第三十ニ話:理科室の秘事(ひめごと)
僕らは今日も教室で、みんな揃ってヤイトカズラに水をやる。
なぜこの花を育てるのかは知らない。ただ、日本中の学生が同じようにしているから、僕らもする。幼稚園でも、小学生も高校生も、そして僕ら中学生も、同じようにヤイトカズラに水をやる。毎日どこか悪いところがないか見てあげて、悪い葉っぱがあれば摘んであげる。
「なんで屁糞カズラなんか育てないといけねーんだよ?」
クラスで1番の変わり者と呼ばれる細田くんが後ろの席から僕に言った。
「だっ、だめだよ細田くん」
僕は慌てて振り向いた。
「そんなこと……それにヤイトカズラをその呼び方してるの先生に聞かれたら処罰されちゃうよ」
「だって屁糞カズラだろ」
そう言って細田くんは自分の机のど真ん中に置かれた植木鉢を頬杖をついて眺める。鉢から茎を伸ばし、ちょっと肛門にも似ている垂れ下がった花をぴんと指で弾くと、茎を揉んだ。たちまち糞尿のような悪臭が辺りに漂う。
「こんなくっせーもん育ててどうすんだ。バカじゃねーのか」
「刺激しなけりゃ悪臭は出さないし、花も凄く奇麗じゃないか」
僕は反論した。
「みんなやってるんだよ。細田くんだけツッパってやらないなんてダメだろ」
「けっ! どいつもこいつも従順すぎて情けねー犬みたいだ」
そう言うと細田くんはヤイトカズラの花をぎゅっと掴んだ。
「こんなもん俺は育てたくねーんだよ」
そしてそのまま引きちぎる。
「あっ! 何をするんだよ」
「俺だったらこんな食えもしねー赤く爛れたケツの穴みたいな花より大根でも育てることを推奨するね。これ始めたのって誰? 文部大臣? アホじゃねーの」
「あーあ……。花をちぎるなんてヤイトカズラが可愛そうだろ。君、そんなこと出来るなんて本当に人間かよ」
「ああ、俺こそが人間だよ」
細田くんは得意そうに言った。
「自分の意思で、自分のすることを決める。これこそが人間だろ」
「ちょっと」
細田くんの後ろに立った女子が声をかけた。
「あなた……。細田くんだっけ?」
「おいおい!」
細田くんは思わず笑った。
「同級生の名前覚えてくれてねーのかよ、委員長!?」
ひっつめ髪に黒縁メガネ。いつも厳しい目つきの学級委員長、八雲やよいが細田くんを見下ろしてそこに立っていた。
「覚えてたでしょ。間違ってたら失礼だと思ったから確認しただけよ」
「確認するほど自信がねーんだろ?」
細田くんは委員長をバカにするように笑った。
「同級生の名前ぐらい一発で呼べよ! えーと……八雲さんだっけ?」
「ちょっと一緒に来なさい」
委員長は鬼のような目になり、黒縁メガネの中から睨みつけた。
「やだよ。拒否権ぐらいあんだろ」
「ないわ。あなたはヤイトカズラを傷つけた犯罪者ですもの」
「犯罪!?」
細田くんは吹き出した。
「花をちぎったのが犯罪!?」
「いいから来て」
そう言うと委員長は細田くんの袖を掴み、引っ張った。
「嫌だって。行かねーって」
そう言いながらも細田くんは自分の足で立ち上がった。
「おいおい凄え力だな。本当に女かよ、やよいちゃん」
細田くんは委員長に袖を引っ張られ、とても素直に教室を出て行った。
まぁ、彼が前から委員長のことを『いいな』と言っていたことを僕は知っているので、わざとらしいなとしか思わなかった。あいつが委員長の名前を知らないわけがないだろう。
彼みたいな、良い言い方をすれば自由なヤツが、委員長みたいな真面目でルールを遵守する女の子に惹かれる気持ちは正直わからないけど、まぁ委員長はまるでお人形さんみたいに顔がいいから、それかな。
ところで僕は彼らを見送り、自分のヤイトカズラの世話を……するわけもなく、もちろんこっそり後を尾けて行った。
委員長が理科室の鍵を開け、中に入って行くのが廊下の角から見えた。
近づいてそっと扉を開けようとしたら再び鍵が閉められている。なぜ委員長が鍵を持っているんだろう? と僕は首をひねった。
窓のカーテンも隙間なく閉められていた。中で委員長が細田くんにどんな説教をするのだろうか、細田くんはドサクサ紛れに何か面白いことをして見せてくれはしないだろうか、僕はどうしても気になって、禁断の忍術を使った。とは言ってももちろん僕は忍者じゃない。ただ、知っていただけだ。うちの学校の理科室には下から潜れる小さな扉があり、それがいつも鍵がかかっていないことを。
体が小さくてよかった、と滅多にしない感謝を両親に心の中でしながら、僕は音を立てずに忍び込むと、実験机の下に隠れて二人のやりとりを見た。
「おいおい。こんな密室に2人きりになって、何するつもりだよ?」
細田くんが言った。
僕がそーっと机の下から顔を覗かせると、2人の顔が下から見えた。細田くんは明らかに挙動不審になっていた。無理もない、女子にまったくモテない彼が今、意中の相手とキスするほどの距離で向かい合って立っているのだ。
「あなた、少数派ね」
委員長が言った。
「たまにいるのよ。ルールを守らないで自分ルールで何でもしちゃう人間が」
「おう。俺は自由だからな」
細田くんが得意げに言った。
「自分ですることは自分で決める。それがどうした? お前なんかに文句は言わせねー」
男らしいようにも聞こえることを言いながら、細田くんに委員長を襲ったり告白したりする勇気はないようだった。委員長が距離を詰めるたび、たじたじとなって後ろへ下がっている。
「本当に少ないのよね」
委員長が言った。
「あなたでたったの九千七百三十ニ人目なんだから」
「は?」
細田くんの目が丸くなる。
「何の話?」
「ねえ、いいことしてあげようか」
委員長が急に目を潤ませ、艶のある声を出した。
「い、いいこと……って?」
細田くんの顔が真っ赤になり、目が物凄い速さで泳ぎはじめる。
「なっ……なに……もしかして……」
どうやらこの間エロ漫画で読んだようなシチュエーションが頭に浮かんでいるようだった。
「目を瞑って」
委員長が囁き声を吹きかけるように言った。
「気持ちよくしてあげる」
細田くんは声を失った。すぐに素直に目を閉じた。直立不動の姿勢で唇を尖らせて何かを待つ。カチンコチンになっている。
委員長って堅そうな見た目の割に、やっぱり顔がいいからかな、経験者なんだな、しかしなんで細田くんと……と僕がドキドキしていると、委員長は制服の上着のポケットからキラリと光る何かを取り出した。どう見ても刃物だった。メスのようなそれを躊躇なく細田くんの額にプスリと刺した。
僕の口から「えっ?」と声が出そうになった。しかし言葉はすぐに固まった。委員長が細田くんの額にメスを突き刺すとすぐに、物凄い勢いで下に向かって細田くんの体を切り裂いたからだ。
細田くんの皮膚は奇麗に切り開かれ、同時に委員長は魚でも捌くみたいにその皮を剥いだ。制服も下着もスッパリ切れ、中から赤と白の筋肉やら脂肪やらが丸見えになって現れた。まるで人体模型のようになってもまだ、細田くんは期待するように瞼を震わせて、何も気づいてないみたいに立っていた。
天井から何かが降って来た。ずっとそこにへばりついて待機していたようで、委員長が目配せをするとそいつはすぐにぺしゃりという音とともに床に着地した。皮だった。人間の形をした、皮だけだ。そいつは明らかに生き物で、皮を剥がされた細田くんに近寄ると、あっという間に包み込んだ。
剥がされた細田くんの皮を委員長は高く持ち上げると、口の中に入れた。つるつるとうどんでも吸うように委員長は細田くんの皮をすべて食べてしまった。
細田くんは目を開けた。
何も変わらない、いつもの細田くんに見えた。
制服もズボンもパンツも裂かれたはずなのに、すべて元通りだった。
「具合はどう? ヴェンハネム」
委員長が細田くんに聞いた。
「適合した」
細田くんはいつもの声で言ったが、明らかに別人だった。
「問題ない」
「あなたの名前は細田よ。下の名前は後で調べるわ」
「ホソダ、か。変な名前だ」
細田くんは言った。
「お前のことは何と呼べばいい、フジュライベア?」
「八雲やよいよ」
「ヤクモヤヨイ、か。まだ我々に近い名だな」
「さあ、その出来損ないの人間の操縦をお願いね、ヴェンハネム……じゃなくて『細田くん』。じきに宿主の記憶があなたと同化し、あなたは彼を産んだヒト族の男女にとっても違和感のない彼らの息子に自然に変化する。ただし人前でヤイトカズラを食べてはダメよ。人間の食べ物を食べなさい」
「腹が減った。ここで食べて行っていいか」
「そうね。私も」
そう言うと委員長の可愛い顔がどろりと崩れた。
「お腹が空いたわ」
理科室にも置いてあるヤイトカズラの鉢を2人は囲むと、表皮だけがゴムのように伸びて、シャコシャコという咀嚼音を響かせて貪った。
僕は必死で声も息も殺して、奇妙な食事をする2人をただ凝視していた。
「さあ『細田くん』。教室へ戻りましょう」
委員長の上履きが僕のすぐ目の前を通った。
僕は動揺して、床と机の間でガタンと小さな音を立ててしまった。
「うん?」
委員長が立ち止まった。
暫く気配を探るように見回していたようだったが、
「誰もいるわけないわね」
そう言うと2人の靴音は揃って理科室から出て行った。
みんなと同じようにヤイトカズラのお世話を甲斐甲斐しくする細田くんに、僕は話しかけられなかった。
それはどこからどう見ても細田くんで、世の中を舐めてるような表情まで見事にコピーされている。
委員長がやって来て、後ろから細田くんに話しかけた。
「あら『細田くん』。ヤイトカズラの飼育を真面目にやるようになってくれたのね」
細田くんはいつものおどけたような姿勢で振り返り、
「悔しいけどやよいちゃんの説教が効いたよ。確かに言う通りだよな、みんながやってることには理由がある。みんながやってるからにはその理由は正しいものだ、考えるな、反抗するな。確かにその通りだよ」
ふざけた口調で、真面目なことを言った。
「偉いわね。以前のあなたは軽蔑されるべき、いい加減な人間だった。今のあなたは敬意を払われるべき、正しい人間よ」
僕は決してそっちを向くことなく、授業の予習をするふりをして耳を攲てていた。
委員長が細田くんの側を離れた。僕の横を通り過ぎようとする。何かに気づいたように声を出した。
「あら? あなた、ヤイトカズラに朝のお水をちゃんとあげた? 葉っぱが一部枯れてしまっているわよ?」
「すっ……すいません!」
僕は慌てて、平伏する勢いで謝った。
委員長の顔が僕に近づいて来る。作り物みたいに綺麗な顔が。
そして僕の耳元に唇を寄せると、言った。
「ちょっとあなた。放課後、理科室まで来てくれる?」
声に挑発的な色が混じった。
「名前入りのハンカチ、落としてたわよ?」
「えっ!?」
しまった! あの時、胸ポケットから落としてたのか!
母さんが悪いんだ。中学生にもなって名前の入ったハンカチなんか持たせるから……!
そう思いながら、慌てて自分の胸ポケットを確認すると、あった。胸ポケットから、僕の名前が入った部分を外に向けて。それをじっと見ていた委員長は、僕の反応に目を蛇のように光らせ、言った。
「今すぐ、いらっしゃい」




