師との対峙 上
まだ日も出切らない程朝早くの事だった。いつもより肌寒いその日は朝靄が立ち込め、山間に布陣した風花占拠の隊の様相を覆い隠していた。
朧は流と共に北東に布陣した隊へと進んでいた。北東へ向かう黒衣は朧らを含めて十。新参の朧らの事を考えて兵力をうまく二分して配置をしたのだろう。
山の木々に姿を紛れさせながら、徐々に隊との距離を詰めてゆく。此度は交戦する必要はなく、陽炎を探るだけならば隠密の内に進めれば良い。皆が押し黙ったまま静かに山の斜面を跳ねて下りていた。
やがて麓に近付き、霞んでいた景色がおぼろげにその姿を現してゆく。それを見留めた黒衣たちからは驚きともつかぬ声が漏れた。
「何だ、あれは」
「何故あれが陽炎らの手に」
口々に疑問を声に出すのは無理からぬ事だった。朧とて目の前の光景が信じられない。他の黒衣と同じく茫然と立ち尽くしていた。
陽炎兵が手にするは、紛れもなく『フウ』の武器。それを幾人かの兵が片手に辺りを哨戒しているのだ。
確かに朧はかの武器を持ち帰り、解体して調べると言う和泉に手渡した。だがそれが容易くない事は武器の性能を目の当たりにした朧自身が良く知っている。一朝一夕には成らぬ、だからこそ赤狐は切り札として使い、敵の手に渡った事を知っても焦らなかったのだ。
父の訃報を聞いたその時に、かの武器を手にして次の戦に心を遣っていた和泉を思い出す。そして彼を知るからこそ、朧は一つ結論を出した。
きっとあの武器は張りぼて。布陣した隊を黒衣が探りに来るだろうと考えての事だろう、大方和泉の発案だろうが大したはったりだった。
だがそれを知るは朧一人。直ぐに赤狐に報告をと焦燥する黒衣たちの中で、朧は一人冷静に身の振り方を考えていた。
黒衣殺しの武器の威力を知る風花の黒衣は皆、慄いて二の足を踏んでいる。この中で一人陽炎を探ると言えば、勇気ある行動として信頼を得る事が出来、尚且つ怪しまれず陽炎の黒衣に接触出来る。そしてこの情報を上手く使えば、戦況をある程度は自由に扱えるかも知れない。
決して危ない橋ではない。一利も二利もある筈だ。
決心した朧は覆面の下で固唾を呑むと、声を上げた。
「大人数でいけば目立ち、危険もあるかも知れない。此処は是非私が一人探って参ります」
血気に逸った新参者の言葉と思ったか、風花の黒衣たちに動揺が走る。だが朧の申し出を簡単に却下も出来ぬのだろう、皆が顔を見合わせて言葉を探していた。
暫しの間の後、そこに助け船を出したのは意外な人物だった。
「弟の発案、心許なければ僕も一緒に行きます」
いつの間にか隣に立っていた流が、兄らしく凛として声を上げた。彼の目元には動揺は窺えない。
それはきっと彼が『フウ』の武器を知らぬからだろうとは思う。だが彼の内面を僅かでも知る朧には、流の行動が理解出来ない。派兵される事にさえ怖気付いていた彼が何故冒さぬでも良い危険を冒すのかと。
だが周りの黒衣は違った。兄と名乗る流の凛とした態度を自信と取って、心強さを感じたらしかった。
「ならばお前たちに任せよう。だが無茶はせぬでも良い。陽炎がかの武器を持つ、その報告だけでも充分なのだから」
風花の黒衣の中でも上の格なのだろう、比較的年長者である者がそう言って朧と流の背を叩いた。この近くに潜伏する故任を終え次第此処へ帰るように、と言付けて。
音もなく、八つの影が姿を隠す。後に残されたのは朧と流だけだった。
「どういうつもりだ」
低く小さく声に出せば、流が素知らぬ顔で斜面をゆっくり下ってゆく。後を追いながら彼の言葉を待っていると、暫く離れた所で流がくるりと後ろを振り返った。
「僕も学んだんだよね。君は風花の黒衣の知らない事を知っている。だから君が行くと言ったからには危険はない筈なんだ」
一緒に行って情報の一つでも持ち帰れば立場も良くなるだろうしね、としてやったりといった表情で流は大きな目を細めて笑う。
彼にしては上手く事を読んだと言おうか。彼の言っている事は正しいが、朧にとっては有り難くない話だ。彼は朧にとってまさに枷になりつつあった。
「勝手をすれば捕らえる。それだけ肝に銘じておけ」
痛む頭を押さえながらそう言った朧を、流が楽しそうに笑って見ていた。
◆
物々しい陣中、今にも刀を交えん程の熱気が陽炎の陣にはあった。
恐らく数々の策を講じて来たのだろう。兵数こそ多くはないものの、駐留軍大将であった日向の戦死を物ともせぬ士気の高さが窺え、内心朧は安堵して陣中の様子を探っていた。
探るといっても何の事はない。朧は覆面を取ると、流を伴ったまま堂々と陽炎軍に相対したのだ。
武器も術も持たぬ黒衣が突如現れ、仁王立ちにて対する。その異様さに陽炎の兵らは騒めき、戸惑った様にしてじりじりと武器を構える。隣の流が真っ青な顔をして震えているのを横目に、朧は彼らが現れるのを微動だにせず待った。
賭けであったと言っていい。
朧には和泉らの考える軍略が如何なものか僅かも理解出来ていない。だが和泉は言っていたのだ。
──遊撃隊を組み、敵の狙いを分散し、撹乱。敵に無駄撃ちさせ、機を窺うが得策。
──囮には黒衣を配するべきかと。
つまり彼らは囮の役目を担うこの北東の隊にいる筈だと朧は考えたのだ。足りない頭を絞って考えたのだ、居てもらわねば困る。
恐る恐る近付く陽炎の兵の武器が間近に迫る。隣の流が我慢出来ずに術の言葉を紡ぐのを左の手だけで抑えて、朧は辛抱強く待った。此処で一撃でも手を出して仕舞えば、それは取りも直さず開戦となってしまう。それは朧の本意ではない、恐らく陽炎にとっても。
だが声を上げて陽炎の兵が武器を振り上げた瞬間に、朧は限界かと身を翻して地を蹴った。寸時遅れて振り上げられていた武器が朧の居た場所を薙ぐ。
肩越しにそれを見留め、舌を打った時だった。
「朧!」
待ちに待った、懐かしい声。朧は駆けるのを止め、目を見開いて声の主を見遣る。
「お師様!」
陽炎の兵らを掻き分けて、信じられぬものを見る様な表情で駆け寄って来るのは、待ち人である晶だった。彼の隣には表情の少ない細長い目をいっぱいに広げて言葉を失くす嵐の姿もある。
「こんなところで何をしているのですか。貴女には陽炎にて待つようにと言付けた筈。それに誰ですか、その連れは」
珍しく焦った表情の晶は、ぐいと朧の肩を掴むと矢継ぎ早に捲し立てる。だが此処で声高にその話は出来ぬと、朧は視線を後ろの陽炎の軍団に向けて合図を送った。
それで少しは冷静になったのだろうか、晶は此方の様子を窺う陽炎の兵らに一言言付けると、朧の肩を掴んだまま歩き出した。
「い、痛いですお師様」
「構いません。師の言付けも守れぬ者にはこれ位しても文句は出ぬでしょう、ねえ朧」
肩に爪が食い込む程の力で朧がずりずりと引き摺られてゆく。悲鳴を上げながら連れられてゆく朧の後を、戸惑ったままの嵐と流が付いて来るのだった。