赤提灯
陽炎ノ国を一言で言い表すならば堅城鉄壁の国だ。
君主が住まう城は城下町と共に大掛かりな土塁で囲われ、一つの大きな要塞となっていた。その堅牢さたるや類も知れぬ程であった。
そしてその城下の一角にはある大きな屋敷があった。鬼灯城との別名を持つ、陽炎ノ国の黒衣が住まう屋敷である。物見櫓をも兼ね備えた砦のような屋敷へ、朧と晶ももれなく入る事となったのであった。
もっと大人数の黒衣が生活をしているのだと思った。それ程に鬼灯城は立派で大きなものなのだ。だが中に足を踏み入れてみると、生活空間となっている場所はごく僅かで、暮らしていたのは朧と晶を除けばたった八人だけであった。年の頃は皆同じ、晶より少し上くらいであろう。
案内された十畳ほどの広間で新入りである二人が簡単な自己紹介をする。
晶は朧を自分の付き人だと紹介した。壱の家の生まれは朧と兄の灯しかいないから彼女の生家を明かせないのだと、晶は事前に説明してくれていたのだ。
ここでは下級の生まれの晶の付き人、それで我慢をしていなさい。都合が良いから、と。
二人が共に頭を下げると、先住者たち八人は皆揃って跪いて首を垂れた。朧はぎょっとして思わず一歩後退ったが、晶は膝付く八人をじっと見つめている。
「二の家本家晶様、此れより私共は貴方の手となり足となります。何なりとお申し付け下さい」
八人のうちの一人がそう言った事で、朧は僅かに状況を把握した。晶も以前朧の事を『壱の家本家』と言っていたから、それはきっと生まれの家の上下を指すのだろう。数の順番から言えば、晶の二の家は恐らく高い家柄にあたるのだと思われた。
恐る恐る晶を見遣ると晶は無表情で、いや無表情という表情で彼らを見下ろしていた。初めて会った時に見たあの冷たいものが目の奥に見えた気がして、思わず晶の袂に手をやった。
「なんですか」
晶が振り向く。表情は変わらないながらも、何処か気安さを感じたのは朧の都合の良い妄想だろうか。何と言えば良いか分からなくて思わず口を噤むと、頭上で晶の小さなため息が聞こえる。
ああ、こんな弱腰ではきっと晶を苛つかせてしまう。そう思えば尚のこと口は重く開かなくなった。
すると晶は膝を折って身体を屈ませ、小さくなる朧の耳元に口を寄せる。そして吐息に紛れる程で僅かな声で
「貴女が壱の家の生まれである事も、女である事も、私たちだけの秘密です。私も出来るだけ尽力しますから」
と言ったのだ。
きっと里の長である父親に言い付けられている為だと思うのに、初めて他人から与えられた優しい言葉に、朧の口は独りでにゆるゆると上がる。晶の呆れた様な視線も関係なかった。
やはり外の世界にこそ、自分の幸せはあるのだ。
幼い朧は未だそう信じて疑わなかった。
◆
童は昨日より一層不機嫌な顔をして、ずらりと並んで跪く黒衣十人を見下ろしていた。正確に言えばその中の一人、一際身体の小さい黒衣を睨みつけていたのだ。
黒衣を管理しているという日向の隣で不遜な態度で仁王立ちしている童は、きっと懸念した通り立場のある者なのだろう。それも黒衣を管轄する立場として。
新入りに噛みつかれて上司であろう彼が不機嫌にならぬ訳はない。気付いた朧は彼の視線を素知らぬ振りで首を垂れ続けるしかなかった。
「新入りらは初めて会うだろう。これが戦で黒衣の指揮を執る我が倅、和泉だ。まだ齢十一の小童だが親の贔屓目を差し引いてもかなりの英才だ」
日向が童を紹介した事で様々な疑問が解消された。
あのような童が総指揮であるのも全ては君主の側近である日向の息子である為だし、黒衣の総指揮であれば朧と晶に声をかける事は自然だろう。ならば昨日の朧の態度はひどく不敬であった事になる。
それでも。
「朧にございます」
彼に敬意など抱かない、と心に決めて彼を見据え返すと、和泉の目が僅かに瞠若するのが分かった。命を預ける相手であるならば尚の事、彼の言葉が許せなかったのだ。
皆が袖頭巾を取る中、朧だけは黒い頭巾を被ったまま大きく声を上げた。
「命尽きるまで、この『赤提灯』貴方の駒となりましょう」
全員が息を呑む。
朧はその目にはっきりと反抗の意思を湛え、言葉とは真逆に彼に不満を示したのだ。
親子が揃ってぎゅっと眉根を寄せて朧を見た。だが父親の方は冷静であったらしい。ごつんと固い音がして、彼の拳が息子の頭に振り下ろされる。
「お前は、またやったのか」
そうして父親に叱られている和泉の姿は年通りの子どもにしか見えぬが、さすがに彼も幼くして人の上に立つ者であった。
「安心なさいませ、父上。ひと度戦さ場に立てば人も黒衣も違いなく、力を最大限使ってみせます。これ迄と変わりなく」
言ってまだ子どもの和泉は父親に頭を下げた。彼の言葉もまた反抗であった。これ迄通り、彼は黒衣の扱いを変えるつもりはないのだ。日向が諦めた様な短い息を吐いて彼を見ていた。
それ程までに嫌っているのならば黒衣の指揮などやめれば良いのにと口まで出かかったが、言って仕舞えば収拾がつかぬ事が分かっていたので、すんでのところで朧は口を噤む。これ以上睨まれるのは得策ではない事を彼女も分かっていた。
そのまま顔合わせが終わるかに思われたが、散会が告げられ皆が場を辞する中、朧だけが呼び止められた。
広間に向かい合って立つのは朧と、彼女を呼び止めた和泉だけだ。
「何か」
「お前、よくもそこまで図太い態度を取れるものだな」
言葉こそ乱暴だが、それ程気に障った様子でもないのは気のせいだろうか。ただ酷く小馬鹿にした物言いだった。
「何かお話しがおありでしょう」
「お前と雑談に勤しむ程暇ではないな」
「ならばさっさと用件を仰ればよかろう!」
苛立ちを隠そうともしない朧に和泉は視線を寄越す。いつの間にか彼との距離は近付き、密談をするように彼は朧に顔を寄せる。
はたから見れば童同士が内緒話をするような微笑ましい光景、だが彼の目が今までで一番鋭く光っていた。
「何故お前は遣わされた」
訝るような怪しむような彼の言葉に、朧は答える術を持たない。その疑問は己でも持っていながら目を逸らしていたのだから。
「わたしは申し付けられた通りに来ただけだ」
「それがおかしいのだ。黒衣は十二かそこらで術を発現しその後派兵されるのが通例だ。
逆に言えば、術の発現がなくては派兵されぬ筈。いくら人に勝る身体能力があったとしても他の黒衣の足手まといとなるようでは話にならんからな」
「何が言いたい」
挑むように至近距離の和泉の顔を睨みつけてやると、彼はひどく真剣な顔をしていた。
「お前、本当に黒衣か」
成る程、親の贔屓目を差し引いてもかなりの英才だとの言葉は嘘ではないらしい。彼の言葉は的確に朧の弱みを突いた。
「なら棄てられたとでも言えば満足か」
吐き捨てるように言って朧は彼から目を逸らす。まるで事実だと言わんばかりの態度だが、朧にはもう彼の顔を見続ける余裕はなかった。敬語だっていつの間にか使えていない。
「人も黒衣も違いなく最大限使ってくれるのだろう。術の使えぬ子どもだとしても」
涙を堪えた言葉は震えてその切実さを語る。黒衣を蔑む彼には絶対に知られたくはないのに。ましてや同情などされたらもう朧は堪えられる自信がなかった。
だのに和泉は言うのだ。しれっと特別な事ではないというように。
「当たり前だろう、誰だと思っている」
「誰だか知らねーよ、お前なんざ」
不敬な軽口を叩いて深く袖頭巾を被るが、和泉の叱責の言葉は聞こえてこない。歯を食いしばって耐え頭巾の隙間から和泉を見据えると、彼の鋭い瞳と目が合った。
「俺に使われる事を望むなら精々励め。他の黒衣に劣らぬ様にな」
「無論」
小さく返せば和泉は、もう話がなくなったといった様子で朧に背を向けた。そうして襖に手を掛け広間を出てゆく時に後ろも振り返らずに言ったのだ。
「近いうちに戦になる。それがお前の初陣だ」
木を削る様な乾いた音を立てて襖が閉められる。
術を持たない自分が如何様にして戦さ場に立つ事になるのか。まるで想像出来なくて、朧は無意識のうちに小さく肩を落としてしまった自分に気付く。
だが戦さ場こそ黒衣の生きる場所。これを越えずして黒衣は名乗れまい。
朧はぱちん、と両手で頬を叩いて大きく息をすると、襖を開けて広間を出て行った。