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お嬢

作者: 内角秀人

久し振りに投稿します。ヨロシク。

 昭和六十二年三月。


 その頃、僕は千代田区紀尾井町で遺跡調査作業員として働いていた。卒業を間近に控えていた大学四年生の春休みだったにもかかわらず、そのアルバイトを続けていたのには理由があった。


 僕は同じ発掘現場で働く一人の女子学生に恋していた。名前は矢倉香織といった。だが、誰も彼女を本名で呼ばなかった。僕たち調査団の面々は愛情を込めて、『お嬢』と呼んでいた。彼女は春休みが始まった二月頃からプレハブ建ての作業所で、調査団の室内整理員として働いていた。


 『お嬢』は、正真正銘掛け値なしのお嬢様だった。矢倉家は代々学者を世に送り出してきた家柄であり、御多分に漏れず『お嬢』の父親も考古学を専門とする大学教授だった。母親が早々に夭折していたが、『お嬢』は父親とその妹にあたる叔母に、蝶よ花よと何不自由なく育てられたそうだ。


 特に父親の彼女に対する可愛がりようは、半端なものではないと聞く。片時も目を離さずにはいられないといった感じで、自分が勤める皇族御用達のG大学文学部史学科に通わせ、昼も夜も面倒を見ていた。『お嬢』もその期待に応えて、よく勉強しているらしい。この調査団に加わったのは、社会勉強になるからという父親の強い勧めがあったからだそうだ。


 『お嬢』には、人を惹きつけてやまない強烈な魅力があった。彼女の素晴らしさを何と形容すればいいだろう。そんじゃそこいらの女性には及ばない美貌を持ち、その立ち振る舞いからは知性や品格が感じられた。身体は小柄ながら、背すじはすうっとしている。芸能人など、目じゃない。敵いっこなかった。彼女は働き始めてすぐに紀尾井町現場のアイドルになり、僕は一目で虜になった。


 『お嬢』と恋人同士になりたい。いや、一度でいいから、デートしたい。僕はそんな想いを抱いていた。


 ああ、愛しの『お嬢』。首を傾げる。手を差し出す。背伸びをする。そういった仕草の一つ一つが可愛らしかった。生き生きとした澄んだ瞳がたまらなかった。その笑顔、その表情。僕は昼の休憩中、いつも見とれていた。


 所詮、叶わぬ恋だと分かっている。貧乏学生の僕にとって、『お嬢』は高嶺の花である。それでも彼女と同じ場所にいられたら、同じ時間を共有出来たら、同じ空気を吸っていられたら、それだけで十分だった。


 このまま時間が止まってくれたら、と何度思ったことか。僕は『お嬢』と離れたくなかった。少しでも側にいたかった。ただ、僕は大学を卒業し四月になると、田舎に帰らなければならない。彼女も学校に戻ってしまい、今のように毎日顔を見ることができなくなる。


 何とかしなくては。


 もうすぐ四月だ。タイムリミットは近づいていた。せめてこの胸の内だけでも彼女に伝えたい。


 『お嬢』のガードは固かった。彼女は滅多に一人でいない。いつも『侍女』とあだ名されている同じG大学の小佐野茂子と一緒だった。『侍女』は『お嬢』の父親である矢倉教授の言いつけで、『お嬢』を守っていた。


「矢倉さんは、このようにおっしゃっています」


 『お嬢』は僕たちに直接話すことをしない。休み時間、皆の談笑の中に入る時も『侍女』経由で会話に加わり、自分自らは言葉を発しなかった。まるで外国人が通訳を介するかのようである。それがまた、彼女の奥ゆかしさを物語っていた。


『お嬢』はいつも仕事が終わると、『侍女』と二人でさっさと帰ってしまう。門限が厳しいからだろうか。僕たちが主催する飲み会などに参加することはなかった。誘いの声を掛けるのも憚れた。僕たちはそんな『お嬢』を肴に大いに飲み食いし、語り合っていたものだ。


「で、内角さんはどうするんですか?」


 宴たけなわの席で、僕の大学の後輩である進藤が訊く。


「えッ、何のこと?」


 上の空だった僕は訊き返す。


「いやだなあ、人の話、ちゃんと聞いているんですか?」


「悪い、悪い。ちょっと考え事をしていたものだから…」


「例のお茶会ですよ。参加するんですか、しないんですか?」


「ああ、あれね」


 お茶会というのは発掘現場の近くにある紅茶専門店で紅茶を飲み、品評会を行なうというただそれだけの、僕にとっては些か物足りない催しである。どこぞの上流かぶれした女子学生が企画した催しらしい。


 どうしようかな。


「あまり気乗りしないな」


 僕は答えた。大の大人の男がチマチマと紅茶など飲んでいられるか。飲み会ならば酒好きの僕は喜んでさんかするのだが。


「じゃあ、不参加ですね」


「そうだなあ」


 しばし、考えた。


「おまえはどうするんだ?」


「僕は不参加です。その日はデートする約束があるもので…」


 羨ましい。他に予定があるわけでもないが、僕も不参加にしようか。


「聞くところによると、米沢や山中、江西は参加するらしいですよ」


「何ッ!」


 と、いうことは…。


「今回、『お嬢』が参加するんですよ。勿論『侍女』もね」


「おい、それを早く言えよッ。本当か?」


「本当ですよ」


「よく『お嬢』が参加する気になったな」


「もう春休みも残り少ないから記念に、と言って、幹事が必死に口説いて勧誘したらしいですよ」


「参加だ、参加。俺も参加するぞ!」


 僕は手にしていたグラスを放り投げ、進藤に摑みかかった。


「ははは、分かりました。分かったから、手を離して下さい。ははは、内角先輩、あなたもやっぱり『お嬢』を狙っていたんですね。本当に分かりやすい人だ。ははは、参加するって、幹事に伝えておきます。頑張って下さい。ははは」




 『お嬢』に恋し、あわよくば彼女にしたいと本気で狙っている輩は、紀尾井町の発掘現場にいる者の仲だけでも僕以外に三人いた。


 一人は、米沢孝明。W大学文学部史学科在籍の二年生。


 大学の考古学研究会に所属している。坊ちゃん刈りで度の強い眼鏡をかけ、小柄な身体をさらに縮めるかのようにやや猫背にして、トコトコと歩く。時折気弱そうな笑みを浮かべている。


 『お嬢』の父親を尊敬しているらしく、自分も学者になりたいと何かにつけて口にする。矢倉教授と共同研究をするのが夢だと熱弁をふるう。その線からも『お嬢』にアプローチをかけているが、反応は今一つのようである。


「米沢さん、矢倉さんはあなたのこと、すぐまとわりついてきて、少しうっとおしいそうです」


 『侍女』が『お嬢』の気持ちを正直に伝える。


「そ、そんな…」


 米沢は映画観賞や博物館巡りなどにしきりと『お嬢』を誘っていたが、その度やんわりと断られていた。


「矢倉さんは、あなたとは同じ現場で働くいい友人でいたいと言っています。これ以上、しつこくしないで下さいとのことです」


「わ、分かりました」


 意気消沈する米沢の姿からは、滑稽さを通り越して哀れささえ感じられた。もっとも恋のライバルである僕は心の中で、シメシメいいぞ、とほくそ笑んでいたのであるが…。


 何度断わられようが、それでも米沢は毎日めげずに現場にやって来る。万が一を当てにして。


 そして、お茶会というチャンスがやって来た。


 二人目は、山中元宏。T大学文学部史学科在籍の三年生。


 大学では、アメリカンフットボール部に所属している。ポジションはクオーターバックだそうだ。身長が1メートル85センチもあり、髪を短くした風貌からはさわやかさを感じる。ただ、少し自意識過剰気味である。


 ガールフレンドは何人かいるが、本命は『お嬢』だ、と語る。日頃からスポーツマンらしくキビキビと動き、『お嬢』の気を惹こうと躍起になっている。


「今度の日曜日、試合があるんだ。チケット取るから、観に来てくれないか」


「矢倉さんは、ルールがよく分からないそうです」


 『侍女』が伝える。


「じゃあ、僕が教えてあげるよ。あのね、アメリカンフットボールは陣地取りゲームなんだよ。それで…」


「矢倉さんは、無理強いされるのが好きではないそうです。山中さんは格好いい方ですし、応援しているから試合頑張って下さいとのことです。ただ、試合は観に行けないそうです」


「そうですか…」


 だが、山中は諦めていないようだ。『お嬢』がなびかないのは、自分にはアメリカンフットボールの練習や試合があり、あまり一緒にいる時間が少ないためであると考えているようだ。


「お茶会の席で、『お嬢』を口説き落として見せる」


 陰でそう豪語しているそうだ。


 僕にとって、手強いライバルである。


三人目は、江西洋。C大学文学部史学科在籍の二年生。


 長髪で小太り。僕と同じで、あまり勉強熱心でない。


 江西はレゲエとお笑いをこよなく愛する愉快な男である。いつも訳の分からない歌を口ずさみ、自分の世界に陶酔している。


 そして頃合いを見計らって、『お嬢』にギャグを飛ばす。あるいはお笑いタレントの真似をして、笑いを誘おうとしている。


「ムンクの叫び!」


「ピカソのゲルニカ1」


 巧みに両手を使い、名画を模写した顔芸を見せる。それがたまらなくおかしい。


 『お嬢』もそんな江西を見て、手を口に当てて必死に笑いを堪えている。


「矢倉さんは江西さんのこと、面白い人だと思っているそうです。でも、ただそれだけの人だそうです」


 ある時、無残にも『侍女』が江西に『お嬢』の気持ちを宣告した。


 それを聞いた江西は、思い切り足を滑らせてズッコケた。その姿に僕は、お笑い好きの江西の真骨頂を見た。


 江西も今回のお茶会に参加し、『お嬢』との仲を何とかしたいと思っているようだ。


 以上が、僕と同様、『お嬢』を狙っている者たちである。三者三様だ。


 ちなみに、『お嬢』が思う僕の印象を、『侍女』を通じて訊いてみた。


「矢倉さんは内角さんのこと、自活していて偉い方だと思っているそうです」


 『侍女』が『お嬢』の言葉を伝えた。


「ありがとう」


 僕は満面の笑顔になった。


「でも…」


「でも…?」


「心の中では、何を考えているか分からない方だとのことです」


 僕は曇った。


 発掘現場の連中は、今回のお茶会で誰かが『お嬢』を射止めることができるか、その話題で持ち切りだった。


「やっぱり、山中が本命だろうな。あの容姿で、あの顔。笑顔を向けられたら、女性はクラクラきちゃうだろうな。スポーツマンで、いいトコのお坊ちゃんだし、真剣に口説かれたら、『お嬢』といえど陥落してしまうかもしれないな」


「対抗は、通称クラッシャーこと、内角さんを推したい。誠実そうだし、大学の学費や生活費を全部自分で賄った苦労人だから応援したくなる。自立した大人、という感じがする」


「大穴は、江西。奴の一発ギャグがツボにはまれば、もしかしたらもしかするかも。侮りがたいね」


「米沢は、圏外。あんな堅物じゃ、ねえ。今どき真面目一筋では、女性は振り向かないだろうな」


「皆、予想は一緒だね。で、最も多い意見は…」


「一番多いのは…?」


「全員、討ち死にだろうね」


「うん、うん」


「それに決まり!」


 まったく他人事だと思って、僕たちを肴にして、皆勝手なことを言い、笑い合っている。こっちはそれどころではないというのに…。


 そして、お茶会の日はやって来た。




 運命のお茶会当日。


 その日の作業が終了した夕方。


 現場は異様な緊張感に包まれていた。その中でも僕が一番緊張していたと思う。理由はいつもはさっさと先に帰ってしまう『お嬢』がお茶会に出席するため、皆と一緒に残っているからだ。いつもいない人間がいるというだけで、こうも緊張してしまうものだろうか。


この日、僕は玉砕覚悟で『お嬢』に告白しようと思っていた。プレゼントも用意していた。


 肝心なのは、ここからだ。


 着替えを終えた僕は、『お嬢』の傍らにさりげなく立っていた。


 スタートダッシュでしくじりたくない。少しでも『お嬢』の近くの席に座りたいため、今のうちから彼女の近くに居ることが重要だ。


「じゃあ、行きましょう」


 幹事の女子学生の号令に従い、現場のプレハブ小屋から紅茶専門店まで歩く。参加者は、ちょうど十名。目指す場所は徒歩で五分ぐらいのところにある。


 僕は『お嬢』から離れないように、すぐ隣りを歩いた。米沢、山中、江西の三人も思いは同じようで、三人とも『お嬢』に寄って来る。僕たちはまるでおしくらまんじゅうをするかのように、『お嬢』を囲んで進んだ。僕を含めた四人の目からは火花が飛び散っていた。


 店に到着した。


 中に入ると、奥の横長ソファの席に通された。


 何としても、『お嬢』の隣りに座ろう。


 僕は身構えた。が、思惑は外れた。


 幹事は座席争いでひと悶着あることを想定し、回避しようと座席を決めるクジを作ってきていた。


 結果、僕は『お嬢』と一番離れた席になってしまった。ああ、天は我を見離したのか。


 僕は紅茶を飲む『お嬢』の横顔を見つめる、ただそれだけしかできない男になってしまった。


 米沢がクジ運強く、『お嬢』と隣の席になっていた。千載一遇のチャンスであるが、米沢は緊張しているのか赤面したまま人の話にウンウン頷くばかりである。それでも楽しそうだ。


 斜め前の席になった山中は、『侍女』を介してさかんに『お嬢』にアプローチをかけている。


 その隣りの席になった江西は、山中に茶々を入れている。


 皆、それなりに奮闘していた。


 僕には、遠方から『お嬢』に話しかけるというそこまでの度胸がなかった。話しかけてくる隣りの席の真面目そうで平凡な顔立ちの女子学生を邪魔くさく思いながら、紅茶をがぶ飲みしていた。


何とかしたい。この局面を打破したい。


 僕は焦れていた。


 もう、漂う香りがどうの、茶葉の品質がどうの、などといった感想を述べている場合じゃない。居ても立ってもいられなかった。


すると僕の願いが通じたのか、会が始まってから二十分ぐらい経った頃、『お嬢』と『侍女』が席を立ったのだ。帰り支度をしていないから、トイレだろうか。だとしたら、この機会を逃す手はない。


 僕もさりげなく席を立った。二人の後を追った。


 案の定、トイレだった。この店のトイレは男女兼用の、一人用個室トイレだった。だから、どちらか一人しか入れない。僕がトイレの前に着いた時、『お嬢』が一人で待っていた。


 これは、チャンスだ。


 僕は勇気を持って『お嬢』に近づいた。


「矢倉さん、これ、受け取って下さい」


 僕は隠し持っていたプレゼントを差し出した。


 『お嬢』が恐る恐る受け取る。


 それは紙袋であり、中には『僕の作品』が入っていた。


 『僕の作品』というのは、小説家志望の僕が『お嬢』に対する思いのたけを記した短編小説であった。題名は、『お嬢』。


「き、君のこと思いながら、書いたんだ。よ、よかったら、読んで下さい」


 夜飲みに行かない時、せっせと書いた。自分で言うのもなんだが、なかなかの力作に仕上がったと思う。『お嬢』に是非読んで欲しかった。年中金欠病の僕には、気の利いた高価な宝飾品などは買えない。そんな僕にできる、精一杯の贈り物だった。『お嬢』に向けての、最高級の気持ちの表れだった。


「アリガトウ」


 中身を確認した『お嬢』が礼を述べた。この時、僕は初めて『お嬢』の声を聞いた。まさしく、鈴を転がしたような声だった。


「あ、あの、矢倉さん、今、付き合っている人とかいるんですか?」


 無事精魂込めた渾身の作品を手渡すことができた。気を良くした僕は、さらに畳みかけるかのように言った。


 『お嬢』は首を横に振る。


「あ、あの、でしたら、僕と付き合って下さい」


 突然の告白に、『お嬢』は戸惑ったみたいだった。照れ臭そうに、顔を赤らめている。


「僕は、本気です。本気で、君のことが好きなんです」


 熱のこもった口調で、告白した。


 その時、トイレのドアが開いて、『侍女』が出てきた。ドアの前にいた僕と『お嬢』を見て、目を丸くする。


「内角さん、何やっているんですか、こんな場所で」


 すかさず、『お嬢』が紙袋を指し示し、事の顛末を『侍女』にささやく。


「そういうことですか、矢倉さんと交際希望なんですね」


「そ、そうなんだ」


 僕は顔を真っ赤に染めながら頷いた。


「それだったら、矢倉教授の許可を取らないと駄目ですね。矢倉さんはお父さんの眼鏡がかなった人でないと、お付き合いできないそうです」


「わ、分かった。じゃ、お父さんに会わせてくれないかな。きちんと挨拶するよ」


 僕は頭を下げた。


 『お嬢』が『侍女』にささやく。


「本来ならばできないことなんですけど、矢倉さんは素敵なプレゼントをもらったから、特別にお父さんに訊いてみるそうです」


「本当に?」


「約束するそうです」


「よろしくと飲むよ」


「矢倉さんは、プレゼントをありがたく読ませてもらうそうです」


「あのう、もしお父さんが承知してくれたら、交際OKなんだね?」


 僕は念を押した。


 『お嬢』はニコリと笑い、頷いた。


 ひとまず、プロポーズは成功したようだ。




「矢倉さんからの伝言です。今日の夕方六時だったら、矢倉教授が会ってもよいとの返事をもらったそうです。大学の研究室に来るようにとのことです」


 翌日の作業前、朝礼が終わった後に『侍女』が近づいてきて、ボクに伝えた。


 よし、一歩前進。


 『お嬢』は約束を守ってくれたのだ。


 僕はその日の作業中、ウキウキとした気分で過ごした。昨日のお茶会で、米沢、山中、江西らは『お嬢』に交際を申し込んだが、三人とも断わられたそうだ。


 もしかしたら、恋の勝利者になれるかもしれない。


 そうなれば、四月になったら帰郷して自衛の時計店を手伝うという親との約束を破って、東京に留まろう。勘当されても構いはしない。僕は愛に生きるのだ。何の取り柄もない人間だが、人が羨むような男になれるのだ。早く夕方になって欲しい。切にそう願っていた。


「内角先輩、何かあったんですか?」


 いつも以上に楽しそうに作業している僕に、進藤が不思議そうに声を掛ける。


「僕? いや、別に」


「隠さないで下さいよ。昨日のお茶会で『お嬢』と上手くやったんですか?」


「いや、その、まあな、ははは」


 まだ人に話すのは早い。すべては矢倉教授との面談が終わってからだ。僕は笑って場を取り繕っていた。


 作業終了時間の五時になった。


 『お嬢』と『侍女』は、今日はいつものようにそそくさと帰って行った。『お嬢』も父親のいる研究室に行くのだろうか。だとしたら、一緒に行けばいいのに、なんて思ったりした。


 僕も素早く着替えを終えた。現場から矢倉教授が勤めるG大学まで、約二十分。余裕をもって出発した。ドキドキしていた。


 春休みの今、夕刻の大学キャンパスは人通りが少なかった。


 僕は六時五分前に研究室に着いた。少し早いが、遅れるよりはいいだろう。ドアをノックした。返事はない。ノブに手をかける。クルリと回転した。鍵は掛かっていない。


「失礼します」


 そーっとドアを開け、中に入った。電気は点いているが、人はいないようだ。


 研究室は奥へ細長く伸びており、向かって左側は書籍類で埋め尽くされ、右側には出土品らしき土器が棚に並んでいる。床には開封してある大小様々な段ボール箱が散乱していた。それらが部屋を実際の広さより狭苦しく感じさせているようだ。奥の正面に机があり、その後方に窓がある。


 誰もいないのか。


 僕は研究室の中へと進んだ。来るのが早かったのかな、とも思った時、呻き声を聞いた。


 机の後ろに誰かいる!


 僕は駆け寄った。


 そこには小柄で、前頭葉が薄くなった年配の男性が倒れていた。椅子から転げ落ちたのだろうか。これが初対面だが、鼻筋と口元が何となく似ていることから、この男性が『お嬢』の父親だろうと思われた。


 頭から血を流している!


「だ、大丈夫ですか?」


 思わず、僕は叫んだ。


「か…香織…」


 『お嬢』の父親らしき男性はブルブル震えながらそう呟くと、目を閉じ、それきり動かなくなった。


「ど、どうしたんですか!」


 僕は身体を揺さぶってみた。しかし、ピクリともしない。


 よく見ると、土器の破片のような物が机の上や辺り一面に飛び散っている。そして、整然と並んでいる土器の棚の一番手前、あって然るべき場所に何も置かれていない。


 僕はハッとした。この人はここにあった土器で誰かに殴られたのではないだろうか。これはもしかしたら、殺人事件ではないのだろうか。


 どうしよう…。


 状況からして、事に及んでからそんなに時間は経っていない。研究室には今、僕以外人影はない。ここに来る途中、誰もすれ違う者はいなかった。


 殺人者はどこに行ったのだろう。


 僕はこれからどうすればいいか、迷った。しばし考え、この遺体をこのままにしておけないと思い、誰か人を呼ぶために研究室を走り出た。




 まず第一発見者を疑え、という捜査の鉄則に従ったのか、すぐに僕は警察に任意同行を求められ、身柄を拘束された。


「おまえがやったのだろう」


 取り調べが始まった。


「僕はやってません」


 僕は断固として、否認した。実際やってないのだから、当然だ。しかし、僕に不利な条件が揃っていた。事件現場付近で、他に怪しい人物を目撃したと通報する者もいなかった。


「いいや、おまえだ。おまえ以外にいない」


 刑事たちは大きな声で何度も恫喝した。


「やっていないものはやっていません。僕が来た時には、もう矢倉教授は虫の息だったんです」


 刑事の厳しい追及に折れそうな僕の心を支えていたのは、『お嬢』の存在だった。


 最愛の父親を亡くした彼女の心痛は、いかほどのものであっただろう。伝え聞くところによると、『お嬢』は事件の翌日から高熱を出し、意識を失って寝込んでしまったそうだ。当たり前だが、彼女にとって父親の死は相当大きな衝撃だったようだ。可哀想な『お嬢』。


 頑張れ、『お嬢』。僕がついている。僕も頑張る。頑張れ、『お嬢』。


 事件から三日後の午後遅く、僕は突如釈放された。


「事件は解決した」


 刑事の一人が決まりの悪そうに言った。


「そうですか。それはよかった。一体、誰が真犯人だったんですか?」


「それが…、被害者の娘さん…」


「!」


 僕は絶句した。


 『お嬢』が犯人…。どういうこと…。


「…ではない。ははは。驚かせてすまんな」


 『お嬢』が自分の父親を殺すわけがない。僕は安堵した。


「だが、彼女は父親の死に深く関与しているようだ。昨夜、矢倉香織さんは昏睡状態から目を覚ました。その時君が父親殺しの容疑者として取り調べを受けていると聞き、泣きながら証言したらしい」


「証言…? 何を証言したんです? 彼女はあの場所にいなかったのに…」


「君が研究室に入ってきた時、彼女はいたんだ」


 嘘だ。誰もいなかったはずだ。


「段ボール箱の中にね」


 段ボール箱の中。そういえば研究室の片隅にかなり大きめの段ボール箱もあったっけ。


「あの日彼女は君より先に研究室に行き、君が来る直前まで父親と激しく口論していたらしい。彼女は君との交際を認めて欲しかったのだが、矢倉教授は面会することこそ渋々了承したものの、どこの馬の骨とも分からぬ男との交際は断固として反対したそうだ。そして押し問答を繰り返した末、感情を爆発させた彼女は、はずみで近くにあった出土品の土器を床に叩き落したらしい。自分の父親とはいえ、一度も会ったこのもない君を、二流大の貧乏学生と決めつけ罵倒したことが許せなかったと言っている」


 『お嬢』…、そうなのか。


「大事な出土品を壊されて、矢倉教授は烈火の如く怒った。そして腰掛けていた椅子から立ち上がろうとした時、転がってきた土器の破片に足元をすくわれ身体のバランスを崩し、窓枠の角でしたたかに後頭部を強打したらしい。直後にドアがノックされろ音が響き、気が動転して慌てた彼女は、中が空だった段ボール箱の中に身を潜めたそうだ。研究室に入ってきたのが君だと分かったが、状況からして、ここで姿を見せれば自分が父親を殴ったと思われるのが怖くて隠れたままでいたそうだ。それから君が出て行った後、自分も外に出たと言っている。以上、矢倉香織さんが証言した事件の全容だ」


 『お嬢』…、本当にそうなのか。


「彼女の証言を照らし合わせてもう一度事件現場を検証してみると、確かに床に土器の破片を引きずったような跡があるし、窓枠の角に若干へこみもあった。苦慮した末、我々はまだ子供であるとはいえ、彼女の証言に信憑性があると判断した。よって、今回の事件は殺人事件ではなく、事故死として扱うことにした。きみは無罪放免だ」


 刑事は語り終え、ふーっと息を吐いた。


「分かりました」


 取りあえず、事件は解決した、のか。それにしても、刑事の表情が暗い。


 刑事は最後にポツリと言った。


「彼女は最後に一言、言った。君には幸せになって欲しい、とのことだ」


「最後に一言…? とは、どういうことです?」


 刑事はより一層顔を曇らせた。やり場のない視線を下に向けた。


「『お嬢』は、矢倉香織さんは、今、どこに?」


 僕は尋ねた。


「彼女は…、彼女も死んだよ」


 ええッ!


 「死んだ…!」


「ああ。すべてを告白した後、自分の責務を果たしたと思ったのか、静かに息を引き取ったそうだ。死因は父親の死によるショック死と診断された」


 『お嬢』が死んだ。信じられない。


 僕の両眼から涙が溢れてきた。拭っても拭っても、止めどもなく流れ出てきた。


 もうこの世に、最愛の『お嬢』がいない。


 僕は人目を憚らず、号泣した。




 『お嬢』の叔母の話。


「この度は世間様をお騒がせし、また内閣様にはご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした。あの子はもともと脆弱な体質で生まれてきたんです。母方が早死にする者が多い家系であることも関係しているのかもしれませんね。長く生きられない運命だったのだと思います。

 異常知能発達児って言うんですかね。私にはよくわかりませんけど、あの子は生まれつきIQが高すぎて、普通の学校には通学できなかったのです。身体も同じ年の子供よりかなり小さかったですしねえ。ただ兄はそんなことお構いなしで、この子は天才だ、将来大物になる、と溺愛していました。側で見てても、それはもう大変な可愛がりようで、少しでも近くに置いておきたいと学内の友人にかけ合って、聴講生として自分の勤めている大学に通わせていました。あの子も父親の期待に応えて、非常に熱心に勉強していました。二人は本当に仲睦まじい親子でした。それがこんなことになるなんて…」




 その後、桜の蕾が綻びる頃、二十二歳の僕は大学を卒業した。


 あれから三十年以上経つが、毎年三月になると、決まって『お嬢』のことを思い出してしまう。あの愛くるしい笑顔を、一つ一つの仕草を、何気ない振る舞いを。


 念願叶って小説家になった僕は、今でも同じ時を過ごしたあの発掘現場での日々を忘れることができない。


 矢倉香織、あまりにも早すぎる絶命、短すぎる生涯だった。


 『お嬢』、安らかに眠れ。


 享年七歳。



 





 

ラスト、どうだったでしょうか?


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