【5】悲しいとは否定の受け入れ作業
悲しいとは発生した否定の情報を処理するべくその内容を自身の中に受け入れていく作業である。
本来、否定とは肯定を求める人間にとって受け入れがたいものだ。
しかしながら受け入れなければ結論が出ない時、嫌々ながら受け入れなければならない。
嫌々である故に脳が思考するのを拒否するのに逆らっての処理となるために時間がかかり体への負担がかかる。
そのため対外的に行動力も低下するので周囲の味方へ行動の制限がかかっていることを示すために涙を流す。
涙は思考に負担がかかり行動に制限が生じている時の対外的なアピールなのだ。笑いすぎて思考力が低下し行動に制限が生じている時も同様に涙を流すことがある。
涙を流さないためには否定の情報を処理する訓練を重ねて行動への制限が発生しない程度に思考を制御するすべを身に付ける必要がある。
また悲しみにくい人は否定の情報の受け入れ処理が早いか、そもそも受け入れることを拒否している場合である。
否定の処理は基本的に二通りの意味合いを持つ。
繰り返してはいけない悪しき教訓か、否定の情報の正当化のどちらか、もしくはその両方だ。
例えば親から殴られたとする。
「殴られると痛いから殴ってはいけない」、「殴る親は悪い人だ」といった考え方は悪しき教訓としての処理。
「殴られるほど私が悪いことをしたから教育として殴ってくれたんだ」、「殴られたかったから殴られてて私は殴られると嬉しいんだ」、「殴られたのは別の(人格の)誰かだから関係ない」といった考え方は否定情報の正当化として処理である。
否定の処理というのは非常に重要でこれを間違って行ってしまうと認識のゆがみを生み出してしまう。
そもそも否定の情報を受けない方が人として幸せではあるが、自身が処理したことのない情報によって他人がどう認識するか理解が及ばないため、意図せず他人を傷つけ否定する言動を取る危険性を持つということも忘れてはならない。
余談となるがエンターテインメントして悲しむことを楽しむということはどういうことなのかというと悲しみで頭をいっぱいにすると楽しいことで頭がいっぱいになったのと似た状態になるからである。
そしてエンターテインメントである以上、体験ではあるが自身にとっての事実ではないという安全装置がある。
どんな悲しい否定を受けてもそれは自分に起こった出来事ではないと打ち消すことができてしまうので苦痛としては残らないのだ。
その作品と同様の実体験を持ち、過去の辛い記憶を呼び戻すようなもの出なければだが。