面接会場は露天風呂です
廊下の角を曲がって姿を現した彼は、リクルートスーツに身を固めていた。
足元に黒靴下。彼が歩みを進めるたび、光沢ある木の廊下がキシキシと小さく鳴った。突き当たりには『男』と書かれた紺色の暖簾。
暖簾をくぐるとそこは、脱衣所だった。彼は籠の一つに鞄を入れ、ネクタイを緩めた。ジャケットとパンツを脱ぎ、シワのできないよう簡単に畳んだ。シャツと下着、靴下も脱いで裸になる。そして、ボディタオルで前を隠すと、磨りガラスの嵌め込まれた扉に向かい、三回ノックした。
「どうぞ、お入りください」
ガラガラガラ、と扉を開く。天然温泉独特の臭いがする。石畳に足を踏み入れ、後ろを向いて扉を閉める。そして前に向き直ると「失礼します」と一礼し、顔を上げた。湯気の向こうに露天風呂があり、男が一人、入っていた。向こうには雪をかぶった山々が見える。天気は快晴。カレンダーにでも使われていそうな景観が広がっていた。
彼はまず、かけ湯で身体を洗った。かけ湯には身体の汚れを落とすのと、湯に入った時の寒暖差を和らげる効果がある。基本的な入浴マナーだ。
首から下を濡らした彼は風呂に向かい、いざ入ろうとして逡巡した。……はて、どちらの足から湯に入るのが正しいマナーだろうか。彼は頭を巡らせた。そして、神社を参拝する前に身を清めるため行う、手水の作法を思い出した。柄杓で水を掬ったら、まず左手を洗う。……じゃあ左足から入っておくか。彼は湯の中に左足を入れた。ぬるい。なるほど、のぼせる危険はなさそうだ。
彼は膝ほどの深さのある湯の中を歩き、先に入っていた男の前まで来た。「美場暖大学の加藤健です。よろしくお願いします」彼がそう言って一礼すると、「どうぞ、座ってください」と男は言い、手で前方を示した。「失礼します」タオルを頭に乗せ、加藤は湯の中で正座をした。「崩して座ってもらって構いませんよ」……それじゃあ、と加藤は男に倣って胡座をかいた。彼はようやく、肩まで浸かることができた。
「それでは、面接を始めます。よろしくお願いします。まずは、自己紹介をしてください」
「はい。改めて……美場暖大学経済学部経済学科の、加藤健と申します。私はスルメのような人間で……」
「あぁ、そうゆうのいい」面接官は手で遮った。「スルメとか潤滑油とか、そうゆうのいい。聞き飽きたから」
おっ、圧迫面接か? 加藤は思った。
「圧迫面接か?」……えっ? 加藤は自分の言葉を疑った。思ったことが、なぜかスルリと口から滑り出てしまったのだ。
「そういうわけじゃないんだけど」面接官は苦笑いをした。「思ったことをそのまま正直に、言ったまでです。みんな面接練習して、答え用意してくるからね。みぃんな同じ事言うわけ。聞くこっちの身にもなって? こっちはさ、そういうの聞き飽きてる。その人の、本音が聞きたいから」
「わかりました」加藤はウンウン頷いた。
「じゃあね……なぜ当社を志望したんですか?」
「給料がいいからです」
加藤はスッパリ言い切った。用意してあった答えではなかった。
「……それだけ?」
「今住んでるところからも通いやすい。仕事も楽そう」
「……なるほど」
「ホワイトっぽい」
「ホワイト?」
「そう、ブラックっぽくない」
加藤は頰がポーっと熱くなるのを感じた。湯の温度はそれほど高くないようだったが、徐々に身体は暖められていった。
「わかりました。それでは、学生時代に力を入れていた事はなんですか?」
「……力を入れていたことなんてないです。脱力してました」
「脱力」
「強いて言えば、アルバイトですかね。遊ぶお金が欲しかったので」
「ほうほう……正直でよろしいね。それでは、あなたの長所と短所を教えてください」
「長所は、気付かれないように手を抜く」
「ほぉ」
「一生懸命やってる風に見せて、手を抜くのはめちゃくちゃうまいと自負しています」
「……短所は?」
「サボりぐせがある」
あっはっはっはっは、と面接官は笑った。
「なるほどなるほど。わかりました。それじゃあ……もう私もあなたにあまり興味がないので、この面接を早く終わらせたいんですけど、最後に何か質問はありますか?」
加藤は真面目な顔をしてーー用意していた質問ではなくーー正直に、今一番聞きたいことを聞いた。
「なんで面接会場が露天風呂なんですか」
脱力していた面接官も、真面目に居直って答えた。
「採用面接なんて、嘘つき放題だ。そうは思いませんか? みんな自分を大きく、綺麗に見せようとする。マナーで身を固めて、練習で慣らして、答えも質問もきっちり用意してやって来る。台本に書かれた台詞丸覚えの役者と話したいわけじゃないんだ、私は。その人の正直な言葉が聞きたい、その人の本当の姿が見たい。そうでなければ、意味がない! そんな思いで、ここの露天風呂を面接会場にしているわけです。裸同士向き合って、正直な言葉をぶつけ合う。これこそが本当の面接だと確信しているからです」
「へぇ」
加藤は関心したように頷いた。
「もうありませんか?」
「はい。ありません」
それではお帰りください。失礼します。一礼した加藤はザバァ、と湯から上がった。
タオルで身体の水気を拭き取りながら、彼はハッと我に返った。……なんて事を言ってしまったんだ! 用意してきた答えがあった。何度も面接練習を重ねたし、ぶつぶつと繰り返し呟いて記憶した台詞があった。多少のアドリブもこなせる自信があったのだ。……それなのに! 加藤はその時その時思った事を、正直過ぎるほどに馬鹿正直に、質問に答えてしまった。
どうして……愕然とする加藤は、視界の端に立て看板を捉えた。
『正直者の湯』
太く、大きな文字でそう書かれていた。
「なるほどね」
加藤は頷くしかなかった。