第十話:湖上を歩く影
★恐怖度:6
旅先での朝の出来事
靄は動かなかった。
早朝の湖上から立ち昇る白い炎が時間を止めたように、ただそこにじっとしてあった。
陽の昇る時間を過ぎても薄暗く、灰色の岸には石灰のような骨のかけらが誰かによってばら撒かれている。
その湖は入水自殺の名所であった。
なぜ私がそんな早朝にそこにいたのか、説明するのは難しい。
誰かに呼ばれた気がして目が覚めて、気がつけばホテルの部屋を抜け出していたなんて、言ってもわかってくれる人はいないように思える。
気づけば畔に立ち、湖を眺めていた。
葦の林を掻き分けた記憶はなかった。しかし私はいつの間にか背の高い葦に囲まれた中にいて、阿呆のように湖を眺めていたのである。
大きな灰色の鷺が泥の上に立って湖のほうを向いていたが、私が横を通って行っても石化しているように動かなかった。
湖の上を、影が歩いていた。
少し遠くて姿はわからなかったが、明らかに誰か人間のようなものが、音もなく水の上を歩いているのだった。
きっと、女性だ。細い影が長い髪の毛を揺らすので、私はそう思った。
ゆっくりと感情なくその影が動いても、靄は少しも揺れはしなかった。
いつの間にか、ホテルのベッドに戻っていた。
だからたぶん夢を見たのだと思った。
起きて顔を洗い、歯を磨き、食事へ行く用意をするまでは、夢だと思っていた。
脱いだホテルの浴衣の背中に葦の穂が細かくくっついていた。
窓から湖が遠くに見える。
眺めると、その中央に人影があった。
遠くからでもわかるその女の影が、私に向かってゆっくりと手招きをしていた。
脚色はありますが実体験です。




