13 dissonance(1)
読んでくださりありがとうございます。
父ロレンス視点。
長くなったので二話に分かれてます。続きは明日更新予定です。
溺愛する妻が産んだ二人の愛娘のひとりが去っていく背中を、ロレンス・デッカー伯爵はじっと見つめていた。華奢な背中が消えていった後も、扉を見つめ続けるその瞳は愛娘の今後を案ずる不安に揺れていたが、それを知る者は誰もいない。
事の起こりは数日前に臣籍降下した王弟ルーセント公爵の屋敷で開かれた夜会だった。王弟の溺愛する末娘、シェリー嬢の婚約披露のため開かれたその夜会には、国内の有力貴族の殆どが招待されていた。ロレンスはデッカー伯爵として招かれていたが、いつの間に仲良くなったのか、シェリー嬢からわざわざアビゲイル宛にロレンスとは別に招待状が届いたことには驚いた。
精々面識がある程度の関係だと思っていたが、何処かで関わる機会があり特別仲良くなったのかも知れない、と、その時は軽く考えていた。
今から考えれば、わざわざシェリー嬢が宛先を分けて招待状を送ってきた理由をよく考えるべきだったのだ。
この時点で既に、アビゲイルがひとり苦しんでいたことなど、父親であるロレンスは何も知らなかった。ロレンスの頭の中は良くも悪くも、この世で最も愛する妻、エヴリーンでいつも占められているからだ。
ロレンスと妻エヴリーンは、貴族には珍しい恋愛結婚だ。それも貴族社会では知らぬ者がいない程熱烈な。
エヴリーンに出会う前のロレンスは、スペアとしての価値しかない伯爵家の次男坊で、容姿も平凡なら能力も平凡、性格は四角四面で面白味に欠ける、誰からも注目されない貴族令息そのものだった。
自分の分を弁えていたロレンスは、貴族社会で成り上がってやろうという野心も無く、兄が伯爵家を継いだ後は、文官になるか、平民になって何処かの商家にでも就職するつもりだった。
学園を卒業後は運よく王宮の文官採用試験に合格し、職場の近くで安い集合住宅の一室を借りひとりで暮らしていた。女遊びも賭け事もしないロレンスの生活は華やかさの欠片も無く、ただ同じ毎日が延々と繰り返されていくだけで、こうして死ぬまで自分は単調な日々を送っていくのだろうと思っていた。
エヴリーンに出会ったのは、そんな生活を五年程続けた時だ。隣国の裕福な商家のご令嬢だという彼女は、豊かに波打つくピンクブロンドの髪と、宝石にも劣らないきらきら輝くアメジストの瞳が視線を捉えて放さない、大変な美女だった。
滅多に夜会に参加することの無いロレンスは、エヴリーンの姿を見るなり一目で恋に落ちた。彼女は気鋭のピアニストとして夜会に参加しており、見事な演奏を披露した。白魚のような華奢な指で透き通る音色を会場中に響かせる彼女は、音楽の女神そのもので、全身に鳥肌が立った。演奏中とは別人のようにくるくると表情を変え、好奇心いっぱいの瞳で談笑するその姿は会場中の男を虜にした。
彼女に出会ったその日から、ロレンスの人生は一変した。
寝ても覚めても思い浮かぶのは彼女のことばかり。あれ程敬遠していた夜会やちょっとした貴族の集まりなど、エヴリーンが行きそうなあらゆる場所に頻繁に顔を出すようになった。エヴリーンに毎回会えるわけでも無く、漸く会えても他の男たちに阻まれ話すら出来ないことはざらだったが、決して彼女を諦めようとは思わなかった。
ロレンスの知る貴族の令嬢と違い、裕福とはいえ平民出身の彼女は奔放だった。彼女なりの選定基準はあるようではあったが、ロレンスも含め複数の男性の好意を同時期に受け取っていたのは確かだ。上流階級の女性たちには阿婆擦れ、尻軽と陰口を叩かれていたが、エヴリーン本人は全く意に介していなかった。
美しい彼女には、様々な男性が羽虫の如く群がる。大金持ちもいれば、誰もが目を引く美男子もいた。自国の王子や高位貴族の令息、勇敢と名高い騎士……ロレンスなど塵芥にしか思えない程の身分も資産も将来性もある男たちが、こぞってエヴリーンに侍った。
それでもロレンスがエヴリーンを諦めなかったのは、これ程愛する女性には二度と出会えないだろうという確信があったからだ。彼女のことを最も深く愛しているのは自分だ。
彼女が他の男と話していれば、胸が焼かれるような痛みが走った。他の男とダンスを踊っているのを見るのは身を引き裂かれる程辛かったし、自分ではない男と夜を過ごしたと噂を聞けば、嫉妬の炎に焼かれ夜も眠れなかった。幼い頃から感情の起伏に乏しかったロレンスにとって、それは初めての経験だった。
ロレンスは文字通り、時間も金も労力も――自分の持てる全てをエヴリーンに捧げた。漸く彼女が振り向いてくれた時は、いつ死んでもいいとさえ思う程幸せだった。
ところが、ある日突然ロレンスの元に凶報が届いた。実家を継ぐはずだった兄が幼馴染の乳母の娘と駆け落ちしたという。結婚を間近に控えていた兄の婚約者の家は大激怒し、兄は廃嫡され相続権も奪われた。
それまでロレンスには興味を持たず放任してきたロレンスの両親は、彼を呼び寄せ、兄の婚約者だった女性と結婚し家督を継ぐことを強要してきた。
彼らにしてみれば、次男のロレンスは何をやらせても平凡で、これまで物事を強く主張することも無く、自分たちに反発することも無かった。今度もただ漫然とそれを受け止め、言われた通りにすることを疑っていなかった。
近頃社交界を騒がせている隣国の平民女と懇ろな関係であることは噂で耳にしていたが、相手の女は奔放でふしだらな女と評判だ。女に耐性の無かったロレンスだ。今は夢中になっていても、遅い初恋は近い内に一過性の熱で終わるだろうと高を括っていたのだ。
ところが、両親の予想に反しロレンスは激しい抵抗を見せた。ロレンスにしてみれば、漸く愛しい女を手に入れ幸福の絶頂にいたというのに、これまで自分を顧みることの無かった両親の理不尽な要求を受け入れるつもりなど更々無かった。
エヴリーンと一緒になれないなら生きている意味が無い。
話し合いは平行線を辿り――結局、折れたのはロレンスの両親だった。兄の元婚約者には慰謝料を上乗せし、エヴリーンを妻に迎えることを条件に、実家の伯爵家を継ぐことになった。
嫡男の兄は婚約者を捨て幼馴染と駆け落ち、次男のロレンスは“阿婆擦れ”で有名な平民女と結婚。
デッカー家の人間は愛に狂っていると社交界では噂されることになったが、ロレンスは気にしなかった。
伯爵夫人となった後も、エヴリーンの奔放な性格は治らなかった。ロレンスは彼女が自分以外の男と会話するだけで嫉妬で狂いそうになったが、彼女の行動を自分から制限することは無かった。
代わりにひとつ、約束をした。多少の火遊びは多めに見ても、夜を共にするのは夫のロレンスだけ――それが妻になったエヴリーンとの約束だった。
ロレンスが愛したのは自由を愛するエヴリーンなのだ。鳥籠に閉じ込めたいわけではない。好きに大空を飛べばいい。
ロレンスにとって、彼女がどれだけ沢山の木々を飛び回ったかは重要ではなく、無数にある選択肢の中で、ロレンスを止まり木に選んでくれること、選び続けてくれること。それこそが最も大事なことだった。
エヴリーンは約束を守った。それでも美しく奔放で誰より魅力的な彼女に吸い寄せられる男は次から次へと羽虫のように湧いてきて、一時も目が離せない。結婚してすぐふたりの間には双子の姉妹が生まれたが、ロレンスの優先順位はいつも最愛にして唯一のエヴリーン、子供たちはその次だった。
娘二人のことは勿論愛している。大切に思っているし、彼女たちのためなら労力を惜しむつもりは無い。幸せになって欲しいと心から願っている。
それでも、妻を思う気持ちと娘を思う気持ちには圧倒的な開きがある。
数少ない友人の中には、もっと妻以外――子供にも目を向けてやれ、と忠告してくれる人もいた。ロレンスからしてみれば決して子供たちを蔑ろにしている訳では無いと、深く考えることなく聞き流していた。
今になってどうしてその忠告をもっと真剣に受け止めなかったのか、と後悔しても遅かった。
娘ふたりが成長するに従い、容姿の差が明確になって来た。双子だというのに、アビゲイルとマリアベルの容姿はまるで違った。アビゲイルは妻のエヴリーンに、マリアベルはロレンスにそっくりだった。幼い内は気にならなかったその差も、お茶会に出席出来る年齢になり、交友関係も広がればはっきりと本人たちも自覚するようになった。
この頃から、娘たちの祖父母である両親から、早く娘――特に跡取りとなるアビゲイルに婚約者を作るようにと強く急かされるようになった。口には出さないものの、息子二人の教育に失敗したと思っている両親は、未だにエヴリーンのことを認めていない。気位の高いところのある両親は、かつては名門伯爵家として名を馳せていたデッカー家が、今や愛に狂った伯爵家と揶揄されている現状が我慢ならないらしい。これ以上家の評判を落とすわけにはいかないと、孫二人に過剰な期待を抱いていた。
自らが恋愛結婚した手前、娘たちに政略結婚を強要するつもりは無かったロレンスだが、直ぐにその考えを改めることになった。
妻エヴリーンをそのままミニチュア化したような上の娘、アビゲイルが同世代でも抜きんでたその美貌を褒められる一方で、謂れの無い言葉の暴力――時には言葉だけでなく実際に手を出されることすらあった――を受けていることに気付いたのだ。
自分は自由で奔放なエヴリーンを愛している。今更エヴリーンに貞淑な妻になれといっても無理な話だし、それを強要するつもりもない。
けれど、そのせいで娘が実害を被っている状況は胸が痛かった。
伯爵家の正当な嫡子であり、何の非もない娘が有象無象に侮られ、貶められ、蔑まれるようなことはあってはならない。ロレンスは幼いアビゲイルに早い内から次期当主としての厳しい教育を施すことに決めた。そこには彼の両親である祖父母の意向も少なからずあったが、突然伯爵位を継ぐことになった際に自分がしたような苦労を、娘のアビゲイルには味わわせまい、という思いもあった。
普段音楽のことにしか口を出さない妻のエヴリーンは珍しく、もう少し子供らしく伸び伸びと過ごさせてあげてもいいのではないか、と言ってきたが、ロレンスはそれを受け入れることは無かった。
エヴリーンの自由さを愛してはいるが、平民として生まれたエヴリーンと伯爵家の嫡子として生まれたアビゲイルとでは事情が違う。伸び伸び自由に過ごしていたら、あっという間にアビゲイルも伯爵家も食い散らかされ、骨までしゃぶられてしまう。
エヴリーンは悲しそうに目を伏せたが、それ以上そのことについて異議を唱えることは無かった。
当主教育が始まってからというもの――ロレンスは心を鬼にし、アビゲイルに厳しく接することに決めた。
エヴリーンの妊娠が分かった時から、生まれてくる自分の子には平等に接しようと、そう心に決めていたロレンスだが、溺愛する妻そっくりのアビゲイルを見ると、どうにも甘い態度になってしまいそうになる自分がいるのだ。マリアベルが泣いても毅然とした態度でいられるのに、妻をそのまま小さくしたような姿のアビゲイルに泣かれると、何でも許してしまいそうになるのだ。
娘たちの祖父母にあたるロレンスの両親は、跡継ぎである長男とスペアでしかない次男の扱いに明確な差があった。仕方ないと納得していたつもりでも、いざ自分が親になってみると蔑ろにされてきた苦い記憶は節々で蘇る。
アビゲイルが当主として立派にやっていけるように、エヴリーンでなく自分に似てしまったマリアベルが容姿のせいで親から差をつけられていると思うことがないように、という思いから、結果として必要以上にアビゲイルに厳しく接してしまった。
今なら独りよがりだったと分かる言動も、当時の自分はこれが最善なのだと思い込んでいた。
そんな中、ある時クラーク公爵家から三男のユージーンと婚約しないかと打診があった。これ迄はアビゲイル宛に来た縁談をのらりくらりと交わしていたが、三男とはいえ遥かに格上の家からの申し出を無下に断ることは流石に出来なかった。
正直に言うと、ロレンスはクラーク公爵が大嫌いだった。当時まだ家督を継いでいなかった現在のクラーク公爵であるサミュエルは、婚前、最後までエヴリーンにしつこく言い寄っていた男の内の一人だ。エヴリーン自身もサミュエルのことはあまり好きではないらしく、義理で数回ダンスを踊っただけだと言っていた。プライドの高いサミュエルは、素っ気無いエヴリーンに表立って求婚こそすることは無かったが、いつもぎらぎらとした欲望を宿した瞳でエヴリーンを見つめるのが不快だった。
渋々アビゲイルとユージーンを婚約者候補として引き合わせることになった時も、相性が悪ければ無理を押してでも断るつもりだった。
ところが実際やって来たユージーンは、三男という立場のせいか、どこかおっとりとしていて素朴な少年だった。アビゲイルとも馬が合ったようで、妹のマリアベルも加わり三人で楽しそうに過ごしているのを見て、嫌々ながらロレンスは婚約を正式に結ぶことに決めた。
親世代の鬱憤をぶつけられ、ただでさえ難しい立場に置かれているアビゲイルが女伯爵となれば、これまで以上に厳しい視線や言葉に晒されるだろう。その時にアビゲイルを守る盾となって欲しい。
正式に婚約を締結する時、ロレンスは言った。
ユージーンは何かを決意したような表情で頷いた。「アビゲイルは必ず俺が守ります」と。
あの言葉は嘘だったのか?
いつものように夜会で妻に群がる蛆虫を追い払っていると、妻の旧友であるグレゴリオ卿の連れていた青年に、アビゲイルが襲われたと告げられた。
何故そんな事態になったんだ!?
頭が真っ白になり、そこから先は殆ど記憶が無い。青年にマリアベルも連れてきてくれと頼んだような気がする。
蒼褪めた妻を連れ向かってみれば、意識を失くした娘が包帯を巻かれた痛々しい姿でベッドに横たわっていた。
……ユージーンは一体何をしていた?
話を聞けば侯爵家の問題児に襲い掛かられたアビゲイルを助け出したのは、婚約者のユージーンではなく、たった一度面識があるだけの他国の青年だった。
ロレンスは膝から崩れ落ちた。
ベッドで眠る娘の顔には、幾筋もの涙の痕がある。どれ程怖かっただろう、痛かっただろう。
額の傷は、跡が残るかも知れないらしい。
何故、娘がこんな目に……。
意識のないアビゲイルに寄り添い、その場にいた医師の話を聞いていたロレンスが、自分がいなくなった会場で何が起こっているか知るのはそのすぐ後のことだった。
アビゲイルを守る筈のユージーンは、娘が襲われている時に側にいなかった。挙句、娘が身も凍るような恐ろしい思いをしている時に、妹のマリアベルと睦み合っていたという……。
もう一人の愛娘であるマリアベルが、本当にそんなことを……?
信じられない思いで一杯だった。
確かにマリアベルは幼い頃、アビゲイルの後をついて回っていたから、ユージーンとアビゲイルが婚約を結んだ時から三人で過ごす姿はよく見ていた。ユージーンはアビゲイルだけでなく妹のマリアベルとも仲がよかった。
けれどまさか、血の繋がった姉を裏切るなんて真似する筈が……。
茫然とする中、アビゲイルが怪我を負ったと聞いて駆けつけてきたシェリー嬢が苦い顔で告げてきた言葉に、ロレンスは頭を殴られたような衝撃を受けた。
「アビゲイルと親しくなったのは先日の夜会からですけれど、その時もアビゲイルはクソみたいな男に絡まれていましたのよ。その間ユージーン卿は今日と同じように妹君と歓談して知らんぷりでしたわよ。ファーストダンスまで二人で踊って。どちらが婚約者かわからないと社交界では専らの噂でしたわ」
あまりのことにエヴリーンは顔を真っ青にして崩れ落ちてしまった。
震える脚を叱咤し、マリアベルとユージーンが押し込められている部屋に向かう。部屋の外と中には何故か騎士団の制服を着た見張りが立っていたが、ロレンスにはそれを深く考える余裕が無かった。
それよりも、視界に入ったマリアベルの乱れた格好や崩れた化粧を見て、聞いた話が真実だったのだと瞬時に悟ってしまったからだ。
気付けばマリアベルの頬を打っていた。
自分と同じように、二番目に生まれたマリアベル。自分は両親のようにはなるまいと、必死に自らを律し、アビゲイルに殊更厳しく接してきた。決してマリアベルを甘やかす意図は無かったが、結果としてマリアベルは平気で人道に悖る行為をする人間になってしまった。
自分が教育を間違えたのだ。
姉の婚約者を奪い取って平然とした顔をしている娘を見れば、痛感せざるを得なかった。
椅子の上で小さくなっているユージーンも、本当なら思いつく限りの言葉で罵倒し、アビゲイルが傷付けられたら分まで殴りつけたかったが、それでも彼は公爵家の令息なのだ。
デッカー伯爵家の重みが、抗いがたい衝動からロレンスを辛うじて引き留めた。
本来ならばアビゲイルが目を覚ますまで付いていてやりたいが、このままマリアベルを放置するわけにはいかない。
医師の話では、アビゲイルは強く頭を打っているため数日は安静にして様子を見る必要があるという。
幸い、大切な婚約披露目をぶち壊したのにも関わらず、こちらの事情に配慮したルーセント公がアビゲイルをこのまま預かるとの申し出をしてくれた。
ロレンスはその厚情に深く感謝し、頭を下げた。
直ぐにでもマリアベルに詳しい事情を聞き、人をやって学園での情報も集めなければならない。
明日にでもクラーク公爵家との話し合いの場を設ける算段をつけながら、真っ青な妻とすすり泣くマリアベルを連れ伯爵家へ戻った。