諦めない
青年はずっと期待していた。
念願の彼女が突然現れて、触れ合ったのは僅かの間だけ。思い出すと涙が溢れだす。
……数滴の雫が、幾つもの透明な円を床に描く。手から流れ落ちた血液と混じり合って滲んだ。
いつ、その時が訪れても平気なように、青年は準備を……し続けた……だけど、現実を前にして、何一つ叶えてなかった。
「……そうだ、時間が足りない……少なすぎたんだ……」
そこで、青年は気がつく。この現象は、いつ始まったのか?
……そう、マッチを点けてからだった。あの黒い炎に何か理由がある。そのように見当をつけた。
きっとあの街角に立つ少女なら理由を知っている。
あそこに行けばウサギに再び逢える。そう必ずだ。もう泣いている場合じゃなかった。
その考えに至ると、沸き上がる感情が抑えきれなくなり、開いた口からは、叫び声が涎を伴って溢れだした。
「……うぐぅぅ。おぉおぉぉぉ……」
ついに限界を突破する。
コートも羽織らずに、サンダルを引っ掻けただけで玄関を飛び出した。目指すのは、あの街角に立つ少女だ。身を切る寒さなど、この感情の前では感じない。全力で駆け続ける。
すでに雪は止んでいた。
走る車など一台もない車道を駆ける。黄色の点滅を繰り返す信号機が道しるべとなり、進行方向を遥か先まで導いているように青年は感じる。
その先を目指す理由があり、切望する目的があった。
「あと少しだ、待ってろよ。必ずだ……」
高揚感が青年の全身を包む。
今なら大型ダンプカーでも、トレーラーでも片手で止められそうな、そんな気持ちが沸き起こって、笑いが込み上げてくる。
「あはッ、あははぁはぁ……ぁぁ……」
なんでも出来る。そんな気持ちが全身の血液を沸騰し続けた。
それはただひとつ、あの温もりを取り戻す為に、
「……着いたぞ。はぁ……はぁ、あれっ……」
やがて謎の少女と出会った街角へ、文字通り舞い戻った。だが、そこに探す対象の姿はなく、雪のない一人分の丸い地面が確かに彼女がいた証拠として残る。だけど、
「頼む、出てきてくれぇ……もう一度……だけで……いぃ……」
周囲を見回し、声を上げ続けた。
当然、誰からも返事はなく、そして少女も現れない。
深夜の街は、街灯以外の光源はない。
周りには降りたシャッターの商店が数件あるのみ。歩く人など誰もいなかった。途方に暮れた青年は、その場に立ち尽くす。
その時だった……
「ずいぶん早いの、です。お前は早漏野郎なの、ですかぁ?」
「なあっ!」
予想すらしていなかった方向から声が掛かる。近づく足音など青年は聴き取れなかった。だけど、
「なあ、もう一度ウサギさんに逢わせてくれ。頼む……」
青年にとって少女がいきなり現れた事など、気にする必要がなかった。それより、もっと大事な要求がある。
……その為なら何だってやってやると、血走った眼には力が込められていた。
「はぁっ? ウサギ、ですかぁ……」
青年の要求に理解の及ばない少女は、首を傾げて困惑する態度を取る。
「そうだ! 僕の大事なウサギさんだ。隠すな返せよ!」
そんな態度の少女に不信感を抱いた青年は、更に距離を詰め寄り、睨みながら怒鳴りつけ始めた。
だが、そんな大声にも少女は動じた様子を全く見せない。
「ウサギなど知らんの、です。アホなの、ですかぁ?」
切り捨てるように、少女は暴言を返す。
「とぼけるなぁ。マッチを擦って、やっと巡り会えたんだ。ウサギさんと僕は結ばれたんだ」
青年の言葉を聴くと、少女の眉が僅かに動く。
「ほぅぅなの、です。どうやら効果があったよう、ですねぇ……」
少女は腕を組んでひとつ頷く。納得した仕草を取る。そして、もう結果が出たと。
……そう呟く声が青年の耳に届いた。
その様子を見ると、この少女がウサギとの間を引き裂く障害のように感じ……いや、妨害をしているのだと思い込んで、青年は衝動的な行動に移った。
手を伸ばし、少女の肩を掴んで、激しく揺すり始める。
「なぁ、頼むから返してくれよ。僕のウサギさんはどこに行ったんだ?」
……それは、絶対にやってはいけない行動だった。
これより先、青年は深層心理に刻み込まれる恐怖体験をすることになる。少女の逆鱗に、無遠慮に無自覚で触れた報いを受けるのだった。