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11 commedia dell'arte

投稿遅れてすみません。間に合わなかった……!


読んで下さりありがとうございます。

 オリバーに襲われた翌朝――ナイル医師の推察通り、アビゲイルは高熱を出した。酷く殴られた影響に加え、強い精神的ストレスが原因だろう、とのことだった。

 結果、伯爵家にこのまま戻すわけにはいかないと、そこから三日間ルーセント公爵家に滞在することになった。二日目には熱は殆ど微熱程度まで下がっていたが、念の為様子を見た方が良いと強く言われてしまえばアビゲイルに拒否することは出来なかった。


 体調が落ち着いた翌日、騎士団の聴取を受けることになった。ルーセント公爵家に滞在している間、デッカー家の家族は誰ひとりアビゲイルの元を訪れなかったため、事情を知るルーセント公爵が直々に立ち会ってくれることになった。

 アビゲイルのせいではないとはいえ、ただでさえオリバーのような男に襲われる隙を作り、敬愛するシェリーの婚約パーティを台無しにしてしまい申し訳無い思いで一杯だったアビゲイルは恐縮したが、公爵は逆にアビゲイルを労う言葉をくれた。

 王族だというのに偉ぶった所が無く、娘のシェリーがあれ程真っすぐに育ったのが納得出来る人柄だった。


「それでは、間違えて飲酒してしまいふらついていた所を、オリバー卿に襲われたのですね」

「はい。頭がぼうっとしていたので近づいてくるのに気づかず……逃げようとしましたが腕を強く掴まれ抵抗出来ませんでした」


 アビゲイルが寝込んでいる間に、既にアルトゥーロやオリバー本人の聴取は済んでいるらしく、騎士からの聴取は殆どが簡単な事実確認で終わった。


「オリバー卿と面識は?襲われる心当たりはありますか」

「面識は……ありました。以前仲良くしていた令嬢の幼馴染で……夜会で何度か強引に誘われることがありました。その度に断っていたのですが、どんどん強引になるのが怖くて、最近では姿を見かける度に避けていたので、それが気に障ったのかも知れません」

「成程」


 騎士はかりかりと手元に何かをメモしていたが、アビゲイルの位置からは何も見えない。


「大体の事情は伺いましたので、これで結構です。もしかしたら今後またお話を聞く必要があるかもしれませんが、その場合には此方から改めてご連絡させて頂きます」

「あ、あの!」


 一礼して扉の方へ背中を向けた騎士に、アビゲイルは思い切って声を掛けた。


「あの人……オリバー卿は、どうなるのでしょうか」


 アビゲイルの問いに、騎士は苦い顔をした。


「彼には別件で余罪がある可能性があり、調査中のため詳しいことはまだ何とも。貴方の件に関して言えば、現行犯で証人も揃っているので間違いなく有罪になるはずですが、その……身分的なものがあるので、その辺りは……」


 言葉を濁した騎士の言わんとするところを理解し、アビゲイルはそのまま御礼を言って騎士たちを見送った。


 アビゲイルの予想では、オリバーはあちこちで今回と似た事件を起こしている筈だ。それでも何だかんだと有耶無耶にされてきたのは、オリバーがアーヴィング侯爵の息子だからである。

 今回の件は公爵家も絡んでいるため、完全に揉み消すことは難しいだろうが、伯爵家の娘でしかないアビゲイルは、侯爵家に示談にするよう強く出られた場合、要求を呑むしかないだろう。

 デッカー家にしても、娘がオリバーに襲われたことは醜聞でしか無いから、あまり強く出られない面もある。

 それが分かっているから、騎士たちも微妙な表情を浮かべていたのだ。


 こればっかりは、家に帰って父と話してみないことにはアビゲイルには何も言えない。

 もやもやした気持ちを抱えながら、アビゲイルが身支度をしているとルーセント公爵から再び声が掛かった。

 案内されるままに付いて行った応接間には、シェリーとアルトゥーロが座っていた。

 空いているソファに腰掛け、メイドによりハーブティーが配り終えられると公爵が口を開いた。


「アビゲイル嬢、君にこれを知らせるのが正しいのか、私には正直分からないが……伯爵家に戻ってからすべてを知るよりはと思って時間を作った。三日前君が襲われた後、君にとっては酷な事があった。聞く勇気はあるかね」


 ルーセント公爵は、王族特有の金色の瞳でじっとアビゲイルを見つめた。美しい宝石のような瞳は人ならざる者の瞳のようで、吸い込まれそうになる。

 公爵の声は労わりと同情の()に満ちていた。


 あれから一度も顔を見せない家族。

 見舞いに訪れない婚約者。(ユージーン)

 学園中で噂になりつつある二人の姿。


 薄々気が付きながらも、目を逸らしていた。

 ふと視線を逸らした先では、シェリーは眉を寄せ、アルトゥーロは俯いている。

 覚悟を決める時が来たのだ。

 アビゲイルが静かに頷くと、公爵は軽く頷きアルトゥーロに視線を向ける。アルトゥーロが重い口を開く。


「……君を騎士たちに任せた後、君の両親を探しに行ったんだ。二人は直ぐに見つかって、君の妹を探すように頼まれた。姿が見当たらなかったので他の令嬢たちに聞いたんだ。そうしたら、君の……婚約者と庭園の方に行ったって。それで探しに行ったら………」

「乳繰り合ってたってわけ」


 黙り込んでしまったアルトゥーロの言葉を引き取るように、シェリーがずばりと言った。


「シェリー嬢!」

「なによ。隠していても仕方ないでしょ。話すって決めたんなら、変に隠さずすべて話すべきよ。アビゲイル、貴方の妹と貴方の婚約者はね、あれ程忠告したにも関わらず、愚かにも人の家の四阿でキスしながら身体をまさぐりあっていたそうよ。アルトゥーロは怒りのあまりあの男の頬を殴ったって」


 アビゲイルはアルトゥーロの包帯の巻かれた右手に視線をやる。

 オリバーを殴った時に怪我したわけでは無い、という彼の言葉は事実だったのだ。

 アルトゥーロは決まり悪そうに項垂れた。


「済まない、つい頭に血が上って……。出来るだけ穏便に済ませるべきところが、殴ったことで騒ぎになり……かなりの数の招待客に目撃されてしまった。社交界では今後噂になるかもしれない……」


 噂になるかもしれない、どころではない。噂は既に凄いスピードで駆け巡っているだろうし、なんなら三日も経った今頃は尾鰭も背鰭もついた立派なものに成長を遂げ、社交界中を泳ぎ回っているだろう。


「顔をあげてください、アルトゥーロ様」

「しかし……」

「いいのです。あの二人がそういう関係なのは、薄々気付いていました。元々学園中で噂されていましたし、そのことが無くても遅かれ早かれ同じことになっていたと思います。だから責任を感じる必要はありませんわ」


 嘘だ。本当は、心の何処かでまだ信じていた。ユージーンのことも、血を分けた妹のことも。

 けれど、自分の知らないところで二人はとっくに自分を裏切っていたのだ。裏切りを突き付けられ、アビゲイルの心臓は悲鳴を上げていた。


「アビゲイル嬢、伯爵家に戻っても辛い状況が待っているだろう。もう暫く家に滞在したとしても、此方は全く構わない。少し滞在を延ばしてはどうかな」


 優しい公爵の提案に、アビゲイルは首を振った。


「いえ、私は家に帰ります」

「アビゲイル、辛かったらいつでも家に来ていいんだからね」

「ありがとうございます、シェリー様」


 アビゲイルは未だ項垂れたままのアルトゥーロに声を掛けた。


「アルトゥーロ様、私のために怒ってくださってありがとうございました」

「アビゲイル嬢……」


 部屋中がなんとも言えない空気に包まれる。気まずい雰囲気を振り払うように、公爵がメイドを呼ぶと、あっという間にテーブルに色とりどりの菓子が並んだ。


「折角だから、帰る前に食べて行ってくれ」


 マカロンやクッキー、ケーキにゼリー……公爵家の料理人が腕によりをかけて作ったと思われる品々は、どれも宝石のように美しく、さすが芸術に強いルーセント家だけあると思わせた。

 公爵は多忙のため直ぐに席を外してしまったが、それでも気遣いが嬉しくてアビゲイルは深く頭を下げた。


 今後どうなるにしても、公爵家やアルトゥーロにはきちんと御礼をしたい。

 せりあがる涙を堪え口に運んだチョコレートはほろ苦く、口の中で溶けていった。



***



 頭に包帯を巻き、満身創痍といった体で帰宅したアビゲイルを迎える家令の顔は、いつになく沈んでいた。家令の話では、父ロレンスは執務室に籠り切りらしい。到着するなり荷物を預け、ロレンスの元まで向かう。

 すれ違う使用人たちの視線から推察するに、夜会でアビゲイルが襲われた以上の何かがあったことは分かっているようだが、正確な状況までは知らされていないのだろう。


 ノックの後、間もなく許可が下りアビゲイルは執務室へ足を踏み入れた。


「アビゲイル……無事で良かった。迎えにいけなくて済まない」


 アビゲイルの姿を見て僅かに笑みを浮かべた三日ぶりに見るロレンスの顔はすっかり窶れていて、アビゲイルが不在の数日間の苦労が偲ばれる。


「そこに掛けなさい」


 この執務室に足を踏み入れた回数は、そう多くない。当主教育の際にロレンス直々に教えを受けることはあっても、執務室で行ったことは無かったから、自分の住む屋敷の一室であるというのにアビゲイルには新鮮に感じた。

 代々受け継いで赤褐色に変化したマホガニーの机や本棚が重厚な雰囲気を醸し出していて、当主という地位の重さを表しているようだった。


 机の前に向かい合うように用意されているソファに座ると、ロレンスは向い側に腰を下ろした。


「体調はどうだ」

「熱も下がりましたし、傷に関しては薬を塗って様子を見るしかないようです」

「そうか……」


 ロレンスはメイドに用意させた紅茶にブランデーを足すと、アビゲイルのカップにも同じよう注ぎ入れた。

 気まずい沈黙が流れる。元々、ロレンスとは父と娘として、というより伯爵家の当主と次期当主という立場で接する機会の方が多く、こうしてゆっくり話す機会など無かった。どう接していいかわからないのは、ロレンスも同じなのだろう。


「あのオリバーとかいうアーヴィング家の不届き者に関しては、父である侯爵から既に謝罪と慰謝料の支払いが申し込まれている。あちらとしても放蕩ぶりに手を焼いていたそうで、息子の扱いについてはお前の気持ち次第だと言っている」

「それは、示談にする気はないと?」

「侯爵家のことを考えれば示談に出来るのが一番だろうが、奴はこれまで平民女性にも複数回にわたり暴行を働いた疑惑があるらしくてな。どちらにしても除籍は免れないだろう。事が明らかになればお前の評判にも関わるから、どうしたいかお前の希望通りにするつもりのようだ」


 ルーセント公爵家で聴取した騎士は苦い顔をしていたが、彼が危惧していたような揉み消しを行うつもりは意外にもアーヴィング侯爵には無かったようだ。

 

 アビゲイル個人としては、あんな危ない男を野放しにするのだけはやめて欲しいところだが――ふと浮かんだのは、本性を知らなかったとは言え、幼馴染であるオリバーを一心に慕う嘗ての友人の姿だった。

 ひとまず、オリバーの取り調べはまだ続いているので、騎士団の方で余罪の追及が済んでからアーヴィング侯爵を交えて話し合いの機会を設けることになるだろう、とのことだ。


「それから……マリアベルのことなんだが」


 そう言ってブランデー入りの紅茶を飲んだきり、ロレンスは黙り込んでしまった。沈黙に耐え兼ね、アビゲイルは自分から口火を切った。


「夜会であの子がユージーンと密会していたと、ルーセント公爵様から聞きました」

「ああ……」


 気まずそうに視線を泳がせ肩を落とす父は、自分が知っている父より小さく見えた。


「……知っていたのか?」

「いえ……確信があった訳ではありません。でも、ここの所、ユージーンは私よりマリアベルを優先することが多くなっていました。お父様は気付いていなかったようですが、夜会で私より先にふたりがダンスを踊っていたことも一度ではありません。最近では学園での昼食を私ではなくマリアベルと摂るようになっていました」


 淡々と吐き出される言葉に、ロレンスは目を丸くした。


「どうして、何もしなかった。何故相談しなかった」

「……相談していたら、何かしてくれたのですか。祖父母の反対を押し切って溺愛する母との結婚を押し通した貴方に」


 絞り出した自分の声は明らかに震えていた。アビゲイルは湧き上がる怒りを抑えることが出来なかった。振り上げた拳を下ろすべき先は、ロレンスでは無いとは分かってはいても、ロレンスの言葉は、アビゲイルにとってあまりにも残酷だった。吐き出された声には色濃い後悔だけでなく、アビゲイルを責める色が滲んでいた。


「起こってしまったことは仕方ない。既に二人の不貞は広まってしまった」

「……どうするおつもりですか」


 アビゲイルの問いかけに、ロレンスの肩が小さく震える。


「……お前とユージーンの婚約は解消し、代わりにマリアベルとユージーンが婚約することになる」

「そ、うですか……」

「済まない……」


 ロレンスは消え入るような声で呟き目を伏せた。

 嫌な色だ。後悔や罪悪感が滲み出ている、汚泥のような色をした音だった。その色が持つ意味を、アビゲイルは正しく理解していた。

 

「……決まったのはそれだけですか?違いますよね」

「ああ……ユージーンは三男とはいえ公爵家の子息だ。あちらの家にとって大事なのは彼が爵位持ちの家に婿入りするということであって……それに、ウチとの共同事業の件もある」


 そう言ったきり、ロレンスは項垂れて黙り込んだ。


 ロレンスはアビゲイルを愛していないわけではない。デッカー伯爵家の跡取りとして生まれ、アビゲイルがこれまでどれだけ苦労して努力していたか知っている。

 妹よりたった数分早く生まれた。それだけで、アビゲイルが支払わなければならなかった時間や努力を、誰よりも理解している。アビゲイルにそれを強いた張本人であるのだから。


 だから、出来るだけアビゲイルを傷つけずに済む言葉を探しているのだろう。


 だとしたら、この時間はアビゲイルにとって無駄以外の何物でもなかった。

 アビゲイルを傷つけない言葉など無い。何をどう取り繕ったって、状況は変わらない。

 だったらせめて、正面を切って告げるべきなのだ。何の落ち度も無いアビゲイルから理不尽に未来を毟り取ることを決めたのは彼らなのだから。


 アビゲイルは部屋に入ってから、自分と一度もまともに目を合わせようとしないロレンスを冷めた目で見つめた。微かに残っていた親子の情さえ空中に霧散していくようだ。


 ――くだらない。何もかも、どうもでもいい。


 このまま何時間でも俯いて日が暮れるまで口を閉ざしていそうな父親を前に――もう既に父と呼ぶことすらしたくない――これ以上奪われるのはうんざりだと思った。この男に、母に、妹に、この家に、これ以上自分の時間を支払う気は一分だって起きなかった。


 だから、アビゲイルは自分で自分にナイフを突き刺すことにした。


「マリアベルが、デッカー家を継ぐのですね?」


 口に出した瞬間、アビゲイルの心臓から真っ赤な血が噴き出した。それはどくどくと止まることなく垂れ流され、身体の内側をどす黒い何かが覆っていく。


「すまない……すまない……」


 絞り出すような声で紡ぎだされたその言葉は、アビゲイルの言葉を肯定するには十分だった。


「……()()()()()()()、私は学園の寮に入ります。手続きは自分で行いますので、お手を煩わせることはございません。準備がありますので失礼しますわ」


 ――早く。早く、行かなくちゃ。此処ではない何処かへ。


 アビゲイルの意識は、既に目の前の父親だった男ではなく、この部屋を出た後の段取りに急速に傾いていった。


 とてもではないが、もうこの家にはいられない。


 だからといって貴族令嬢として生を受け、伯爵家以外での暮らしを知らないアビゲイルが取れる選択肢はそう多くない。アビゲイルは尤も現実的な選択肢を選ぶことにした。


 貴族で学園の寮に入るのは、平民とそう変わらない生活をしている没落寸前の家や、王都にタウンハウスを所持する余裕のない家の子息令嬢が殆どだが、申請さえ通れば学園に通う生徒であれば身分に関わらず誰でも入寮できる仕組みになっている。

 実際、辺境地からやってくる生徒などには、辺境では中々築くことが難しい人脈を学生の間に広げるため、裕福であってもわざわざ寮に入るものも少数ながら存在するのだ。部屋の数には余裕があるはずだし、今から急いで申請すれば明日にでも入寮は可能なはずだ。


 デッカー家のように王都の貴族街の中心部に家を所持し、財政状況も問題ない家の令嬢が入寮するとなれば、家内に問題があると大っぴらに喧伝する行為に他ならないが、貴族令嬢としての生命を絶たれたも同然の今のアビゲイルにはどうでもいいことだった。

 先程オリバーの今後についてアビゲイルの評判が何だかんだと言っていたのは何だったのだろう。

 誰よりもアビゲイルの評判を貶める仕打ちを決定しておいて、よくあんな台詞が口に出来たものだ。


 背後で微かに自分の名を呼ぶ声がしたが聞こえないふりをする。

 今まで一度だってロレンスに対して辛辣な態度を取ったことは無かった。いつも振り向いてほしくて、褒めて欲しくて、父のように立派な当主になるのだと努力してきた。


 それがどうだろう。冷静になって見て見れば、この人の何処が尊敬出来るというのだろう。

 当主としては立派なのかも知れないが、少なくとも娘から見た父親としては最低も最低だった。

 自分が切り捨てると決めた娘と真正面から向き合うことすらしない人間に、自分が向き合ってやる必要があるとは思えない。


 部屋を出ると、扉から少し離れた場所にアビゲイル付き侍女のアンが待機していた。アビゲイルの顔を見るなり心配そうな顔で寄ってくる。


「お嬢様、お話は……」

「アン、私は明日からこの家を出て学園の寮に入るわ。急で申し訳ないけれど、今から学園に行って手続きをお願い出来るかしら?その間、私は荷造りをするから」

「ア、アビーお嬢様!?一体どういうことですか!?」


 驚きに目を瞠り蒼褪めるアンを何とか宥め、事のあらましを伝えた時には、アンは顔中涙と鼻水でビチョビチョで、とても外に使いに出せる状態ではなかった。仕方なく別の侍従を呼び、彼に学園まで行ってもらうことにする。


「何故ですかっ!?何故、何も悪くないお嬢様が後継から外されなければならないのですかっ……!」


 アンのその叫びは、何度もアビゲイルが自身に問いかけている言葉だった。


「アンも知っているでしょ。元々伯爵に容姿が似ていて頭の良いマリアベルの方を後継にしたがっている人達は大勢いたのよ。姉って言っても、たった数分早く生まれただけなのだもの。クラーク家との婚約は政略的なものだし、私一人泥を被れば、相思相愛の二人を引き裂くこと無く、公爵家との友好も崩れること無く全て丸く収まるのよ」


 ――ただ、私の努力や未来が犠牲になっただけ。


 嘲るような笑いを浮かべるアビゲイルの声無き声が聞こえた気がして、アンの胸は締め付けられた。


 家族に恵まれたアンには分からなかった。

 アンの生家はかつてルミナス国の子爵位を持っていたが、ある時領内で大規模な飢饉が発生した際に莫大な借金を負った。いよいよ爵位を返上しなければならなくなった時、アンに縁談が舞い込んだ。莫大な借金を返済しても尚お釣りがくる程の金額を結納金と引き換えに、両親よりも年上の評判の悪い男の後妻に収まるというものだった。普通の貴族なら間違いなく飛びついただろうその縁談を、両親は何の迷いもなく断った。娘が不幸になると分かっていて、金で売るような真似はしないときっぱり言い切った。

 結果、両親は爵位を返還し、一家は平民として生きることになったが、誰一人としてその選択を後悔しているものはいない。家や財産を引き継ぐはずだった兄でさえ、だ。

 自分が今こうして侍女として働きながらも幸せに暮らせているのは、両親や家族のお陰だとアンは胸を張って言える。


 だからこそ、アンには理解出来なかった。

 何の落ち度もない大切な娘をあっさりと残酷に切り捨ててしまえる伯爵。

 伯爵の世界の中心が溺愛する妻であることは誰の目にも明らかではあったが、それでも伯爵なりに二人の娘に平等に愛情を注いでいるのを見てきたから余計に。


「大体、出ていくとしたらベルお嬢様の方ではないですか!何故、何も悪くないアビーお嬢様が出ていかなければならないのですか!」

「それは無理よ。あの子はこれから私に変わって当主教育を一から受けることになるのよ?いくらあの子が私より頭が良くても、今から当主教育を始めるのでは大変でしょう。サポートする彼も婚約者として今まで通りこの家を出入りするでしょうし……それを見ながらこの家で暮らさなければならないなんて御免だわ」

「アビーお嬢様……」


 何処か投げやりに聞こえる台詞を吐いたアビゲイルは嘗てない程儚げで、まるでその輪郭から今にも溶けて消えてしまいそうで――それがぞっとする程美しかった。

 言葉では表現し難い不安が、アンの胸を酷くざわつかせる。


 アビゲイルは先程から、以前のように家族の名前を呼ばなかった。父であるデッカー伯爵の名も、妹のマリアベルの名も、元婚約者のユージーンの名すらも。


 考えるより先に、口が動いていた。


「お嬢様、アビーお嬢様、アンはいつでもお嬢様の味方です」

「アン……」

「だから、だから……」


 まるで子供のように泣きじゃくるアンを、アビゲイルはそっと抱きしめた。


「私の代わりに泣いてくれてありがとう、アン。私、アンのことは大切に思っている。だから、私がいなくなっても元気でね」

「そんな……い、いなくなるなんて、言わないでぐだざい……!アンも、アンも連れて行っでぐだざい!」

「駄目よ。貴方は伯爵家に雇われている人間だもの。ここで働かなくちゃ。それに、学園の寮に侍女や侍従は連れていけない決まりなの」

「でも、でも……!」

「アン、私、貴方のこと本当の家族みたいに思ってる。この先何があっても、きっとそれは変わらないわ」


 どうしてそんなことを言うのですか。それではまるで、今生の別れのようではないですか。


 喉まで競りあがってきた言葉を飲み込んで、アンは泣いた。


 それから暫く泣き続け、涙で目が溶けてしまいそうなアンを下がらせたアビゲイルは、その夜ひとりひっそりと荷物を纏めた。他の侍女の手を借りようかとも思ったが、出来るだけ自分で整理したかった。


 持ち物はそう多くない。シンプルなドレスを数枚とそれらと合わせてもおかしくないアクセサリーをいくつか、ローブ、化粧品、他に下着やお気に入りの本を何冊か詰め終えた頃、空は白み始めていた。

 今まで誕生日に贈られたマリアベルと揃いの持ち物やユージーンからの贈り物は全て置いていくことにした。自分にはもう必要ない。

 窓辺に腰掛け、朝焼けに染まっていく空を眺めながら、思う。


 自分が母に似ず、父に似て生まれていたら、違う結果になっていただろうか、と。

 或いは、自分が姉ではなく、妹としてマリアベルより後に生まれていたら。


 考えても仕方のないことだ。

 けれども考えずにはいられない。

 答えのない問いはぐるぐるとアビゲイルの頭の中を巡る。


 一睡もせずそのまま朝を迎えたアビゲイルは早朝、朝食を取ることなく、執事に見送られながらそっと伯爵家を出立した。


後ほど、少し修正を入れるかもしれません。

次回は明日夜更新予定です。

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― 新着の感想 ―
[一言] 侯爵家から支払われる慰謝料、ユージーンにも慰謝料を大量に支払わせて、実家にも家が破綻するくらい慰謝料払わせれば? あとは母親への復讐で実家の楽器を庭で燃やしてやれば良いよ。
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