第二十八話:森に棲む姉妹
ミッシェルデンバーの森で道に迷ってしまった。
鹿狩りを趣味仲間の3人とやっていたところ、私1人だけはぐれてしまったのだ。
乗って来た馬の声も聞こえない。
春の森の中は涼しく快適で、この辺りに危険な獣が出るという噂は聞いたことがない。それでも私の心は焦燥感に囚われ、足は森から抜け出そうと歩き回った。
「おーい!」
私は仲間達の名前を大声で呼んだ。
「ウィリアム! ヘスター! チャールズ! どこだ?」
ただコマドリのジッ、ジッ、ジッ、という囀りの声が返って来ただけだった。
暫く歩いていると、森の地面が一面夢のように青く覆われているところへ出た。ブルーベルの花だ。薄暗い森の中でもそれは明るく、幻想的な色を浮かべていた。
私が花を踏んで歩いていると、急に木の陰から飛び出して来た少女とぶつかりそうになった。
「や……! これは失礼!」
咄嗟に身を引いた私が山高帽を脱いで謝ると、彼女は面白がるような顔で私を見た。
この世のものとは思えない、まるで神話を描いた絵画の中から現れたような少女だった。
輝くような金色の長い巻毛は装飾品のようで、同じく金色の睫毛の下の青い瞳が悪戯っぽい色を浮かべていた。
「ああ驚いた。ぶつかると思った。よく避けてくださいましたわね」
少女はあどけない声で、しかし少し大人びた調子で言った。
「物陰から走り出してしまった私が悪いのよ。いいえよく分かっておりますわ……。あら? どうなさったの?」
何かを隠しているかのように笑う彼女の、その美しさに見とれていた私は、驚きの理由を1つだけ口にした。
「ああ、失礼。こんなところに人がいるとは思わなかったもので……。君は、この近くに住んでるのかい?」
「森の中に村がありますのよ」と、少女は微笑んだ。
こんな何もないところに人など住んでいるわけがないと思えた。
しかし私は藁をもすがる思いだった。少女に導かれ、その村へ案内してもらうことになった。
少女のあとをついて歩き、薄暗い森の中を通って行くと、だんだんと周囲の音が消えてなくなり、私達二人の足音だけになった。地面には固くて背の低い草が茂っており、私達は骨を踏むような音を鳴らし、無言で歩いて行った。
暫く行くと、木々の隙間を縫って、青白い光が少し遠くに見えてきた。昼間だというのに森の中が薄暗いせいか、それは淡い色を浮かべながらも鮮やかに、私を誘うようにユラユラと揺れている。
「あれは?」と、私は少女に聞いた。
久しぶりに口を開いたような気がした。
「何の光?」
少女は答えた。
「お姉様ですのよ」
そして自慢するように私に言った。
「お姉様はヒトダマですの。お美しいでしょう?」
あまり洒落ていないジョークだと思いながら、そのまま少女について歩くと集落が見えて来た。小さな木造家屋が5〜6軒だけの、小さな集落だ。
それは田舎臭さのほとんどない、絵本の中にでも出て来そうな、可愛らしい景色だった。小川には小さな水車が回っており、色とりどりの花が額縁のようにすべての建物を囲んでいた。
「ああ……! 有り難い!」
私は少女に言った。
「何か飲み物を貰えないかね。喉がカラカラなんだ。水でも結構なんだが……」
「甘い紅茶がありますわ、おじさま」
少女は無邪気な声で言った。
「赤い果実の紅茶で、とっても美味しいんですのよ」
「あ、いや。紅茶なら糖分のないのをくれないか。すっきりしたものがいいんだ」
私が言うと、少女は急に黙り込んだ。
無表情に地面の一点を見つめ、何も言わなくなった。
私が不思議に思っていると、背後から女性の声がした。
「まぁ、お客様なの? マリーゴールド」
「ローズお姉様」と、少女が嬉しそうに言った。
振り返ると、そこにはまるで妹とは別の絵画から抜け出したような美しい貴婦人がいつの間にか立っていた。
妹が神話の絵ならば、姉は貴族の令嬢を描いた肖像画だ。漆黒のドレスを身に纏い、赤い巻き毛が名前の通り薔薇のようだ。
こんな森の中に村があるというのも驚きだったが、それ以上に彼女は僻地に住んでいるにしてはあまりに垢抜けていて、私を心の奥深いところから驚かせ、感動すらさせた。
「道に迷ってらっしゃったのよ。ええと……」
マリーゴールドと呼ばれた少女が私を紹介しようとした。
私は少女に名を名乗っていなかったのを思い出し、帽子を脱いで自己紹介をした。
「トーマス・ウィーラーと申します。鹿狩りをしていたら仲間とはぐれてしまい、森を彷徨い歩いていたところを妹さんに助けていただき、ここまで案内してもらいました」
「お客様だなんて、久しぶりね」
ローズさんはそう言うと、笑った。
今から思えばそれは獲物を目の前にした肉食動物の笑いだったように思えるが、その時の私にはとても魅力的な、女性らしい笑いに見えた。
「大変な目にお遭いでしたわね。私達の家へどうぞ。何かご馳走いたしましょう」
それは落ち着く木の香りに満たされた小ぢんまりとした部屋だった。
女性の部屋らしく窓辺にも壁にも花が飾られ、しかしその香りが漂わないのは、それらはすべて色も形もそのままに、カサカサになるまでに枯れているのだった。
しかし木の香りに混じってほんのりと、あの森の通り道で夢のように地面を覆い尽くしていたブルーベルの匂いが、もう今はどこにもないのに立ち込めているように感じた。
小さなテーブルに白地に赤い薔薇の模様が施されたティーカップが置かれ、ローズさんが湯気の立つティーポットを手に部屋に戻って来た。
「さぞかし喉がお乾きでしょう」
彼女はティーカップに赤いお茶を注ぎながら、長いその睫毛越しに私を見た。
「この村特産の赤い実の紅茶ですの。さ、どうぞ」
差し出されたものを手に取り、私はその香りを嗅いだ。
とても甘く、胸に支えるようなその重たい匂いに、私はどうにもその紅茶を口に流し込む気が失せてしまった。
よく見ると底にはイチゴの先を切り取って潰したような赤い実が沈んでおり、その姿がまるで人間の舌の先を切り取ったもののように見えてしまって、余計に私はそれを飲むことが出来なくなった。
口に近づけたり離したりを繰り返している私を見て、ローズさんが焦れたように言った。
「どうしたの? 早くお飲みなさい」
命令口調に私は私は初めて不審の念を抱いた。
「早く! 喉が乾いているんでしょう?」
そう言ってローズさんの口が大きく開いた時、私は見た。彼女の舌が、その先端が、ちょうど紅茶の底に沈んでいる赤い実ほどの大きさで、欠けているのを。
マリーゴールドがぶつかるように後ろから私に抱きついて来た。
もの凄い力だった。まるで熊にでも抱きつかれたように、私は動きを封じられてしまった。
「何をするんです!?」
私は声を上げた。
「君達は……いったい……!?」
私がソーサーに戻していた紅茶を手に取ると、ローズさんは口元に隠微な笑いを湛えながら、それを近づけて来る。
「この紅茶は私とあなたとの口づけです」
私の鼻をつまむと、それを流し込んで来ようとする。
「どうか、受けてくださいまし」
後ろで私を拘束しているマリーゴールドが猪のような、野太い声を出した。
「おまえもここでわたしたちとおなじく、しあわせになるんだ! しあわせに! しあわせにだ!」
「やめろ!」
私は顔を振ってそれを拒もうとした。
しかしマリーゴールドが後ろから私の頭を掴むと、私は顔を振ることが出来なくなった。
「やめてくれ!」
大きく口を開けて叫んだ私のその口の中に、ローズが紅茶を流し込んだ。
甘い、甘い、油のような味がした。
私は友人達に手紙を書いた。
長閑な森の中で知り合った村娘と結婚したと。
村人たちはとても親切にしてくれ、私達の生活を手助けしてくれると。野菜や肉をいつもくれ、何一つ不自由のない生活を送っているのだと。
だから何も心配しなくていい、遊びに来るな、心配しなくていいからと、したためた。
その手紙が届くことはないだろう。
郵便配達はこの村にはやって来ない。
森の奥に墓場があることを知る者は、誰も生きてはいないのだから。




