12 tritono
読んでいただきありがとうございます。
更新遅くなりすみません。昨日……投稿間に合わなかった……!
早朝伯爵家のタウンハウスを出発したアビゲイルは、前日に侍従による手続きを済ませていたお陰で、スムーズに入寮することが出来た。授業が始まるまでの束の間、自室として案内された部屋で漸くまともに息が吸えた気がした。
幸い、寮の部屋にはある程度の必需品は備え付けられていて、暫くは伯爵家のタウンハウスに戻らずとも生活出来そうだった。普段の学生生活に夜会のようなドレスもコルセットも必要ない。洗濯や食事の用意は寮に住み込みのメイドが代行してくれるとのことなので、湯あみと着替え、簡単なヘアメイクさえ自分で出来ればなんとかなりそうだ。
あと数時間後には授業が始まる。そこで自身に向けられる好奇の視線を思うと、考えるだけで身震いした。ルーセント公爵家での夜会で起きたことがどこまで周知されているのか、未だアビゲイルには与り知らぬところではあったが、好ましく無い状況であることだけは確かだ。
あの夜から一度も、マリアベルともユージーンとも顔を合わせていない。謝罪の言葉すら無いのは人としてどうかと思うが、そもそも常識ある人間は自分の身内の婚約者と不貞などしないから、あの二人に今更それを求めるつもりは無い。
現状のまま学園に登校することは流石に双方の両親もさせないだろうとも思うが、二人が登校しないとも限らない。あと数時間後には顔を合わせる可能性もあるのだ。
その場合、自分はどういう態度を取るべきなのか――考えるだけで、胃の辺りが重くなる話だった。
***
「ねぇ、あの話お聞きになって?」
「マリアベル嬢とユージーン卿が遂に婚約なされたとか」
「まぁ!やっぱり二人が恋仲というのは本当でしたのね」
「でもアビゲイル嬢はどうされるのかしら」
「それにユージン卿はデッカー家に婿入りの予定でしたわよね?平民になるおつもりかしら」
「それが驚くことに、デッカー家の跡継ぎもアビゲイル嬢からマリアベル嬢に変更になるのですって!」
「ええ!それは本当のことですの」
「クラーク公爵がごり押ししたのではないかという噂よ。はっきり言ってユージーン卿が今から騎士や文官を目指せるとは思いませんし」
「それだけじゃありませんわ。あの夜マリアベル嬢とユージーン卿が密会していた時、アビゲイル嬢は暴漢に襲われていたって聞きましたわ」
「まぁ!それは本当ですか」
「騎士団が男を連行していくのを見た方がいるんですって」
「それは流石にお気の毒ですわね」
「襲われた上に妹に婚約者だけでなく次期当主の座まで奪われるなんて、私がアビゲイル嬢なら死にたくなりますわ」
逃げ込むように学園の寮に生活の場を移してから一週間――クラーク公爵家とデッカー伯爵家の醜聞は社交界で恰好の噂の的になっていた。当然、学園の通う生徒たちもあちこちで噂している。
特に昔から事実無根のアビゲイルの悪評をばら撒いていた令嬢たちは、余程今回のことが嬉しいのかわざわざアビゲイルの耳に入るように噂するのだからいい性格だ。
ルーセント公爵たちの危惧した通り、アビゲイル嬢が襲われたことすら話が漏れているらしい。オリバーが犯人だというところまでは辿り着いていないようだが、それも時間の問題だろう。
内心でどれだけ傷付いていようとも、それを表に出したら彼女たちを喜ばせるだけだと分かっているので、アビゲイルは必死で聞こえない振りをして過ごしていたが、一週間も続けば既に精神は限界に達していた。
元々、学園という場は音に漂う悪意で醜悪な色に溢れている。多感な時期の同年代の男女が集まれば、それだけ様々な負の感情も起きやすい。妬み、嫉み、嘲り、憤り……どれだけ取り繕ったところで、そういった淀んだ色は隠せる筈も無く、狭い教室にいるだけ気持ちが悪くなる。
社交界ではどうやら、アビゲイルは暴漢に襲われ乙女でなくなったことを理由に婚約を破棄され、元から恋仲だったマリアベルとユージーンが新たに婚約し伯爵家を継ぐことになった、というのが大方の認識らしい。
元凶となった妹のマリアベルとユージーンは予想通り学園には登校していない。ほとぼりが冷めるまで登校して来ないつもりなのだろう。
ああ、とアビゲイルは思い至る。そういえば、アルトゥーロがユージーンを殴ったと言っていたから、その怪我のせいで外に出られない可能性もあった。いずれにしても、どちらの顔も見たくないアビゲイルにとっては好都合だ。このまま一生登校しないで欲しいとすら思う。
更に気を滅入らせる原因が、かつての友人、エイミーだ。
この一週間、強い視線を感じて持ち主を探ると、そこに必ずエイミーがいた。他の令嬢たちのように、数人で集まりこれ見よがしに噂を囁き合うわけでも無く、張り詰めた表情でアビゲイルを見てくるのだ。
彼女と言葉を交わさなくなった原因は、今回アビゲイルを襲ったオリバーが遠因だ。まだ気安い関係だった頃、やんわりとオリバーの悪評を伝えてもエイミーは信じず、それどころかアビゲイルと距離を置くようになった。
オリバーは未だ騎士団によって身柄を拘束中の筈だ。まさかとは思うが、そのことでアビゲイルのことを逆恨みしているのだろうか。
治まらない頭痛に耐え、漸く今日の授業が終わった。これまでだったら音楽室に駆け込み、思う存分ピアノを弾いているところだが、今のアビゲイルにはその元気すら無く、とにかく淀んだ色の無い空間に行きたかった。
明日は心待ちにしていた休日だ。入寮してからの初めての休日だが、何処かに出かける気力も無い。
明日は一日部屋でゆっくりしよう――。
そんなアビゲイルの予定は、寮の部屋に届いていた、実家である伯爵家からの呼び出し状であっけなく崩れ去ることになった。
***
学園が休日の今日――アビゲイルは朝から伯爵家を訪れていた。午前中に訪れるように、と手紙に指示があったが、嫌なことは早く済ませてしまおうと思ったのだ。
気が進まないのは確かだが、アビゲイルとて、このままずっと父と話し合わずにいられるとも思っていなかった。
ユージーンとの婚約が無くなり、伯爵家を継ぐことの出来なくなったアビゲイルの今後は、現状宙に浮いたままだ。
通常婚約破棄された令嬢の行く先は、せいぜいが良くて自分より遥かに年上の男の後妻や既に正妻がいる男性の妾、裕福な商人などに追い立てる様に嫁がせるか、修道院へ送られるかだ。そのまま行かず後家として実家に留まる令嬢もいるにはいるが、その場合かなり肩身の狭い思いをして暮らすことになるだろうことは想像に難くない。
父は一体自分をどうするつもりなのだろうか。今、アビゲイルの立場は少し前のマリアベルとそっくり入れ替わってしまっている。
そもそも父のロレンスは自身が熱烈な恋愛結婚で母と結ばれたこともあり、政略結婚に積極的では無かった。だから家を継ぐ予定のアビゲイルには早くから婚約者を宛てがったが、妹のマリアベルには婚約者を用意することは無かったのだとアビゲイルは推測している、
だとすれば、今の自分は、本来ならマリアベルがそうであったように――たとえ話の内容が縁談や修道院に関してだとしても――父がなんと言おうと、撥ね退ける権利があるのではないだろうか。
悶々と悩みながらあの日以来顔を合わせていなかった父、ロレンスが告げた言葉は、アビゲイルが予想もしていないものだった。
「アビゲイル、お前は暫く領地で過ごしなさい」
「……は?」
思わず伯爵令嬢らしからぬ反応が出てしまった。
ロレンスの顔は相変わらず暗い。
「今なんと?」
「私が良いと言うまで、領地で過ごすんだ」
「……幽閉でもするおつもりですか」
「そういうわけではない」
「では、どういうおつもりですか。説明して下さい」
「……当主命令だ。とにかく言う通りにしなさい」
アビゲイルの射抜くような視線に、ロレンスは目を逸らし押し黙った。
もう殆ど残っていなかった父への家族としての愛情がすり減っていく。
「学園はどうするのです」
「休学すればいい」
「休学?一体いつまでですか?」
「……今はまだ何とも言えない」
ロレンスの答えを、アビゲイルは鼻で嗤った。
「いつまでかかるかもわからないのに、休学しろと?私を学園からも追い出すつもりですか」
アビゲイルの言葉にロレンスは一瞬眉を寄せ痛みを堪えるような顔をしたが、直ぐに元の表情に戻った。
「学園に掛け合って、試験だけは受けられるよう掛け合ってもいい。それならいいだろう」
一体何がいいと言うのか。
この人の考えていることは、まるで分からない。
それ程、傷物になった娘が疎ましいのか。アビゲイルを傷物にした張本人は血を分けた妹だというのに。
未だに謝罪すらしない妹は後継者として大事にされ、自分は人目のつかない領地へ厄介払い。
愛の比重が大きく母のみへ傾いている父でも、自分とマリアベルに対して娘としての情は平等にあるのだと思っていた。それが分かりにくいだけで。
でもそれは間違いだったのだと気付いた。
父にとって大切なのは、溺愛する妻と伯爵家のみ。次期当主の座を失ったアビゲイルは厄介者でしかないのだ。
そのくせ、抑揚の無い声にはアビゲイルを気遣う色が所々滲んでいるのだから嗤ってしまう。
この人の中ではこれで娘を心配しているつもりの言動なのだ。自分の父ながら、頭がおかしい。
「領地へは明日の朝出発する手筈になっている。侍女をひとり一緒にやるから、誰を連れて行くか後で選んだら知らせなさい」
それだけ言って父は再び執務机の上の書類に視線を落とし、手を動かし始めた。
もうこれ以上何を言っても無駄だと、その姿が雄弁に語っている。
あの夜会の日以来、張り詰めていたいた糸がぷつりと切れる音がした。
「さよなら」
「……アビゲイル……?」
アビゲイルはふらりと立ち上がると、そのまま執務室を出て行った。自分の背中を心配そうに見つめるロレンスの視線に気付くことは無かった。
***
「お姉様……」
執務室を出てふらふらと廊下を歩いていると、背後からか細い声が聞こえた。
振り向かなくとも、声の持ち主は分かっている。私はそう呼ぶのは、この世でただひとりなのだから。
「久しぶり、ベル」
ゆっくり振り返ると、光沢のある生地で出来たシンプルなドレスを身に纏ったマリアベルが蒼い顔で立っていた。
ユージーンの髪色とそっくりなエメラルドグリーンのその生地には見覚えがある。
「素敵なドレスね」
――だってそれ、私が選んだドレスだもの。
アビゲイルの言葉にはっとした様子でマリアベルはあわあわと話し出した。
「っ!これは違って……っ、お姉様はもう着ないだろうからって、代わりに私の分のドレスをお姉様の方へ、お姉様の髪色なら何色でも似合うからっ」
「ええそうね、確かにもう着れないわね。婚約者でもない男の色のドレスなんて」
アビゲイルが吐き出すと、しどろもどろになっていたマリアベルは蒼白だった顔をさらに蒼くする。
マリアベルが今着ているドレスは、アビゲイルが一月程前仕立て屋に普段使いのドレスとして依頼したものだ。デザイナーが屋敷を訪れていたので、その時マリアベルも同時にドレスを注文している。
アビゲイルとマリアベルは容姿こそ全く違うものの、背丈や体型は双子だけあってよく似ていた。シンプルで露出を抑えたドレスを選んでいたアビゲイルと、どちらかというと華やかで適度に露出したドレスを好んでいたマリアベルとでは趣味が違うので、ドレスを交換するようなことはしたことが無かったが、やろうと思えば出来る。
大方、夜会の後に届いたドレスの扱いに困り、アビゲイルとマリアベルのドレスを交換することにしたのだろう。アビゲイルの了承もない内から早速そのドレスを身に着けているとは、マリアベルの本心が良く分かるというものだ。
「別にいいわ。もう私には必要ないもの、代わりの貴方のドレスもいらない」
「お姉様……ごめんなさい。やっぱり怒っているのですね」
神経を逆撫でするようなマリアベルの言葉にアビゲイルは目を剥いた。
まともに謝罪すら出来ないのか。それともする気が無いのか。
別に謝ってほしかったわけではない。謝られたって時間は戻らないし、気分も晴れないし、余計惨めになるだけだ。
けれど、マリアベルに少しでも誠実さがあるのなら、こんな言葉を口に出来るわけがない。額を床にこすりつけて謝ったって足りない位だ。
呆れて言葉も出ないアビゲイルの様子をどう解釈したのか、マリアベルは尚も喋り続ける。
「私、こんなつもりじゃなかったんです……」
「こんなつもりじゃなかった……?じゃあ、一体どんなつもりだったと言うの」
「そ、れは……」
嘲笑が漏れる。
馬鹿馬鹿しい。アビゲイルは学園の成績でマリアベルに勝てたことが無い。試験の結果が貼り出される度に、跡継ぎの姉より妹の方が優秀だと噂されて来た。周囲の声にマリアベルがまんざらでもなさそうにしていたのも知っている。
「ねぇ、教えてよ。どんなつもりだったの。頭が良い癖に、まともな言い訳のひとつも出来ないの?」
胸の内にぐるぐるとマグマのように黒い感情が渦巻いている一方で、反対に頭はどんどんと冷えていく。
アビゲイルは今まで一度だって
こんな風にマリアベルを詰めたことは無かったが、アビゲイルの中では既に十七年間共に過ごしたたった一人の血を分けた妹は、道端ですれ違う他人よりも知らない存在に変化していた。
「ベル、貴方は昔からよく言ってたわよね。私だけずるい。先に生まれただけで、お母様に似ているというだけで、何でも奪って行くって。……知らないとでも思ってた?」
マリアベルが驚いたように目を見開く。察するに図星らしい。唇が震えている。
マリアベルが容姿に関してコンプレックスを抱いているのは早い段階で気付いていた。
アビゲイルには煩わしいことこの上ない美貌の母に似たこの容姿が、地味な見た目を揶揄されるマリアベルには羨ましいことだったらしい。
双子なのに似てない、父親似だね、と言われる度に不機嫌になるマリアベルに、最も近くにいる双子の姉のアビゲイルが気付かないとでも思ったのだろうか。
マリアベルが学力を褒められる度に妙に嬉しそうにしていたのも、容姿に対する過剰なコンプレックスの裏返しだ。
「でもね、私からしてみたらそれは貴方の方だわ」
アビゲイルは唇を噛み締めた。淑女がやっていい仕草ではないと分かっているけれど、そうしなければ感情が高ぶり、今にも涙が零れ落ちてしまいそうだった。
「私が自分の意志で貴方から何か奪ったことがあって?思い当たらないでしょう。だって、そんなことしてないもの。でも、貴方は違う。ジーンと貴方が恋仲になればどうなるか、貴方が分からないはずない。ええ、私よりずっと頭の良い貴方ならね。シェリー様にだって忠告されていた。それでも貴方は止まらなかった。どうなるか分かっていて、貴方は自分を、自分の気持ちだけを優先したのよ」
アビゲイルとユージーンの婚約が破棄されればどうなるかなんて、マリアベルには最初から分かっていた筈だ。その未来を思えば、姉の立場を少しでも思いやったなら、立ち止まる場面は幾度もあった筈だ。
マリアベルとユージーンがしたことは、アビゲイルが今まで築き上げてきた努力や時間だけでなく、その未来までをも奪う行為なのだから。
ふたりが何時から、どういう過程でそんな関係になったのかは知らない。
それでも、アビゲイルには確信があった。きっかけとしてマリアベルからユージーンに気持ちを伝えた筈だ、と。ユージーンが断らないことを分かっていて、周囲に露見すれば大事になるのを分かっていて、伝えたのだ。
それを卑怯と呼ばずに、何と呼んだらいいのだろう。
「結局、積み重ねてきた私の努力も時間も未来も全て踏みにじって、貴方の方こそ私から全て――親友も、婚約者も、伯爵家の当主の座も!何もかも根こそぎ奪っていったじゃない!」
「お、お姉様……」
顔面を蒼白にしたマリアベルが、唇を震わせながら一筋の涙を流していた。
今までのアビゲイルならきっと、仕方ないわね、と笑って妹のためにその涙を拭ってやっただろう。
だけどもう、マリアベルのためにハンカチを差し出す気にはなれなかった。十七年間、アビゲイルが大切にしてきたもの――それをマリアベルはあまりにもあっさりと踏みにじってみせた。
その瞬間、死んだのだ。アビゲイルの知っているマリアベルも、アビゲイルの心も。
「言うことがないのなら、もういいかしら。分かっていると思うけれど、これ以上貴方の顔を見たくないの」
これ以上目の前にいられると、取り返しのつかないことを言ってしまいそうだった。
だから早く立ち去って欲しい。目の前からも、心からも。
固く目を瞑って背を向ける。少しの沈黙の後、背後でマリアベルが小さく呟いたのが聞こえた。お姉様、ごめんなさい、と。




