陽炎ノ国
この地の過去は乱世。現在も乱世、そしてきっと未来も乱世だろう。
数多の者が力を欲さんと国を興し、そして消えてゆく。本に才のあるもの、只のうつけ、皆等しく永遠の力を手にする事なく潰えてゆく。それでも一瞬の夢を求めて数多の者がまた国を興す。きっとそれはこれから先も変わりない。
乱世は終わらない。
今では戦というものがひどく人々の暮らしに密接になってしまっていた。もう誰も戦のない生活など考えていないだろう。
全ての人が等しく必死に乱世を生きていた。
そして黒衣一族も類にもれず戦の恩恵を受けて生きている。いや、恐らく恩恵では言葉足らずだ。
──戦の世にこそ黒衣は生きられる。
術を使い、乱世を掻き乱し、この世にまた火種を生み出す存在──それが黒衣だ。
だのに存在を危ぶまれる訳でもなく、各国が競って黒衣の力を欲する。昏迷を生み出す戦の力を。
今目の前で快活そうに笑うこの御仁も同じく、一瞬の夢を求めて国を興した一人であろう。
白髪混じりの灰の髪、口を覆う胡麻塩の髭は野生的で、いかにも戦人であると分かる。厳つい身体をゆさゆさと揺らして笑う姿はあまり一国を担う人物には見えない。だが彼こそ、幾多ある国の中でも指折りの強国『陽炎ノ国』の君主である。
晶と朧の二人は里からの書状を手に君主に謁見を申し込んだのだが、先程から気圧されて一言も口を利けていなかった。
「黒衣とはどんな異形の者かと思っていたが、何とも可愛らしい見た目をしているもんだなぁ」
顎髭を手で弄びながら君主が笑う。愛想笑いでもすべきなのだろうが、まだ経験浅い二人には何とも返事が出来ないでいた。それでも君主は気を悪くした風はない。
「へえ。黒い小袖に黒い袖頭巾、黒ずくめで黒衣か。違いねえ」
と言って晶の纏う小袖を指で触れる。興味津々といった様子に、思わず朧が口を開いた。
「君主さまは黒衣を見たのは初めてですか」
「蒼樹だ、坊主」
朧の声に被さる様に告げられた言葉に、目を瞬く。もしや今のは自己紹介だったのだろうか、そんな疑問が顔に出ていたのだろう、君主は照れ臭そうに頬をかいた。
「君主さまなんて柄じゃないんでな、皆には名前で呼ばせている。蒼樹だ、宜しくな」
もう一度名乗って、君主──蒼樹は朧の頭をがしりと撫でた。
まるで友に名乗る様な気軽さに、またまた二人は身体を小さくした。それを見て蒼樹は大口を開けて、
「はは、逆に怖がらせたか。意外に可愛らしいもんなんだなぁ」
と笑う。だが次の瞬間には顔を引き締め、その野生的な目で二人を見据えた。
「だがそれじゃあ困る。俺はお前らを愛でるために呼んだ訳ではねえのよ」
そうだ、二人は戦う為に来たのだ。黒衣の誇りを背負って。
先に気付いたのは晶だった。彼は丸めていた背をぴんと伸ばして、蒼樹を見据えたのだ。蒼樹が満足そうに口を歪める。
「黒衣の森より遣わされました、晶と申します」
線の細い身体を精一杯に引き締めて、彼は声を出す。脱ぎ去った袖頭巾から、纏めていた肩までの滑らかな髪が流れ落ちた。
黒衣は滅多と頭巾を取ってはならない。それをして良いのは心を許した相手にのみである。つまり晶の行動は、黒衣にとって最大限の敬意であった。
晶の目がついと朧に向けられる。彼女も晶に倣って袖頭巾を取った。
「同じく、朧と申します」
顔付きの変わった二人を満足げに見て、蒼樹はにんまりと笑う。一国を担うには見えぬと思った風貌が何故か今では威厳に満ちたものに見えたのだった。
「正直なところ、黒衣を雇うのは初めてではねえのよ。普段は別の者に一任してあるんでな」
そう言って蒼樹はまた顎髭をじょりじょりとさすった。考える時の癖だろうか、視線を上に投げながら口を動かしている。
「まあ普通派兵されて来るのは十二か三くらいの奴ばっかりなんだが、今回えれえ大人びた奴とちっこいのが来るって言うからな。会ってみてえと思ったまでよ」
蒼樹は視線を二人へ移す。口の中で小さく、価値はあったな、と呟きながら。
二人が同時に頭を下げると、蒼樹はぱんぱん、と手を叩いて合図をする。間髪入れずに襖が開けられ、これまた如何にも戦人といった格好の壮年の男が入って来た。
「話は終わりですか」
背格好から彼もまた野生的な男だろうかと思った朧だったが、彼の声色を聞き、いや違うと思い直した。粗野な印象の蒼樹と違い、彼の口調や仕草はどこか上品で穏やかであった。
「晶に朧、こ奴が先程言った黒衣の事を一任している男だ。日向という」
蒼樹の紹介に日向は小さく頭を下げて二人を見据えた。怜悧な印象の目がじっと二人を見定めている。
「晶に朧といったか。励め、戦の天才黒衣の名に恥じぬよう」
そして然して興味をひかれた風もなく、日向は二人に背を向けた。
此処ではもう、朧もただ一人の童。術を会得し戦果を上げるまでは、黒衣とも呼べぬ半人前である。その事実に居心地の悪さだけを感じ、朧はただずっと頭を下げ続けていた。
◆
「おい、『赤提灯』」
背後から投げ掛けられた声に、廊下を歩いていた朧と晶はそろって眉をひそめた。
『赤提灯』とは黒衣の蔑称である。彼らが一族の紋として掲げる鬼灯をとって『赤提灯』と罵る者がいる事を二人も知識として知っていた。だが面と向かって言われるのは初めてで、まだ幼い朧は特に不快感を顔いっぱいに広げて振り返る。
其処に立っていたのはまだ子供だった。子供といっても朧よりかは年上だろう。吊り上がった細い眉に切れ長の目が鋭く、とても利発そうだ。狐の様な童だと朧は思った。
彼は明らかな嫌悪の表情で二人を──いや、特に朧を睨みつけていた。
「何だその顔は」
「何だと申されましても。初対面で差別用語を呼ばれて喜ぶ者もいないのでは」
負けじと嘲るような口調で返したのは晶だ。彼の口から出る言葉は丁寧だがずっと険のあるものばかりだ。
だが目の前の童は気に障った様子もなく、眉ひとつ動かさずに吐き棄てる。
「赤提灯は赤提灯だろう。呼ばれるのが嫌ならばその紋を外せば良い」
小さな身体で腕を組んで、童は大人びた表情をした。口の端に侮蔑を湛えた、嫌な表情だった。
嫌いならば話しかけねばよいのにと、思わず朧も口に出せばより一層睨みつけられる。
「俺とて話したくて声を掛けたのではない。新たな赤提灯が入ると聞いたから顔を見ただけだ。どんな駒か知らねば使う事も出来んだろう」
呆れ返った様子で童が言う。朧と晶は同時に首を傾げた。
ただの子供が何を言っているのだろう。
「貴方が知る必要があるのですか」
との晶の言葉を食うようにして、彼は鼻で笑った。ただ馬鹿にしたいだけにしか思えなくて、朧は彼を見据え返して声を上げた。蔑まれ慣れている筈の朧には珍しい、反抗だった。
「我らは先程国に着いたばかりなのだ。正式な紹介もない故貴方が何者か知らぬし、蔑称で呼ばれる謂れも未だない筈。今これ以上何か申し付けたい事が有るようならば、我らを管理しているという日向殿を通じて申されよ」
隣の晶が垂れ目を丸くして朧を見ている。
自分はこれほど舌が回るのか、と自分でも驚く程反抗の言葉はすらすらと口をついて出た。幼い彼がもしかすると地位の高い者かも知れぬという懸念はあるが、求めに応じて派遣されて来た者に対する態度ではないと物申しておかねば気がすまなかった。
そして自分よりも幼い黒衣に反論を受けた彼はというと。
「ふん、成る程。正論だな。ではその様に致すとしよう」
明らかな反抗に気を悪くした様子はない。元から機嫌はよろしくはなかったが、童は激昂するでもなくくるりと踵を返して行ってしまった。
後に残された二人はただ呆然とするのみだ。
「何だったのでしょう、彼は」
「私はそれよりも貴女に驚きですよ」
それぞれの呟きが廊下に響く。
朧が言った通りに日向を通して彼から二人にまた話があるのだが、それはまた翌日の事であった。