三度相対す
朧らが持ち帰った情報など大したものではなかった。元来陽炎側の黒衣である朧が何か情報を知り得たとしても、陽炎の不利益になる様なものは持ち込まぬのは当然である。だから約束の場所に戻った朧が告げたのはただ一つ。
──数こそ少ないが陽炎らも『フウ』を持つのは間違いない──だけだった。
それを聞いた風花の黒衣たちは、直ぐにでも報告をと焦った様にして風花の陣営へと駆けてゆく。それについて走りながら、朧は隣をゆく流にちらと視線をやった。
あれから流は、朧に術を仕掛けるでもなくただずっとひねた笑みを浮かべ続けていた。風花の黒衣に朧の事を告げるかとも思っていたが、その雰囲気は今のところない。
狡い話だが、朧は流が己を殺せないだろうと踏んでいた。彼自身言葉では黒衣の里や掟を批難しているが、その裏でとても囚われているように感じたのだ。
だから朧の生き方が羨ましく許せない。なのに掟に縛られ、殺せない。
心の内の僅かでもいい、態度や表情でなく言葉にしてくれたなら。
そこまで考えて自嘲する。敵国に入る為に利用した、たかが敵国の黒衣一人。その心中まで考えてしまっている今、恐らく彼を見捨てる事はもう出来ぬだろう、と。
やはり流は、朧の枷となってしまったのだ。
◆
偵察の結果を赤狐に告げた時、彼は付け続けている狐口面の笑う口元にぴったりの忍び笑いを漏らした。その笑みが場にそぐわず、報告をした朧ら黒衣は皆顔を見合わせて戸惑いを露わにする。
「いや、何。大したはったりをかますものだと思ってな」
そう言ってやはり赤狐は笑い続ける。その言葉に周りの黒衣は不思議そうに首を傾げ、真実を知る朧一人だけが息を呑むのを必死に堪えていた。
赤狐は何故あの光景を見ぬでも陽炎のはったりを見抜いたのか。
彼の言を聞く度に彼の底知れなさを知る気がして、朧は覆面の下で口元だけを忙しなく動かす。何か打開策はないかと頭を巡らせるが、下手に動けば危険なだけだと其処に跪き続けるしかなかった。
「しかし敵も馬鹿ではないようだな、浅知恵ではあるが」
そう言って赤狐は考え込む様に目を閉じた。誰もが口を開かない暫しの間、固唾を呑む音すら響きそうな気がする。
必死で策を考える和泉を想像して、朧は浮足立つのを止められなかった。震えそうになる指先を小さく擦り合わせて、ただ気を逸らせる。
すぐにでも陽炎に帰り、知らせなくては。
「成る程な。ただの囮の軍団かと思いきや、擬製でもその武器を持たせるあたりそうではないのか。ならば話は簡単だな」
彼にだけ分かる理論で一人納得して、赤狐は満足そうに頷く。そして朧の予想通りを告げるのだ。
「敵は擬製の『フウ』で、我らが攻勢を躊躇うのを狙っている様だ。時間稼ぎを狙うのであれば逆手にとってやろう」
──今宵、攻勢をかける。全軍で、あの矮小な軍を蹴散らし風穴を開けるのだ。
急転直下の布告だった。黒衣らが戦準備に駆け出す中、朧は茫然と立ち尽くして狼狽える事しか出来なかった。
◆
夜の帳が降りる頃、風花の布陣は迅速に成った。時雨が率いる『フウ』の部隊と共に風花の黒衣たちも最前線に配される事となった。
彼らが与えられた命はただ一つ。
何があっても『フウ』の部隊を守る事。
風花の戦の要である『フウ』の部隊は、攻めには長けても守りにはからきしらしい。それを晶や嵐の様な護りの術でないもので守るという。戦の先の苛烈さを予感させる命であった。
初陣として流と朧もその命を受け、最前線に赴く事になっていた。だが今、戦の火蓋が切って落とされるかという時に、朧の姿は其処にはなかった。
静まり返った天幕、多くの兵は陣触れを受けて戦さ場に参じている筈である。火も落とされ闇に溶ける黒い風花陣営の中を、朧は息を潜ませて歩いていたのだった。
焦りは禁物であると理解している。だがこれ以上待つ訳にはいかなかった。
陽炎と風花が相対し、赤狐が幕を空ける、その時を逃す訳には。
かの用心深い男が、他人に弱味を握らせる筈がないと朧は考えていた。だから『フウ』の武器の秘密があるとすれば、彼自身が握っている筈だと。そしてそれを苛烈な戦さ場に持っては出ぬだろう。であれば。
陣営の哨戒に当たっていた兵を二、三人、胸元に忍ばせていた懐刀で切り捨てて、朧は目的の赤狐の陣幕へと身体を滑り込ませたのだった。
風花の内でも立場の高い赤狐は当然一人きりの陣幕で野営をしている。そして其処には彼の被る赤い乱髪兜や具足がそのまま置かれていた。そして幕の端には行李箱が無造作に積み上げられている。
朧は焦った様にその行李箱に駆け寄ると、引っ掻き回して中を漁っていった。どんなものでも良い。あの底知れぬ男が泡を吹くような物はないか。
だが用心深いかの男がそんな物を行李箱に入れて置いておく筈もなく、全ての箱を改めても中から目ぼしいものが出て来る事はなかった。
暗い中でも目を引く赤い乱髪兜が朧を嘲笑って見える。腹立たし紛れにそれを叩き落とすと、大仰な音と共に地面に崩れ落ちる。
そして──。
「これだ!」
ころりと広がり出て来た巻物を見て、思わず朧は声を上げた。古い言語が使われているのか、朧には書いてある文面は読めないが、其処に描かれている図面には見覚えがあった。
まさに今戦況を分けんとする、『フウ』の武器の図面だ。
拾い上げて胸元に入れようと紙を巻きかけた手を朧はぴたりと止めた。
何故、此処に赤の乱髪兜がある。
戦さ場に奴が赴いているなら、これは此処にあってはならない。一瞬浮かんだ予想に息を呑んだ瞬間だった。
「成る程な。悪くない手だった」
背後から掛かる、低い声。
全てを見透かすかの様な、嘲笑が込められた赤狐の声が聞こえて、朧は自分の浅はかさに目を瞑った。
やはり焦っては良い結果にならぬと。
「やはり陽炎が持つ『フウ』は偽製だったか。俺の読み通りだな」
「分かっていた癖に。当てずっぽうであった訳でもあるまい」
「まあな、あの武器は作り方を知ったとて、一朝一夕では作れぬ代物だからな」
「やはり分かっていたのではないか。性格の悪い事だ」
赤狐の挑発に乗らぬ様に何とか冷静さを保って朧は言葉を返す。とにかくこの巻物を手に生きて脱しなくては、と既に血で濡れた懐刀を構えると、赤狐がまた小さく嗤った。
「お前のそれは名刺の様だな、黒衣擬よ。黒衣は武器を持たないと言ったのを忘れたか」
前と同じ挑発文句で赤狐は朧を煽る。未だ幼い朧の冷静さを奪う事など容易いと軽んじているのが透けて見え、朧はまた努めて己の理性を手繰り寄せた。
もしも突破口があるとすれば、それはきっと赤狐の慢心につけ込むしかない。
「いつから」
「疑問に思ったのは最初からさ」
「……何故分かった」
羞恥と屈辱に舌を打ちながら、絞り出す様にして小さく尋ねる。答えなどないだろうと思ったが、己の先見が当たって気を良くしているのだろうか、赤狐は饒舌に話し出した。
「まず最初にお前ら二人が君主に対した時だ。良く似て見える二人が兄弟だと自称する。何らおかしな事はないかに見えた、が」
そこで言葉を切って赤狐は嗤う。狐口面の赤い口元がゆらりと曲がって見えた。
「兄弟とは必要以上に似せては見せぬものだ。そうしなくても、どこか似るものだからな」
策を弄しすぎたか、それとも目の前の男が別次元過ぎるのか。悔しさに歯噛みする朧を見遣って、赤狐はまた口数多く語りを続ける。
「そして二つ目、黒衣は武器を持たぬと分かっていたからだ。我が風花に属する黒衣は全部で十八。だが今宵の為に申請された刀の数は十七、一本足りない」
赤狐が指を一本立ててそう言った。その視線は血で濡れた朧の手元に注がれている。
そして立てた指をゆっくりと倒して朧を指差したのだ。
「俺は知っていた。術を持たず、戦さ場で刀を振るう黒衣の存在を」
完膚無きまでの完敗だった。未だ十二の子どもの浅知恵など、彼にはお見通しだったのだ。
だが負け続けであっても、此処を脱する事さえ出来れば結果は朧の勝ちだ。それに関しては勝算があった。
「それを知っていてもお前は一人で来た。私一人に『フウ』の部隊を割く訳にもいかぬものな。
だが例え術を持たぬでも私は黒衣。お前一人でなくとも切り捨てて此処を脱する事など難儀ではない」
すぐに飛び掛かれるように低く腰を落として、朧は強がって笑った。虚勢など見抜かれているであろうが、それをする事で己を叱咤していた。
「さあ、どうする」
睨み合う時間が暫し続く。隠す必要など無くなった覆面を荒っぽく剥ぎ取れば、赤狐が薄く細めていた目を僅かに瞠ったのが見えた。
刀を握る手首をゆっくり傾けると、かちゃりと鍔が鳴る音がした。すると赤狐が突如笑い出したのだ。
「俺の負けだ」
両の手を広げて掲げて、赤狐は降参の姿勢で目を細める。最初からその気であったように。
「何のつもりだ」
「お前の読み通り、此方にとっても『フウ』は切り札。たかが忍び込んだ鼠一匹に割ける戦力ではない。だから……」
そう言って赤狐は立ちはだかっていた場から一歩退いて道を開ける。彼の行動の意図が読めず目を瞬く朧を見遣って、また一つ笑みを深めた。
「通行料は黒衣擬、君の名だ」
黒衣を下衆や悪しき種族と蔑む彼は、自国の黒衣であっても名を呼んだ事などなかった。だのに何故敵国の、黒衣擬と嘲る者の名を欲するのか。
真意を計りかねて眉宇を寄せる朧に肩を竦めて見せて、赤狐は手で出口を指し示す。
「おや、安いものだろう。敵国から脱する代償としては」
雰囲気に呑まれたか、彼が言うのは正論に聞こえた。朧は己の名を伝えるだけで、敵国から無傷で手土産まで携えて出る事が出来るのだ。
ごくりと唾を呑んで、朧は口を開く。そして名を伝えた寸時に、赤狐が計算通りと眉を歪めるのが見えた。
「朧、か。俺に三度対した黒衣擬の名、良く覚えておこう」
そうして赤狐は指先を振って外を指す。話は終わりだと言いたげな様子に、朧はまさに狐につままれた心地で天幕を後にしたのだった。
そして外に出てふと気付く。今命の危機があったのは朧ではない。赤狐の方だった筈だ。ならば命の代償を払うべきは朧ではなく。
がばりと今出た天幕に飛び込むが、其処にはもう赤狐の姿はなかった。地に崩した筈の乱髪兜も姿を消している。
やはり負け。雰囲気に呑まれ、冷静に状況を判断できなかった。彼の言に惑わされた、朧の完敗だった。




