14 dissonance(2)
読んでいただきありがとうございます。
昨日投稿できず申し訳ありませんでした(熱中症?気味で気が付いたら意識飛んでました……皆様もお気をつけ下さい)
王都の伯爵家の屋敷に戻ったロレンスは、その足でそのままエヴリーンとマリアベルを連れ執務室に向かった。
出迎えた家令は剣呑な雰囲気を漂わせるロレンスとエヴリーンの白い顔、打たれた頬に手を当てすすり泣くマリアベルという尋常でない様子から、夜会で何かがあったことを察したらしい。
アビゲイルは恐らく数日戻ってこないこと、今から執務室に籠もることになるが呼ぶまで誰も寄せ付けないように告げると得心したように頷いた。
ついでに、ここ最近の学園や屋敷内での娘たちの様子を調べておくように指示しておく。
「マリアベル、お前は一体どんなつもりで姉から婚約者を寝取ったんだ?跡継ぎではないお前は政略結婚などせず、好いた男と一緒になればいいと思い、お前には婚約者は作らなかった。お前もそれを望んでいただろう。相手を探すためとお前は度々夜会にも行っていたのは何だったんだ?奴と密会でもしていたのか?恥知らずにも、好きな男を選べばいいと言われたから姉の婚約者を寝取ってもいいと?」
「そ、そんな……寝取るだなんて……わ、私は……」
怒気の籠もった低い声で睨みつけると、マリアベルは目に見えて蒼褪めていく。
未だかつて、娘にこんな声も視線も向けたことは無かった。それまではさめざめと泣いてはいても、どこか余裕が垣間見えたマリアベルだが、ここに来て漸くロレンスの怒りの深さに気が付いたのだろう。
言い訳しようと出した声は直ぐに萎み、小さく震えている。
「言い訳はいい。先程からお前のそのだらしない服装や化粧が物語っている。目撃者もいる。それで?いつから、どういう経緯でそうなったと言うんだ?」
ロレンスの鋭い視線を受けたマリアベルは、震える声でぽつぽつ話し出した。
物心ついた頃からユージーンのことが好きだった。
夜会に行って他に好きになれる人を探そうとしたが見つからなかった。
諦めようと思ったが、ユージーンにアビゲイルよりもマリアベルと話している方が落ち着くと言われて嬉しくなってしまった。
自分が気持ちを伝えたら、ユージーンも応えてくれた。
自分たちは両想いだ。アビゲイルは別にユージーンに恋しているわけではないし、いずれ自分は家を出ていくのだから、二人が結婚するまでの間だけ、期間限定の恋人として過ごすつもりだった。
マリアベルの口から語られる身勝手な言葉は、自分の娘の言葉だとは信じたくないようなものだった。
――姉の婚約者と期間限定の恋人だと?ふざけるにも程がある。
めそめそと泣くマリアベルの姿を視界に入れることすら不快だった。
「泣くな。お前に泣く資格は無い」
家令を呼び、マリアベルを部屋で謹慎させるよう指示する。
今後のことを考え、ロレンスは頭を抱えた。いつも溌剌としている彼の愛妻は、隣で抜け殻のようになっている。
アビゲイルとユージーンの婚約解消は間違い無い。本来であれば元凶のマリアベルは今すぐに問答無用で修道院に送られてもおかしくない。
だが……。
ロレンスは苦い顔で大嫌いな男を思い浮かべた。
ユージーンの父――サミュエル・クラーク。
現公爵家の当主で権力欲と支配欲に取り憑かれた野心家だ。
そもそも三男坊とはいえ、クラーク家が格下も格下のデッカー家に婚約を申し込んできたのは、幼いユージーンの一目惚れが切っ掛けだが、父親であるサミュエルが息子の我儘を認めたのは、ユージーンの行く末に多少なりとも不安を抱いていたからだろう。
サミュエルにはユージーンの他に二人の息子がいる。
長男で次期当主のジョセフに次男のシリル。ジョセフとシリルは二歳差だが、ユージーンと長兄のジョセフは十も年が離れている。
ジョセフは既に結婚して妻子とクラーク領に暮らし、実質的な公爵領の運営を任されている。シリルは優秀さを買われ王太子の右腕として王宮勤めをしている。
幼少時から才気煥発な兄二人に比べ、年齢差を抜きにしてもユージーンは明らかに見劣りしていた。
兄二人が父であるサミュエルと亡くなった母の良いとこ取りした眉目秀麗な容姿であるのに比べ、ユージーンはそれなりに整っているものの、どこかぼんやりとした印象の顔立ちだった。
勉強や武術に関してもそうだ。兄二人は幼い頃から利発で、己の置かれた立場や求められる責務を正しく理解していた。公爵家の跡取りであるジョセフも、学生時代から王太子に重用されていたシリルも、奢ることなく努力を続け、飛び級で学園を卒業した。
立場上、自らの足で様々な場所に赴くことの多い二人は、自分の身は自分で守らなければならず、剣術や体術も手を抜くことは無かった。
一方、ユージーンは末子であるせいなのか、のんびりとした気質で、穏やかな性格は好印象であるものの、勉学も武術に関してもこれといって秀でたところは無かった。
普通三男ともなれば、早い内から自分の身の振り方を考えるものだ。貴族家に生まれた次男坊以下が貴族として生きていこうとするならば、文官か騎士を目指すか、爵位を継ぐ令嬢と結婚し婿入りするか、だ。
サミュエルは末子であることもあって兄弟の中ではユージーンを最も可愛がっていた。
そのサミュエルから見ても、ユージーンの将来は不安を覚えるものだったのだろう。自らの力量で身を立てる文官や騎士はユージーンには無理だと早い時点でサミュエルは判断を下した。
だからこその、アビゲイルへの婚約の打診だったのだ。
ロレンスの個人的な感情では、大事な娘を傷付けたユージーンなど、絶対に伯爵家に迎え入れたくない。
けれど、大事な娘を傷付けたもう一人の人間もまた、自分の娘なのだ。
クラーク家にしてみれば、ユージーンが婿入りさえ出来れば、相手がアビゲイルだろうがマリアベルだろうがどちらでも構わないと言ってくるのは明白だった。
それはつまり、何の落ち度も無いアビゲイルから、後継の座までをも取り上げるということだ。
マリアベルとユージーンの不貞現場は多くの人間が目撃している。修道院に入れずとも、今後マリアベルにまともな縁談は期待出来ないだろう。
此処でクラーク家との縁を切ったところで、ユージーンもアビゲイルもマリアベルも、全員が行き場を失くし不幸になるだけなのだ。
八方塞がりの状況に、ロレンスは頭を抱えた。
***
クラーク家との話し合いを控えた朝、ロレンスは家令から受け取った報告書を手に呻き声を漏らした。
自分の知らないところで、随分と前からマリアベルとユージーンは恋仲だと噂されていたらしい。シェリー嬢の言う通りだったのだ。忙しさにかまけ、異変に気が付かなかった自分が恨めしい。
眉を顰めたのはそれだけでは無い。
昔から根拠のない悪評に晒されていたアビゲイルだが、ここ数年の噂のされ方は異常だった。報告に挙げられているのは、妙に具体性を伴った噂ばかり。
妹と恋人の中を引き裂いておきながら、自分は夜な夜な宿屋で男と密会しているだとか、仮面舞踏会の常連で自分から積極的に誘い男を個室へ連れ込んでいるだとか、怪しげな賭博場に出入りしているとか……。
実際にアビゲイルを目撃したと言っている者も複数いるらしい。
アビゲイルにそんな時間はない筈だ。元々社交的とは言い難いアビゲイルは、学園の行き帰り以外は普段殆ど外出しない。学園から帰った後は次期当主としての勉強に時間を充てており、夜間に出かける状況などありえない。
いくらエヴリーンを彷彿とさせる姿をしているからといって、ここ数年の噂のされ方はどうも異常に思える。意図的に悪意を持ってアビゲイルを貶めようとする意志を感じる。
「これは、詳しく調べる必要がありそうだな……」
身内である自分は紛れもなく根も葉もない噂だと分かるが、周囲の人間がこれを信じていたとすればアビゲイルはどれほどの悪意に晒されていたのだろう。
苦い思いを抱えたまま、夜は更けていく。
***
翌朝、執務室に籠るロレンスにクラーク公爵サミュエル卿の来訪が告げられた。予想通り、ユージーンは公爵家で謹慎させているそうで、サミュエルひとりでの訪問だった。
形ばかりの謝罪をされた後、サミュエルがしてきた提案はロレンスの予想通り、マリアベルとユージーンを新たに婚約させ、伯爵家を二人に継がせる、というものだった。
既に両家の醜聞は広まっているため、クラーク家にとっても、デッカー家にとっても、それが一番傷が浅く済む合理的な選択だとは分かっている。少なくともユージーンとマリアベルは路頭に迷うことが無い。
問題は悪評が囁かれているアビゲイルだ。事実無根とはいえ、悪女のイメージがついてまわるアビゲイルは、今回の醜聞が広まれば国内で釣り合うまともな相手を見つけるのは絶望的だ。
しかし、アビゲイルには美しい容姿と、これまで身に着けた淑女としての振る舞い、高位貴族としての知識がある。他国にまで範囲を広げれば、根拠のない悪評など気にせず、アビゲイル自身を見てくれる男性も見つかるかも知れない……。
伯爵家を担う主として出すべき結論は既に出ている。
けれど、その選択はこれまで努力してきたアビゲイルを、アビゲイルの人生そのものを切り捨てるようなことで、何の罪もないアビゲイルを辛い状況に追い込むことを一人の父親としては容認するわけにはいかなかった。
押し黙るロレンスに、サミュエルは驚くべき提案をしてきた。
「……今、なんと?」
信じがたい言葉に目を丸くするロレンスに、サミュエルは厭らしい笑みを向けた。
「だから、せめてもの詫びにアビゲイル嬢は私が引き受けると言っているのだよ。私と結婚すればアビゲイル嬢は公爵夫人だ。不肖の息子のしでかしたことでもある。傷物になった彼女にこれ以上の良縁があるかね?」
あまりにも恥知らずな申し出に、ロレンスの視界は真っ赤に染まった。あまりの怒りに身体が震える。衝動的に握った拳でサミュエルを殴りつけなかった自分を褒めてやりたい。
サミュエルの妻は、末息子のユージーンを出産した後、産後の肥立ちが悪く亡くなっている。以来、数多の女性と関係を持ちながらもサミュエルは独身を通していた。
ロレンス以上の歳であるサミュエルはアビゲイルに、自らの後妻になれと言っているのだ。
ニヤニヤと笑みを浮かべるサミュエルを見てロレンスは悟った。ロレンスやエヴリーンが考える以上に、サミュエルという男はエヴリーンに……その容貌に執着を抱いていたのだ。エヴリーンが自分と結婚したことで諦めたのだと思っていたが、そうではなかった。
今やアビゲイルはエヴリーンそっくりの、いや、それ以上の美貌を持つ令嬢に成長している。頭から爪先まで、舐めるように娘を見る過去のサミュエルの姿を思い出し、鳥肌が立つ。
それだけはなんとしてでも阻止しなければならない。
整った顔をしているのにも関わらず、これ以上無い醜悪なサミュエルの笑みに血の気が引いていく。サミュエルに引くつもりが無いのは明らかだった。
結局話し合いは平行線を辿り、最終的にマリアベルとユージーンの婚約と次期当主の変更については呑まざるを得なかったが、アビゲイルをサミュエルの妻に、との打診だけは断固として受け入れなかった。
「アビゲイルを貴方の後妻にすることだけは絶対に無い」
怒りに打ち震えるロレンスの視線を、サミュエルは涼しい顔で受け流す。
「そう言っていられるのも今の内だと思うがね」
クラーク家の置かれた状況はデッカー家と同じく明るいものではない。にも関わらず、スキップでもしそうな軽い足取りで帰っていくサミュエルの姿を憎々し気に見送った後、ロレンスは急ぎクラーク領で領主代行を務めているサミュエルの長男ジョセフへ手紙を書いた。
同時に、王宮に滞在している次男のシリルにも手紙を飛ばす。
公爵家の実権の殆どは既に息子のジョセフへ移行しているとはいえ、正式な公爵位は未だサミュエルにある。支配欲の強いあの男は、自分が死ぬその瞬間まで爵位を手放すつもりは無いと公言している。その権力を使って何か仕掛けて来られれば、伯爵位に過ぎないデッカー家はそれが如何に理不尽で恥知らずな行いでも、拒否出来ない可能性がある。
アビゲイルは圧倒的な被害者だ。本来ならばこんな悍ましい申し出は万が一にも受ける可能性は無い。
けれど、デッカー家のもう一人の娘のマリアベルは加害者でもあるのだ。公爵家に圧力を掛けられれば家の存続にも関わってくる。
もしかしたら、とロレンスの頭を、ぞっとするような考えが過る。
サミュエルはロレンスと違い、ユージーンの不貞を以前から知っていたのではないだろうか。
知っていて、こうなることを望んで放置していたのだとしたら。
アビゲイルの悪意ある噂に、サミュエルが関わっているとしたら。
……考えるだけで背筋が寒くなる。
これ以上アビゲイルを不幸にするものか。これ以上、アビゲイルの心も身体も、傷つけることはあってはならない。
***
婚約破棄に伴う手続きに追われていると、公爵家からアビゲイルが帰宅したとの知らせが入った。
あの夜会の後、高熱が出て寝込んでいたと聞いた。額に巻かれた包帯が痛々しいが、頭を打ち付けられた後遺症などは今の所見られないことにホッとした。
最後に姿を見てから三日しか経っていないのに、もう随分と会っていないような気がする。
そもそも、アビゲイルの屈託ない笑顔を最後に見たのはいつだっただろう。
記憶を探っても、憂いを帯びた表情を浮かべるアビゲイルしか思い浮かばない。ここ何年も普段から多忙を理由にまともに娘たちと向き合って来なかった。愛妻との時間を優先してきたことに後悔は無いと、これまでは思っていた。
けれど、自分は自分が思うよりずっと多くの物を見落としてきたのではないだろうか……。
本来ならば、恐ろしい目に遭った娘を労わり、休ませてやるべきだ。もう大丈夫だ、何も心配いらないと、抱きしめてやれるものならそうしたかった。
それなのに、自分は今から残酷な決断を伝えなければならない。
結局、中々切り出せないロレンスに、アビゲイルの方から言わせてしまった。
アビゲイルは全て知っていた。マリアベルと婚約者の関係を、知っていて、苦しんでいたのだ。
せめて、一言でも自分に相談してくれていれば……。
そんな思いを吐き出したロレンスは、アビゲイルから返された言葉に今度こそ言葉を失った。
「……相談していたら、何かしてくれたのですか。祖父母の反対を押し切って溺愛する母との結婚を押し通した貴方に」
愛を免罪符に自分たちの行為を正当化してきた両親に、相談なんて出来るわけが無い。
アビゲイルの瞳に射抜かれ、ロレンスは顔を上げることが出来なかった。
因果応報。自分や、妻の取って来た行動の結果が、アビゲイルからその選択肢を奪ったのだ。ロレンスは初めて、過去を振り返り羞恥を感じた。
聡いアビゲイルは、既にロレンスが伯爵家当主として下す決断を理解していた。
とてもこの家にいられない、とばかりに、学園の寮に入ると言って出ていく娘を見送ることしか出来ない。
本当であれば、サミュエルの件も伝えて注意するよう促すつもりだったが、婚約者も後継の座も妹に譲れと言った後で、サミュエルの悍ましい提案についてなど、とても伝えることは出来なかった。
サミュエルの長男、ジョセフに手紙を出したのは、彼が自身の父親の恥知らずな行為を知れば、必ず阻止に動くと確信があったからだ。しかし、現在ジョセフはクラーク公爵領で生活しているため、彼の元に手紙が届くのはどんなに急いでも三日、往復で考えると六日だ。
せめて次男のシリルだけでも、と王宮まで馬を走らせたが、タイミングの悪いことに仕事で王都を留守にしている最中だった。
一週間後、漸く事態を把握したジョセフから連絡を受け、ロレンスはアビゲイルの安全を確保するため、暫くの間アビゲイルを領地に滞在させることに決めた。心理的負担を考え、サミュエルの申し出については伝えないことに決めた。荷物を纏めるように指示すると、アビゲイルは焦点の定まらない目でふらふらと部屋を出て行った。
翌日、伯爵家に届いた知らせに、ロレンスはその決断を生涯悔やむことになる。




