第三十四話:呪われたジャズベース
20年ぶりにベースギターが欲しくなった。
最近お気に入りのバンドのベーシストが刺激的なスラップを聴かせてくれやがるせいだ。俺の闘争心に火を点けてくれやがった。
手元に一本あるにはある。高校一年の時、頑張って金を貯めて買ったやつだ。黴の生えたソフトケースから12年ぶりに取り出すと、ネックが反っており、弦高が高すぎてとても弾けたものじゃなかった。リペアするのも面倒臭く、激安の中古で程度のいいものが見つかればと期待し、リサイクルショップに足を運んだ。
バンドを組んでプロになるのが夢だった。
今はただの平凡な会社員だ。歳ももう三十代半ば。趣味でギターは弾いているが、本職だったベースは大学を卒業してから12年間、一度も弾いていない。
リサイクルショップに入ると迷わずジャンクコーナーをめざす。何しろ予算は四千円だ。ちゃんとしたものはとても買えない。
白い変形ベースが二千七百円、音出ませんと書いてあるのでスルー。黒いプレシジョンタイプが三千円、ネックが折れていた。さすがに最低一万円は出さないとろくなものがなかった。
店内をうろつきながら、諦めかけていた時、店の隅に隠れるように、青いフェンダージャズベースタイプのものが一本、立てかけてあるのを見つけた。
見た目は酷かった。
売り物とは思えないほどに埃をかぶっており、弦もいつ張られたものやらわからない。ホームセンターで売っているようなスプレー缶で再塗装されている。メーカー名を確認するとヘッドストックに黒のマジックペンで書かれたような文字で「ESK」とあった。ESPなら日本が世界に誇る高級楽器メーカーとして知っているが、ESKは聞いたことがない。っていうかどう見ても前オーナーの手書きだ。
しかし俺はなぜだかそいつが気になった。
俺に「弾いてくれ、弾いてくれ」と訴えかけて来ているように思えた。
手に取ってチェックしてみると意外なことにネックは反っていないしナットもほとんど減っていない。フロントボリュームのツマミがひん曲がっているが、回してみると問題なさそうだ。ボディー右側面に思い切りぶつけたような大きな傷を見つけたが、まぁ、いい。
適当にチューニングし、弾いてみて驚いた。ネックがまるで手に吸いつくようで、それでいてフレット移動もスムーズだ。フレットの減り具合とかよくわからないが、それほどへこんでいる感じには見えず、ビビるようなところもない。
何より抱き心地がとてもよかった。運命の女性に巡り逢えたような気持ちになった。値段は三千三百円だったが、三万三千円でも買っていたかもしれない。
店員に見る目がないとしか思えなかった。見た目は確かにボロボロだが、こいつ中身は最高の女だ。俺は惑うこと一つもなくそいつを抱き上げ、レジへ連れて行った。
アパートの部屋に帰ると新しい弦を張り、早速弾いてみた。もちろんアンプにヘッドホンを繋いでだ。ベースの音は何しろ重低音なので、建物を振動させてよく響くのだ。下の階の部屋のオッサンは少しおかしい人で、一人暮らしなのによく大声で「殺すぞ」とか叫んでる。包丁でも持って上がって来られたらかなわない。
俺は彼女を抱き、そのボディーの曲線をひとしきり手でなぞって楽しむと、音を鳴らした。
震えた。
なんて気持ちのいい音だ。俺の指先の肉に触れられるのをまるで喜んでいるかのように、そいつは官能的な振動で俺の耳を満たした。
トーンコントロールの利きも素晴らしい。高音を持ち上げるとシャープな角のある抜けのよいブライトトーンが響き渡り、絞ると女性的な柔らかな声のような、オノマトペでいえば「どぅっふーん」みたいな官能的な音が頭の中に広がる。
「これ……もしかして本物のフェンダーじゃねーの……?」
俺は思わず呟いた。
本物のジャズベースと呼んでいいのはジャパンフェンダー、メキシコフェンダー、フェンダースクワイヤー、そして本家USAフェンダーのものに限られる。あとは偽物のコピーモデルで、そういうのはジャズベースの後に「タイプ」がつく。こういうカスタムペイントされてメーカーロゴも手書きのものの正体はジャズベース「タイプ」であるのが普通だ。わざわざ本物をこんな有様にする理由がない。
しかしもしこれがUSAフェンダー製なら安くても10万円、ヴィンテージ物なら100万円以上するものを俺は三千三百円で手に入れたことになる。
「いや、まさか……」
俺は笑いながらもネックプレートを確認した。本物ならばフェンダーのマークが入っている筈だ。何の文字もなかった。他にも判別ポイントはありそうだが、生憎フェンダーなんて一生所有することはないだろうと、俺は詳しくはなかった。
「ありえない、ありえない」
大体、本物なら店員が気づかないわけないだろう。俺は笑い飛ばして曲を弾き始めた。
楽しい。自分が欲しがる以上の音を出してくれるので弾いていて実に楽しい。
弾きやすいせいか、昔は難しくて弾けなかったフレーズも弾けてしまう。何かに取り憑かれたように俺の指はスムーズに動き、自分が弾いているとは思えないほど気持ちいい音がヘッドホンの中に出力される。
その気持ちいい低音の前へ突然横から現れるように、かすれたような女性の声が聞こえた。
「……ガイ」
俺はぴたりと手を止めた。
耳を澄ます。しかしヘッドホンの中にはサーサーという小さなノイズと、弦をミュートした左手が立てる金属音のノイズが当たり前にあるだけだった。
つかれてるのかな。最近仕事が激しいもんな。そう思い、俺はヘッドホンをはずすと、風呂に入り、寝た。
夢の中で風鈴の音が聞こえた。
いや、夢じゃない。俺は目を開けた。風鈴の音が鳴っている。
俺は風鈴なんか吊ってはいない。こんな殺風景なアパートに一人暮らしで風鈴なんか楽しむ趣味はない。風鈴うるささに下の階のオッサンが包丁持って上がって来たら大変だ。
それでも風鈴は鳴っていた。どこからともなく、暗闇の中で。
ふいに冷たい白い手が俺の額に触れた。
誰かが枕元に座っている。
俺は体が言うことを聞かず、上を見ようにも見ることが出来なかった。
「……ネガイ……」と、女性の声がした。
俺は確信した。
ベースを弾いている時、ヘッドホンの中で聞いた、かすれるようなあの女性の声だ。
もう一度、今度もかすれたようではあったが、今度ははっきりと聞こえた。助けを求めるように。
「お願い……」
暫くの間、俺は目を開けたまま、何も出来ずに金縛りに遭っていた。気がつくと朝になっていた。
布団から起きるとすぐに青いESKのジャズベースを見た。昨夜寝た時のまま、ギタースタンドで大人しくしている。
やはり俺はそいつが好きだった。こいつがもし呪われているのなら、その呪いを解いてやりたいという気持ちになった。ようやく巡り逢えた運命の女がもし悪霊に取り憑かれていたら即刻別れるだろうか? 俺なら悪霊を祓ってやる。
愛する女を気遣うように、俺はそいつを抱き上げると、隅々まで確認した。どこかに血痕でもついてたら拭き取ってやりたかった。何かをお願いされているのなら、その願いを叶えてやりたかった。そして俺はようやく気がついた。ヘッドストックに書かれた文字はESKではなかった。線が一本、後からマジックペンで書き足されていたのだ。Fの下に一本、余計な横線が加えられてEになっていた。そう、それは元々は「FSK」だったのである。
仕事の合間に「FSK/ジャズベース」で検索すると2件ヒットした。
一つは個人のブログだ。中古で青いジャズベースを五千円でゲットしたというものだった。ヘッドにFSKと書いてあったけどダサいので線を一本足してESPっぽくしてみた、安物だからと気軽に扱っていたらコタツの角に思い切りぶつけ、大きな傷がついた等と書いてある。女性の声が聞こえたとかは何も書いていなかったが、2年前のその日を最後にブログの更新は途絶えていた。
もう一つは五年以上前の掲示板の書き込みだ。ホラー系のカテゴリの板で、新しい都市伝説を作ろうみたいなスレッドだった。
名無しの誰かによって3レスに渡る書き込みがされていた。それによるとヘッドにFSKと書かれた青い呪われたジャズベースが日本のどこかに存在するという。そのベースは元々フサコさんという女子大生が新品で買ったもので、彼女は90年代の初めにF市の大学内で結成された某ロックバンドに所属し、プロデビューを夢見ていた。しかし志半ばに病気で亡くなったのだという。バンドはその直後にレコード会社の目に止まり、デビューした。ヒット曲こそないが、今では音楽マニアの間では伝説のバンドとなっているという。
F市といえば俺の住む町の3つ隣の町だ。その町出身で伝説になっているマニアックな女性ロックバンドといえば心当たりがあった。俺はフサコと名付けた青いジャズベースに新しいソフトケースを買ってやると、次の休みの日、彼女を背負って電車に乗った。
実は俺のおばさんが例の伝説となった女性バンドのメンバーの母親の知り合いの妹だった。とても遠い間柄ながら、俺は糸を手繰るように、デビュー前に病死したベーシストの名前を突き止め、大伴房子の実家に辿り着いた。
「確かに……死んだ娘がこれを持っていました」
80歳近いだろうフサコのお母さんは、俺が青いジャズベースを見せると、懐かしそうな目をして言った。
彼女の家は古い日本家屋で、広い庭に面した縁側では風鈴が鳴っていた。
「恐らくはフサコさんの声だと思います。これを弾いたら女性の声で何かをお願いされたんです。何か心当たりはありませんか」
「お願い……ですか」
お母さんは暫く考えて、言った。
「心当たりはありませんが、きっとあの娘、みんなから忘れられたくないのでしょう。このギターを新しく持たれたあなたにも、自分のことを知ってほしいんじゃないでしょうかねぇ」
俺はフサコの写真を見せて貰った。俺より17歳上の、生きていれば52歳になっている筈の彼女は写真の中で、健康的に笑っていた。パーマをかけた簾みたいな前髪がなければ今見ても充分可愛らしい女の子だ。陽に焼けた顔に綺麗な並びの白い歯、この娘が死ぬような病気を患うことになるとはとても思えない。
何の手掛かりも得られず帰宅したその夜、また枕元にフサコが現れた。
風鈴が鳴っていた。俺は顔を動かし、彼女を見た。彼女は何も言わず、恋人を見るような目で俺を見、微笑んだ。
俺はWikipediaを調べた。
彼女のことが知りたかった。彼女のすべてが知りたくなった。どんなことを考えて、どんな音楽が好きで、どんな少女時代を送ったのか。しかしWikipediaを見ると、例の伝説のバンドの項目にフサコの名前はなかった。
普通、デビュー前に脱退したメンバーのことも記載がある筈だ。ビートルズのデビュー直前に死去したスチュワート・サトクリフだって記述がある。伝説にまでなっているバンドのメンバーなら、過去に在籍していた者の名前はすべて載っている筈だ。
簡単な一行でもいいじゃないか。
なぜ彼女の名前が歴史から消えている?
俺はいてもたってもいられなかった。
俺は初めてWikipediaへの書き込みをした。
過去に在籍していたメンバーの欄まで詳しく趣味まで記述のあるそのバンドの項目に、
過去メンバーの項目に短く「フサコ ベース デビュー直前に病気により死去」と。
それ以来フサコは現れなくなった。少し寂しいが、それこそが彼女がこの世に残していた未練だったのだろう。Wikipediaに俺が名前を記したことで、フサコは成仏したのだ。
俺は毎日青いベースを抱き、自分でも驚くほどに上達して行った。
35歳にもなって、会社を辞めてプロ志向のバンドを組もうとか思い始めているのは、もしかしたらフサコは本当は成仏などしてはいなくて、俺に取り憑いているのだろうか。
それもいい、と思っている。
俺は人生を変えられるほどの出会いをしたのだ。
これが悪いほうに転ぼうと、どうなろうと、この青いジャズベースと一緒にいられる限り、俺は幸せだ。




