み重なっていく。内心で頭を抱えつつ、アビゲイルは表向き冷静な表情で頭を下げた。
《何故、助けてくださったのですか》
「……厳密に言うと、君を助けたのは私ではない。エイミー嬢だ。夜の湖に飛び込んで、君を引きずり上げたのは彼女だ」
先程医務官が言っていたことは本当だったらしい。
しかし、どうしてエイミーが?
二人の仲が決裂して以降、エイミーとはまともに言葉を交わしたことすら無い。
自分を湖から引き上げた、ということは、あの場所にエイミーも行ったということだ。湖は予想していたよりも森の奥にあり、決意を固めて向かったアビゲイルでさえ、分け入るのを躊躇ったくらいだ。
アビゲイルはともかく、そもそも何故エイミーはあんな場所に?
そこまで考えて、アビゲイルははっと気付いた。
そうだ。あの場所は元々は、恋人たちの場所として有名なスポットなのだ。エイミーが湖へ行き、学園と関わり無いアルトゥーロがここにいる理由。
そこから導き出される答えはひとつしか無いではないか。
アビゲイルの知るエイミーはオリバーの表の顔しか知らず、幼馴染みの彼を一心に慕っていたが、あの事件を切欠にオリバーの裏の顔を知ったのだ。
アルトゥーロは色気のある美男子だ。貴族令息に有りがちな傲慢さも無く、思いやりがある。失恋したばかりのエイミーがコロリといってもおかしくはない。
そんなアビゲイルの内心を知らないアルトゥーロは、ひとり納得したように頷く彼女を不審そうに見ている。
少し考えて、アビゲイルは手を動かした。
《私の代わりに、エイミー嬢にお礼を言っておいていただけますか》
エイミーは恐らく、自分とは関わり合いになりたくないだろう、と思っての言葉だった。
「……エイミー嬢には君が直接御礼を言った方がいい。彼女は君に……ともかく、私を通してではなく、直接話をするべきだ。友人なんだろう?」
アルトゥーロの思いがけない言葉に、アビゲイルは曖昧な表情を浮かべるに留めた。
疎遠になってから随分と経つが、それを此処でアルトゥーロに説明するのはなんとなく憚られた。
エイミーは、かつての友人は、一体どんな気持ちでアビゲイルを助けたのだろうか。
「それから、これは俺が勝手にしたことだから嫌なら断ってくれて構わないんだが。暫く、ルーセント公爵家に世話にならないか?」
……え?
アルトゥーロの提案に、アビゲイルは目を瞬いた。
「その……実はあれからずっと君の様子が気に掛かっていて、その……婚約が解消になったのも知っている。師匠のコネで滞在している身分の俺が図々しいかと思ったんだが、君は少し伯爵家から距離を置きたいのではないかと思って、昨日の内に相談したんだ。シェリー嬢も君のことを気に入っているし、公爵も好きなだけ滞在して構わないと言っている。君の気持ち次第だが、俺は……君の身体のためにも、そうした方が良いと思う」
自らへまっすぐ視線を向けるアルトゥーロに、アビゲイルはなんと答えてよいか分からなかった。
本来なら、自分は既に領地に送られている筈だったのだ。既に揉み消すことの出来ない程の醜聞に塗れている自分は、今度のことが知られればそのまま伯爵家で飼い殺しになる未来しか見えない。
――もし、もしデッカー家から離れられるなら。
迷惑を掛けると分かっていても、今のアビゲイルにはその提案を即座に断ることが出来なかった。
「それとも、君は伯爵家に帰りたい?」
ここ最近の記憶がアビゲイルの頭を巡る。
妻にしか興味ない父。
自由奔放な振舞いを続ける母。
自分から全てを奪った妹。
そしてその妹に気を移した婚約者。
涙が一筋零れた。
死ぬほど、帰りたくなかった。
だから暗い森を抜け、湖を訪れたのだ。
アルトゥーロも医務官も、アビゲイルが何故あの場所にいたのか触れない。
不埒者に襲われた上、婚約破棄に後継者の変更。
それだけでも大変な醜聞なのに、自殺を図ったとなれば貴族社会でこの先まともに生きていけなくなることが分かっているから、何も言わないでいてくれるのだと分かっている。
《帰りたく、ないです》
ノートに落とした文字は、涙で滲んでいた。
***
あっという間にいつの間にか諸々の手続きがなされ、気付けばアビゲイルは夜会の日以来のルーセント公爵家の玄関にいた。
傍らにはアルトゥーロが立っている。
「アビゲイル!いらっしゃい!」
案内されるまま客間へ向かうと、シェリーと父親の公爵が待っていた。
声が出ないので、代わりに深く頭を下げる。
「アビゲイル嬢、顔を上げなさい」
顔を上げると、公爵が優しい眼差しでアビゲイルを見つめていた。
「君の事情はアルトゥーロから聞いている。声が出せないそうだね。無理に話そうとしないで大丈夫だから、まずは私の話を聞いてくれるかな」
頷くと、そのままソファーに促される。テーブルを挟んで向かい側に公爵、その隣にシェリーが座り、アビゲイルの隣にはアルトゥーロが腰を下ろした。
夜会の日にも感じていたが、室内は重厚で歴史を感じさせるのに古臭くなく、それでいて洗練された調度品があちこちに置かれている。
現国王の弟であるルーセント公爵は、王子時代から芸術分野に造詣が深いことで有名だった。国王陛下に息子王子が生まれ臣下に降ってからも、多くの芸術家を支援している。だからこそ、マエストロ・グレゴリオもルーセント公爵家に滞在しているのだろう。
「君の立場は聞いている。直接公爵家が何かしたわけではないが、夜会での凶行を止められなかったことに端を発しているのは間違いない。すまなかった」
自分のような小娘に突然頭を下げる公爵にアビゲイルは慌てた。公爵家で開かれた夜会で自分が襲われたのも、妹と婚約者の不貞が露呈してのも事実だが、そのいずれにも公爵には何の非も無い。
「お父様、アビゲイルが困っているわ。ねぇ?」
声が出ないためおろおろとするばかりのアビゲイルを見て、シェリーが呆れた様子で助け舟を出してくれる。こくこくと頷くと、公爵は漸く頭を上げてくれた。
「君を預かることについては昨日の内にデッカー伯爵とも話がついているから、安心して好きなだけ滞在してくれていい。暫くは自由に過ごして構わないが、外出する時は知らせてくれ。それと、うちにいる間は侍女をひとりつけるので何かあれば遠慮なく言ってくれ」
公爵は振り返ると、部屋の隅に待機していたお仕着せ姿の女性を一人呼び寄せた。
今のいままで、彼女の存在に気付かなかった。一流の使用人は空気のように存在感を消すことが出来ると聞いたことがある。きっと優秀な方なのだろう。
「ヘイゼルだ。武術も嗜んでいるから、護衛も出来る。外に行くときは彼女も必ず連れていってほしい」
公爵が紹介すると、ヘイゼルと呼ばれた女性は軽く会釈をした。茶色の髪をひとつに縛り、結ばれた薄い唇は冷たい印象を抱かせるが、瞳には誠実そうな光が輝いている。
《お気遣いありがとうございます》
用意していたメモに書きつけ、公爵に見せると頷いてくれた。その後はまだ体調が万全でないだろうから休むといい、と言われ、案内されるまま客室に連れられた。
途中、シェリーが終始何か言いたそうな顔をしているのが気になったが、それ以上何かを言うことはなかった。
***
「お父様、何も言わないつもり?」
アビゲイルが去った後の応接室では、不機嫌そうなシェリーと公爵が向かい合っていた。
「仕方ないだろう。彼女は先程目が覚めたばかりだぞ?それでなくともこの所辛い状況にあったのだ。今は何も考えずに休ませてやるべきだろう」
「でも……」
公爵の言い分は尤もだと分かってはいるが、この状況に納得出来ないシェリーはひとり口を尖らせた。
アビゲイルには知らせていないが、実はアビゲイルの寮の自室に置いてあった遺書めいた手紙を密かに読んだシェリーは、回収した手紙を片手に昨日の内に公爵を連れデッカー家に乗り込んでいた。
アビゲイルを湖から助けた彼女の友人らしい伯爵令嬢が、医務官に頼まれアビゲイルの着替えを取りに行った際、手紙を見つけていた。手紙を読んでしまった彼女は泣き崩れ、涙ながらにアビゲイルへの謝罪を口にしていたという。
苦い顔のアルトゥーロからアビゲイルの保護を頼まれたシェリーは、アビゲイルの状況を知って激怒した。元来正義感も強く、家族に恵まれ大切にされたきた自覚のあるシェリーには、デッカー夫妻やアビゲイルの妹であるマリアベルの行いは到底許せるものではなかった。
きっちり釘を刺したにも関わらず、アビゲイルを身勝手に傷つけた愚かな公爵令息も妹ものうのうとしているのに、アビゲイルを領地へ追いやり厄介払いしようとしているとは。それでも親のすることなのか、と、怒りにまかせ伯爵家の門を叩いた。
普段なら止める父公爵も、今回ばかりは苦い顔をしながらシェリーを止めることは無かった。
先触れなくやってきたシェリーからアビゲイルの手紙を叩きつけられたデッカー伯爵は、その場で崩れ落ちた。「そんなつもりはなかった」と壊れた機械のように繰り返し呟いていた。
聞けば、ユージーンと婚約解消になったアビゲイルをクラーク公爵が娶ろうと画策しているのだという。あまりにも恥知らずな行動に眩暈がした。
とてもこの家にアビゲイルを置いておくわけにはいかない。
項垂れるデッカー伯爵を前に、暫くの間うちで預かる、と宣言したシェリーを、父の公爵も止めなかった。
公爵は公爵なりに、デッカー伯爵に対して思うところがあるらしい。怒り狂ったシェリーが怒涛の勢いで伯爵のアビゲイルの自室の荷物を使用人にまとめさせている間、何やら二人で話し込んでいた。
「ねぇ、何を話していたの」
帰りの馬車の中、尋ねてみる。
「前々から少し、気になっていたことがあってな」
「気になっていたこと?」
「……シェリー、お前はアビゲイル嬢が男を誑かしたり、みだらなドレスで遊び歩いているところを見たことがあるか?」
妙に真剣な表情の公爵の言葉に、シェリーは記憶を辿る。
アビゲイルとまともに話したのはつい先日の夜会が初めてといっていいが、存在自体は以前から知っている。彼女程目立つ容姿の令嬢も中々いない。よくも悪くも、アビゲイル・デッカーの名前は社交界では有名だった。噂話に疎いシェリーでも、アビゲイルの名前は幾度も耳にしたことがある。
「お父様がどう思っているかは知らないけれど、私は見たことないわ。そもそも彼女、夜会にすら殆ど顔を出さなかったじゃない。たまに見かけても婚約者――いえ、もう元婚約者ね――の野郎以外とはダンスすらしなかったみたいだし、いつも壁際に佇んで既婚者みたいに襟の詰まった袖の長い地味まドレスを着ていると思ったけど」
実際、先程デッカー家の使用人にアビゲイルの当面の着替えなどを荷造りさせた際も、クローゼットの中は地味な色合いで首元まであるドレスばかりで、まるで母親世代のクローゼットのようで驚いたくらいだ。容姿が飛びぬけて美しいため、これまで彼女の姿を見かけても変に思ったことは無かったが、他の令嬢が着ていたらセンスが無いと嘲笑されてもおかしくないラインナップだった。
シェリーの返事を聞いた公爵は暫くの間、じっと考え込んでいたが、屋敷に着く直前シェリーに尋ねた。
「次にアンドリューが来るのはいつだ?」
「えーと……明後日結婚式の打ち合わせがあるけれど」
「そうか。では、打ち合わせの後私の部屋に来るよう伝えてくれ。少し頼みたいことがある」
「アンディに頼みたいこと?お父様が?」
末娘のシェリーがアンドリューに嫁入りするのを一番渋ったのが公爵である。叙爵して正式に二人の仲を認められてからはそれなりに良好な関係ではあったが、先日シェリーが身籠っていることが発覚してから、父親とアンドリューの間に緊張が走っていることは流石のシェリーも感じ取っているため、思わず眉を寄せる。
「そんな顔をするな。取って食おうというわけじゃない。薬草のことで相談したいことがあるだけだ」
「………虐めないでよね?」
シェリーの言葉に、公爵はやれやれと肩を竦めた。
前回投稿より大幅に空いてしまってすみません。
元々夏は弱いのですが二週間程原因不明の発熱が続いてへばっておりました。
徐々に復活してきたのでコンスタントに投稿出来ればと思います。
暑いので皆様も体調にお気をつけ下さい。