10 soiree(2)
読んでくださりありがとうございます。
アルトゥーロ視点。少し短めです。
アビゲイルが寝かされている客室を出た後、アルトゥーロはひとり、与えられた公爵家の客室で俯いていた。
『アルトゥーローどしたー?手が痛いのか?』
アルトゥーロの周りをプルッカが飛んで回る。
「いや……そういう訳じゃない。ただ……彼女が可哀そうで……。なんて声を掛けてやればいいのか、俺には分からなかった」
『んー?あの子は「ありがとう」って言ってたぜー?』
「はは……俺がやらかしたことを聞いても、まだそう言ってくれるとは思えない」
『アルトゥーロはあの子を助けたじゃんか』
「ああ。だけど同時に俺のせいで彼女は明日からきっと辛い立場になる」
『んー……よくわかんないな、にんげんって』
じっと見つめる自身の右手は未だじんじんと痺れ熱を持っている。
白い顔でベッドに横たわるアビゲイルの姿を思い返す。
彼女を襲った男は明らかに正気では無かった。連行していった騎士団の話では、酒の他に禁止されている薬物の類もほぼ確実にやっているだろう、とのことだったが、それにしてもアビゲイルに向ける憎悪の感情がどうも異常に思えた。
アビゲイルに襲い掛かるオリバーを拘束し、気を失ったアビゲイルが運ばれていった後、公爵の指示でアビゲイルの両親に声を掛けに行った。幸い夫妻は直ぐに見つかった。デッカー伯爵は美しい妻に寄って来る男達を威嚇していたが、娘の窮地を伝えると顔色を変え会場を抜け出した。
「済まないが娘のマリアベルにも声を掛けて貰えないだろうか。何処かで友人と話でもしているのだと思うのだが……」
真っ青な顔でアビゲイルの元へ向かって言った伯爵に了承し、会場を見渡す。マリアベルとは以前、師匠グレゴリオと共にデッカー家を訪れた際に軽く挨拶を交わしただけだが、顔は覚えている。
アビゲイルの双子の妹だと言っていたが、ふたりの顔はあまり似ていなかった。アビゲイルが母親似なら、マリアベルは完全に父親似だ。栗色の髪と瞳の大人しそうな少女だった筈だ。
ダンスホールにそれらしい少女の姿が無いのを確認し、壁際に佇んでいる令嬢から軽食を楽しんでいる令嬢まで視線を走らせる。マリアベルの茶色い髪と瞳は、この国に最も多い色合いだ。貴族令嬢たちの中にも同じ色合いの女性は多くいたが、その中にマリアベルの姿は見当たらなかった。
『なぁなぁ、俺あれ食べたい』
軽食のコーナーに置いてあるデザートをプルッカが指差す。光の粒にしか見えない妖精の子供と違い、プルッカのように人型が採れるような力の強い妖精は、人間と同じ食べ物を食べることが出来るらしい。
アルトゥーロと過ごすようになってから時々与えられる甘いお菓子が気に入ったプルッカは、何かと甘い物を口にしたがる。食べたからといって妖精としての生きる糧になる訳では無く単なる嗜好品のようだが、ケーキやクッキーを夢中で食べているプルッカは中々微笑ましい。
しかし今はタイミングが悪い。先程はアルトゥーロと同じ様にアビゲイルの受けた理不尽な暴力に対して同情的だったプルッカは、今はもうすっかりお菓子に心を奪われている。
プルッカにはどうも、刹那的というか、その場その場で次々と感情がコロコロ変わっていくところがある。それが妖精全般に言えることなのか、プルッカだけに見られる特性なのかはわからないが、こういう時やはり自分たち人間とは違う感覚を持った生き物なのだと感じる。
「……後でな。今はそれよりマリアベル嬢を探さないと。一緒に探してくれないか」
そうすれば早くデザートも食べられるぞ、と視線を誘導し言外に匂わす。
『探すのはいいけどぉ、この間会った地味な女だろー?』
「ああ」
『あの子からは特別なエネルギーは感じなかったから顔も朧気っていうか。アルトゥーロもそう思うだろ』
確かに、プルッカの言う通り、眩い程の妖精を連れていたアビゲイルと違い、妹のマリアベルには妖精の類は一切見られなかった。本人の話しぶりから貴族令嬢として一通り楽器に触れたことはありそうだったが、それだけだ。
あの家で妖精の光を纏っていたのは姉妹の母であるピアニストのエヴリーンと娘のアビゲイルのみだ。父親には一切妖精は寄り付いて居なかったから、母親の音楽的才能は見た目と同様アビゲイルだけに受け継がれたのだろう。
今夜はダンスホールがある会場だけでなく、男性向けのサロンや幾つもの休憩室、公爵家自慢の見事な庭園も一部開放されている。ひとりと一匹――妖精を“匹”で数えるなら、だが――だけで探すには、公爵家は広すぎる。
仕方無くアルトゥーロは周囲の令嬢たちに声を掛け、姿を見なかったか尋ね歩く羽目になった。
何人目かの令嬢に声を掛けた所、彼女らは互いに顔を見合わせ、気まずそうに教えてくれた。
「マリアベル嬢なら、かなり前にユージーン様とバルコニーから庭に出て行くのを見ましたわ。まだいるかは存じませんけど……」
御礼を言って足早にそこへ向かう。
アルトゥーロの脳裏には、婚約者のアビゲイルではなく、妹のマリアベルと楽しそうに歓談する派手な髪色の青年の姿が浮かんでいた。
そもそも、婚約者だというのに何故アビゲイルといないのだろうか。
シェリーの苦い顔といい、先程の令嬢たちの気まずそうな様子といい、ユージーンとやらが以前からアビゲイルを蔑ろにしているのは間違い無いだろう。
胸の奥底から湧き上がる怒りを隠し、アルトゥーロは令嬢に教えられたら場所から庭園へと出た。
公爵家の庭はあちこちが美しくライトアップされ、幻想的な雰囲気を醸し出している。自慢の薔薇や木蓮の花が闇の中で光に照らされ浮き上がる様はロマンチックで、恋人たちの語らいには絶好の場だった。
嫌な予感が靄のように身体にまとわりついてくる。
所々の暗がりで身を寄せ合うカップルたちの顔を確認しながら、底辺の奥へと足を進める。顔を覗かれたカップルはぎょっとした顔をしていたが、そこにマリアベルはいなかった。既に会場からは結構な距離を歩いている。
少し先に見える四阿の辺りまで行ったら、一旦引き返そう――。
そう決めた時、暗闇の中に薄ぼんやりと人影が二つ、四阿で寄り添っているのが見える。
どくん、どくん、と何故だか心臓が脈打つ音が鼓膜を震わせ、思わず足を止める。
二人は身を寄せ合い、そして――。
気がついた時には、アビゲイルの婚約者の筈の青年の胸倉を掴み、頬を殴りつけていた。突然殴りつけられ、茫然とする青年の唇にはマリアベルと同じ薄紅色の唇がべったりとついている。
それを見た瞬間、再び血が沸騰したかのように身体が熱くなり、もう一度青年を容赦なく殴りつけていた。
「ふざけるなっ!お前、自分が何をしているのか分かっているのか!お前の婚約者はそこの女じゃない!アビゲイル嬢だろう!?お前が彼女を放置していたせいでっ」
「きゃああああああああああ」
傍らのマリアベルが悲鳴を上げる。
すっかり日の落ちた庭園には予想以上に多くのカップルが潜んでいたようで、我に返った時には悲鳴を聞きつけた多くの招待客に囲まれていた。
赤くなった頬の青年の胸倉を未だ掴んでいるアルトゥーロ。
青年の口にべったりとついている口紅。
側にいる令嬢は青年の婚約者の妹で、おまけにドレスの胸元は乱れ、口紅は所々剥げている。
その状況を見れば、何があったかは一目瞭然だった。
マリアベルとユージーンは慌ててその場から立ち去ろうとしたが、誤魔化すには既に遅く、沢山の好奇めいた視線に退路を塞がれ、石像のように固まっていた。
顔色を無くしたのはアルトゥーロも同じだった。
他人の信頼を裏切る最低な行為をした二人が醜聞に晒されるのは当然だが、これでは只でさえ危うい状況に追い込まれたアビゲイルにまで火の粉が飛んでしまう。
シェリーの父であるルーセント公爵と話し、万が一にもアビゲイルの瑕とならないよう、出来るだけ内密に事を処理する予定が、これでは……。
騎士団の姿を目撃した者もいるだろう。
浮気者の婚約者に放置され不在にしていたアビゲイルについて追求されれば、彼女が襲われたことが露見してしまう。
激情に駆られるままに行動してしまった自分に深く恥じる。
遅ればせながら悲鳴を聞いてかけつけた兵が駆けつけ、三人は好奇の視線の中、別室に連れていかれた。
その後はあっという間だった。
事情を聞いて真っ青な顔で部屋にやって来たデッカー伯爵は、マリアベルの姿を目に入れ、その乱れた姿を見るなりマリアベルの頬を打った。頬を打たれたマリアベルは、その衝撃に頬を押さえたまま固まっている。
伯爵はぎろり、と音がしそうな視線でユージーンを睨む。格上の家の令息だからか、マリアベルにしたように頬を打つことは無かったが、幼少期から今まで一度も向けられたことの無い冷ややかで射抜くような視線にユージーンは震え上がった。
凍りついた空気の中、とりあえず謝罪しようとしたアルトゥーロを制し、伯爵は逆にアルトゥーロに深く頭を下げた。
「アビゲイルを助けていただいた恩人にこんなことをさせて……本当に申し訳無かった」
「伯爵、頭を上げてください。私の方こそ、つい頭に血が上って衆人の目を集める事態になってしまい、アビゲイル嬢になんとお詫びしていいか……」
「貴殿には何の責任も無い。すべては……子育てに失敗した、私の責任です」
頬を押さえたままの姿勢で固まっていたマリアベルの喉がひゅっと鳴った。
ユージーンは状況が未だ呑み込めないのか、焦点の定まらない白い顔でぼうっとそれを眺めている。アルトゥーロに殴られた頬は腫れ、変色しかけている。
「本来ならアビゲイルについているべきですが、こうなってしまった以上、今夜は屋敷に一旦戻ります。アルトゥーロ殿にはまた改めて御礼に伺います」
「いえ、私は御礼を言われるようなことはしていないので……御礼はルーセント公に」
デッカー伯爵はもう一度深く頭を下げると、マリアベルの腕を掴み、強引に引きずりながら部屋を出て行った。
その後はルーセント公爵に右手を直ぐに手当てするようにと指示され、ナイル医師の元へ連れて行かれた。残されたユージーンとやらがどうなったのか、アルトゥーロは知らない。
時間が経ち、冷静になればなる程、自分の行動が悔やまれてじっとしていられなかった。
デッカー伯爵はああ言っていたが、騒ぎを聞きつけやってきたシェリーは、近頃自分が気にかけていたアビゲイルを傷つける一端を担ったアルトゥーロに立腹し、思いっきり頭を叩いてきた。
顔を打たないのは、利き手を怪我した今、アルトゥーロに残っているのは顔だけだから、らしい。辛辣な言葉に項垂れたが、今は逆に責められる方が気持ちが楽だった。
目が覚めたアビゲイルは、ナイル医師から安静を言い渡されている状態にも関わらず、自身の怪我よりもアルトゥーロの怪我を気にしていた。
不器用で優しい女性だ。彼女の婚約やデッカー伯爵家の評判がどうなるのかは分からない。明日以降、目を覚ました彼女を取り巻く環境が彼女にとって辛い物であるだろうことは間違いない。
アビゲイルの奏でるピアノの音を聴いた時から、アルトゥーロの心は彼女に囚われていた。
もう一度彼女の音を聴きたくて、一緒に音楽を演奏したくて、気がつけば彼女のことばかり考えている自分がいる。
先程アビゲイルの婚約者の青年を殴りつけたのは、彼女が大変な状況に追い込まれている時によりによってその妹と浮気していたことに対する怒りを覚えたからだが、そこに自分がアビゲイルへ向ける個人的な感情からくるものが無かったとは言い切れない。
自分は師匠の旧友のため、たまたま一時的にこの国に滞在しているに過ぎない。この国の貴族でもない自分に出来ることは無いとわかっている。それでも、彼女のために何か出来ることは無いだろうか、と考えられずにいられない。
アルトゥーロは重い身体をベッドに横たえながら、目を閉じた。
次回、明日18時更新予定です。