【13】思考と感情の違いについて
≪【1】人間は肯定を求める生き物≫において
「人間は自分を『肯定』するものか『否定』するものかで思考が作られている。」
と筆者は述べたが、正確には思考には感情を含まないものとしてご理解願いたい。
何故なら感情は人体や脳における安全装置であって思考を常に乱すものではあっても思考そのものではないからだ。
脳内伝達物質などが感情を作り出す脳の安全装置に該当するものであり、鬱や躁・統合失調症などの精神疾患の多くはその安全装置が何らかの形で正常に働かなくなったりしたものである。
思考そのものは記憶からなる『肯定』と『否定』によって構成され、脳の状況に合わせて感情という安全装置が影響を及ぼすということである。
本執筆はそれらのシステムを筆者が有する知識と思考実験により推測したものを仮説として提示することを目的としており、それが事実であるかの証明や否定は未来の人類が成してくれるだろうと期待を込めてのものである。
筆者が記したことに対しての反証があれば感想のページなどで書いて貰えればそれを吟味してその意見が正しければ改正し、間違っていればより詳しい解説をしたいと考えている。
ただしソースや具体的な根拠を要求する行為には答えかねることをご理解願いたい。繰り返しになるがあくまで有力な仮説を上げることを目的としているだけで証明をなすことを目的としていないからだ。
筆者の都合について書くのはここまでとして本筋に戻るとしよう。
感情がなければ思考が常に正しく行われるのではないかと考える方もいるかもしれないが、そうはいかないのが人間の体である。
脳や肉体には能力に限界がある。限界を超える活動はダメージを発生させ度が過ぎれば病気や死へ繋がる。
そうならないために感情が思考の抑制や思考に適した肉体活動への状態変化などを行って問題が起こらないようにコントロールしているのだ。
しかし感情は完璧なシステムではないのは誰もが知っての通りだろう。あくまでその個体の状況を安定させることにしか重きを置いておらず、体外の状況に対しては最善の手ではないことも多い。
感情のシステムに負荷がかかり続ければ異常をきたすこともあるし、遺伝的な異常や外傷による欠落にも大きな影響を受ける。
個人の肉体としては保護できても社会的な活動においての保護を感情は全く行ってくれない。
社会的な活動においてカバーする役割はあくまで思考なのだ。
感情はあくまで体に備わっている個体差のある機能に過ぎず個人の意思でそれを自由に改変することはできない。
我々にできるのは自身や他人それぞれの感情のシステムを理解して思考によって感情が害にならないように誘導する術を見出すことだ。
感情をただの邪魔者だと思っている限り、人間は真の意味で感情を支配することはできない。
感情は我々を守ろうと必死に動いてくれているだけなのだ。
それを否定して思考だけで無理に動こうとし続ければ感情というシステムは大きな負荷を受けていずれ壊れることになる。
壊れたときになって初めて感情は必要なものだった知ったのではあとの祭りである。壊れた感情は物理的な損傷なのだ。いくら思考を巡らしたところで精神力などで治ったりはしない。
そうならないためにも人は感情を自身を守ってくれる友人と認め、上手く付き合っていく生き方を探さなければいけない。
それは自分だけの感情ではなく他人の感情も同様だ。
他人の感情も否定してはいけない。その否定はその人を壊そうとする攻撃なのだ。
するべきは感情の否定ではなく思考の修正である。感情との付き合い方を正しく直すべく導けるならそれに超したことはない。
ただ注意するべきは全ての人間が思考を修正できるわけでもないことと壊れてしまった感情を持つ者は言葉だけでは治しようがないことだ。
修正できるとしてもその労力が見合わない場合も多いだろう。
そういった場合は関わりを極力絶った方が自身のことを考える上では得策であろう。
基本的にそういった人間は周囲への害になる。
どうしても関わりを絶てない人間の場合は周囲に理解を深めてもらい手助けを求めるなどして負担の軽減をしなければ危険であることはご注意されたし。