調査(その1)
天喰くんが走り去ってしまってからおよそ一時間半後。
午後の七時半を過ぎているということもあり、空もさすがにもう闇色に染まっている。
今僕は――――我が家の扉とにらめっこしているところだ。
そうさせているのは言わずもがな、この卵である。
有り触れた外装の七階建てのマンションの三階、通路の左から四番目にある我が家はマンションの規則に従ってペットは禁止。ただでさえそうだってのに、この卵からは何が生まれてくるのかさえわからないでいる、ときたもんだ。
『ねえ、これ、何が生まれてくるのかさっぱりわかんないんだけどさ、飼ってもいい?』
なんてふざけたこと言ってみろ。それこそ命の種が家族内の争いの種になりかねない。
・・・でも、成り行きでだけど、こうなった以上はもうこの卵をちゃんと孵化させてやりたいっていうのが正直な気持ちだ。
ちょっとばかし不気味だし、もしもどっかの国の絶滅危惧種とか危険生物に指定されてるようなヤバい生物の卵だったらもうそれこそ一大事だけど、
それでもこれは、何度も言うように、命の種だから。
そもそも嫌だったら帰ってくる途中に捨てることだって手段としてはアリだったんだ。
でも僕にはそんな非倫理的なことはできない。だってあのおじいさんにもこの卵にも申し訳ないじゃないか。
――――と、手に持った卵を見つめながら悩んでるところだ。もうかれこれ二十分はこんなふうに立ち往生してる。そんなんだから隣に住んでる、小さい頃からずっとお世話になってるおばあさんとばったり会っちゃったんだけど・・・不審がられて「まこちゃん(僕のこと)、また子犬でも拾ってきたの?」とか言われちゃうし。
隣のおばあさんがそんな事言うくらいだ、ここで家族の誰かと鉢合わせになろうものなら・・・。可能性としては父さんだよね。もうすぐが帰ってくる頃かも。
ケータイで時刻を確認すると・・・う。やばいなぁ、もう――――、
「・・・ん? 誠じゃないか。 何をやってるんだ、家の前なんかで」
「おわぁっ!」
案の定な声に体が過敏に反応して、思わず大きな声がでてしまった。
驚きのあまり手に持った卵を落としそうになるのをどうにか防ぐと、そのまま父さんから身をていして守るように卵を逆手に持って背後にやる。見つかってはいけないという深層心理が働いてなのかつい反射的にそう動いてしまったけど、どうにも怪しいこの素振りが逆に意味深だったみたいだ。事実、父さんは訝しげな視線を送ってるし。
しまった、と遅れて自分の非に感づく。
「と、父さんっ! どどど、どう、したの?」
「どうしたって、仕事が終わったから帰ってきたに決まってるだろ? それよりも――――お前、今何か隠さなかったか?」
「かかかか、隠すぅ? いやまさか。なんにも隠しちゃいないけど?」
「本当か? じゃあその後ろに回した手を前にだしてみろ」
怪訝そうに僕を見つめる父さん。目ざとい。
「・・・まさかお前、また捨て猫とか拾ってきたんじゃないだろうな?」
「そそそ、そんなわけないじゃん!」
尋問官のように僕を追及する父さん。鋭い。
「じゃあその手を見せてみろ。ほら、早く」
やばい、どうしよう。もう見せるしかないけど、でもそんなことしたら捨ててこいって言われるのは目に見えてる。
・・・いや、待てよ? さっき天喰くんに見せたとき、天喰くんはこれを卵と認識してなかった。ってことはもしかしたら父さんも――――うん、一か八かだ。
やぶれかぶれというか背水の陣の心境で僕はお辞儀するように上体を前に傾けながら「んっ!」と卵を持った手を伸ばした。
「・・・・・・」
暫しの静寂。
僕はおろか、父さんも何も言葉を発しないでいる――――と、
「なんだ、何もないじゃないか」
「・・・え?」
聞き間違いかと思い、僕は体制を維持したまま顔だけ上げる。
「父さんの顔見て妙に慌ててたからてっきりまた捨て猫でも拾ってきたのかとか思ったけど・・・何も持ってないなら何をそんなに慌ててたんだ?」
な・・・何も、持・っ・て・な・い?
現にこうしている今も手の上には確かに卵が乗っかっているのに、父さんは言った。
何も持ってない、と。
「捨て猫じゃなかったんだな」じゃなくて「何も持ってない」って。
その言葉の意味を純粋に汲み取ると、父さんは――――、
「何をしてたのか知らんけどまあいい。とにかく早く家に入りなさい」
自分の家の玄関前で悶々としていたあの時間は一体何だったのか、父さんの催促で僕は否応なくあっさりと卵を持ったまま家の門をくぐることとなった。