9.お父様が怖かったです
アイドルの握手会よろしく、セバスによって流れるようにラルフから引き離された私はそのまま二階へ向かった。パーティー用のドレスのままだったから着替えた方がいいかとも思ったけれど、屋敷中に漂うぴりぴりした空気にそれどころじゃないことは私にも分かる。使用人達の怯えた表情を見たらお父様の機嫌なんて一発で分かってしまった。
(ごめんね、皆……)
誰も何も言わないけれど、気遣わし気な視線があっちこっちから注がれて申し訳ない気持ちになる。そうして辿り着いたお父様の執務室の前で、私は一度深く深呼吸をした。胸いっぱいに酸素を吸い込んだら、覚悟は万端だ。
「お父様、いらっしゃいますか」
ノックをして返事を待つ。ドキドキしながら両手を前でぎゅっと握り締めると、やがて中からお父様の低い声が聞こえてきた。
「入れ」
「失礼致します」
扉を開けると、仄かにインクの香りが鼻先を掠めた。部屋の中は四方が本棚に囲まれていて、正面の窓際に立派な執務用の机が置いてある。その椅子に座れるのは歴代のクリスティアラ家当主のみ。
エリアス・クリスティアラ。精悍な顔立ちと鋭い瞳からは感情が読み取れず、それが逆に威圧感を増長させていた。怒っているようにも見えるしいつも通りにも見える。
いや、怒ってることに間違いはないはず。だってよく分からないけどお父様の背後からどす黒いオーラが出ているような気がするんだもの。
ゲーム中は名前くらいしか出てこなかったけれど、私とラルフとも同じ淡い空色の髪に紫色の瞳をしていて、『私』は初めて会うけれど親子なんだなあとしみじみ実感した。
「ただいま帰りました」
ドレスの裾を摘まんで一礼すると、お父様は無表情のまま頷く。
「殿下から婚約破棄を言い渡されたそうだな」
「……はい」
やっぱりご存じでした。
私も結構なスピードでパーティーから離脱したのにそれよりも早いなんてどういうことなの。忍者でも雇ってるのかしら。
いや別に隠そうとか誤魔化そうとかは全然思っていないのだけれど、心の準備とか心の準備とか心の準備とか色々あるんです。
でもどうやって切り出そうか悩んではいたから丁度良いかもしれない。もう回りくどいのはなしにして正直に言う方がきっと言ってしまおう。
そう決意した私は覚悟を決めて背筋を伸ばした。
「私は学園内でララ・コーラル嬢へ意図的に暴言を吐いて精神的苦痛を与えておりました。それ故殿下は私が婚約者に相応しくないと判断し、公爵令嬢としての身分を剥奪した上でララに誠心誠意仕えるよう罰を下されたのです」
言った。言ってしまった。
けれどお父様はじっと私を見つめたまま口を開かない。
「この度は私のせいでご迷惑をお掛けすることとなり申し訳ございません」
もう一度深く頭を下げる。
居たたまれなくて自分の爪先しか見れなかった。そういえばサフィールから逃げるのに全力疾走したから足元が少し泥で汚れている。はっとして、少しスカートの裾を握り締めた。公爵令嬢であるのに身嗜みに気も使えないなんて思われそうで、それがとても恥ずかしいことのように思える。
「……」
お父様はそんな私をどう思ったのか、それでもまだ無言だった。許しを貰わない限り頭を上げることすら出来ない私が腰を折ったまま硬直していると、やがて椅子から立ち上がる音が聞こえた。
(きた!)
そのまま机を曲がって静かに私に近付いてくる。どくどくと心臓の音が大きくなり、私の視線の中にお父様のよく磨かれた革靴が映った。
「シンシア、顔を上げなさい」
「……はい」
言われた通りにゆっくり顔をあげる。凪いだ水面のように無表情で、それがまた恐ろしい。
「まず」
ごくりと唾を飲み込むと、お父様が話し出した。
「公爵令嬢としての身分剥奪はあり得ないだろう」
「……どうして、でしょうか」
だって、カイル様はあの場でそう宣言したのだ。大勢の人が証人であるのに、それを覆すとは到底思えない。
「王ならばまだしも、いくらカイル様とてクリスティアラ家に干渉する権限は持っていないはずだ。殿下お一人の意志で公爵家をどうこうできるほど、我がクリスティアラ家は脆弱ではない」
決して慢心でもなんでもなく、ただ事実を述べているだけなのにそれが酷く安心させてくれた。
断罪で一番怖かったのはクリスティアラ家に対する制裁だった。シンシア個人に対してならどんなことでも受け入れるつもりだが、ラルフやお父様にまで迷惑をかけてしまうことが何より心配で仕方がなかった。
「次にコーラル嬢へ仕えるという件だが、それについてはどう考えている?」
「私は――――」
たった一人、あの場で私を庇ってくれたララ。
可愛いから傍にいたいっていうのもイケメンを少し離れた場所から眺めたいっていうのも勿論本心だけど、『シンシア』としてなら理由はたった一つだ。
「償いをしたいと思っております。私の幼稚な言動を寛大にも受け止めて下さった彼女の力になれるのであれば、全身全霊で努めたいです」
怒るだろうか。私の振舞い一つ一つがお父様の評判にも関わってくる。もう既にララを虐めたというだけでその顔に泥を塗っているようなものだけれど、更にクリスティアラ家として陰口を叩かれることにもなりかねない。
それを家督であるお父様がお許しになるとは到底思えなかった。のだが。
「いいだろう」
「えっ」
思ったよりもあっさり頷かれて拍子抜けする。いいだろう、っていいんですかお父様!
「その、私が言うのもなんですが、よろしいんですか……?」
「己の手で罪を償える機会を頂けたんだ。感謝すべきことでもある」
「それは確かにそうですが、そうではなくて」
なんと言ったらいいか分からなくて口籠ってしまった。でもお父様はちゃんと理解してくれたようだった。
「家名のことならば心配しなくていい。お前を甘やかしすぎてしまった責任は私にもある。それよりもコーラル嬢へ尽くすことだけを考えていなさい」
「……ありがとうございます」
なんかじーんときてしまった。あれだけ怖いと思ってたオーラがいつの間にかなくなってるし、むしろほんわかしてる。滅茶苦茶いいパパだった。そしてイケメン。
「後日正式な通達があるだろう。ひとまず湯を浴びて休むといい」
「はい、お父様」
そう言うと、お父様は着ていたジャケットを脱いで私の肩にかけてくれる。ドレスのままで少し冷えていたのが仄かに温かくなって、ほっと体の力が抜けていくのが分かった。
仄かに整髪料の匂いが漂ってちょっとだけ気恥ずかしくて、ジャケットの前をぎゅっと抱き合わせるとお父様に包まれてるみたいだった。
それにも温かい目で見守ってくれていたお父様の視線が下に下がり、その瞬間空気ががらりと変わる。えっ、なに。
「――――それと、踵の怪我はセバスに看てもらうように」
帰ってきた時と同じ、いやそれ以上に不機嫌オーラがぶわっとお父様から噴き出た。思わず言葉を失っていると、じろりと睨まれた。
「返事は」
「は、はい!」
いや確かにヒールで全力疾走したから靴擦れしてて痛いなあとは思ってた。でもそんなに怒らなくてもと内心半泣きで部屋から出ると、廊下でセバスが救急箱を抱えて待っていてくれたのでちょっと泣いてしまった。