第三十五話:ぞぉん
「兄さま」
妹は14歳。
古い木の階段を急いで昇り、誰もいない闇を追いかける。
「兄さま! 待つて!」
紅い着物の裾が足にもつれる。
少女は階段を踏み外し、転び、落下して行った。
階段の角は待ち構えていたように尖り、彼女の脛を貪った。
「悪」という彼女の残した声が、いつまでも埃っぽい闇の中に残り。
ボイラー室では卵の姿をした博士が音を作っている。
彼は己の声を出せぬ代わりに音を作るのである。
音ははじめは美しい少女の声のようだった。
次第に博士は気が狂いはじめ。
鉄を引っ掻く音を好むようになった。
ぎりり、ちりり。
博士は背筋を抉るような音に生の喜びを見出だし。
やがてもっと、もっとと、世間を不愉快の底に叩き落とす音を求め始め。
「どう云ふことでせう?」
森太郎は屋敷に足を踏み入れると、案内人に訊いた。
「屋敷中に『悪』と云ふ音が張り付いてゐる」
「百年前、この屋敷で1人の少女が死んだのです」
案内人は暗い屋内にランタンを掲げ、言った。その顔は暗すぎて見えなかった。
「これはその少女の声ですよ」
「悪靈なのでせうか?」
森太郎が気弱そうにそう言うと、案内人は声を殺して「むっ、むっ、むっ」と笑った。
そしてその後は暫く何も云わずに屋敷内を案内して行った。
「私を招いた主は何処です?」
黙っていると不安しかなかった。それを払うために森太郎は訊いた。
わかっていた。こんな廃墟のごとき屋敷に住んでいる者など居る筈もない。
案内人は何も言わずに屋敷の奥へ彼を導くと、そこで消えた。
ようやく我に返り、森太郎は初めて気づく。これは夢ではない。自分はてっきり夢を見ているものだと思っていたのに。
出なければ、と森太郎は振り返る。
こんな薄気味の悪い屋敷から一刻も早く出なければ、と森太郎は早足で歩き出そうとする。
振り返った先に、火の玉が浮かんでいた。
森太郎は、一目で恋をした。
ずっと前世から逢いたかった女をそこに見たのだ。
「兄さま」
女は言った。
「ずっと、お逢いしとう御座いました」
女は紅い着物を着ていた。闇の中に透き通るように肌は白く、下半身は闇に溶けていた。
森太郎は魂を抜かれ、浮遊するように歩き出した。女に向かって手を伸ばし、求めるように。
女は背後に蜘蛛の巣を張っていた。
ぞぉん
その音は突如として、屋敷中を揺らすように響いた。
ぞぉん
ぞぉん
ぞぉん
世界を狂わす邪悪な時計のような音が、響き渡る。
何処から出ているものなのかは誰にもわからなかった。
女は美しかった顔を醜く歪め、打ち砕こうというように、口を開け。
ぎりり、ちりり
森太郎は耳を塞ぐが、その音は骨を通じて、身体の中へ染み入って来る。
ぞぉん
抗いきれず、森太郎の身体は破裂し、音となった。
ぞぉん!
音となった森太郎はたちまち復讐し、女の五体を引きちぎり、細いペンのようなもので内臓をかき回し、遂には無の中へと陥れた。
静かになった屋敷を森太郎が音となって支配していた。
誰も聞く者がいなければ音はない。それはただの空気の震動として、ただ聞く者の訪れを待つ。
誰も聞く者のいなくなった音は、ただ闇のように、女の薄れ行く意識を引いて、階段を昇って行った。




