黒衣、陣触れ
その晩の事であった。朧と流は二人揃って黒衣の天幕から出て、比較的外れた所で額を付き合わせていた。無論天幕の中で大っぴらに出来る話ではない。
二人を兄弟だと信じ切っている風花の黒衣たちは、朧たちの離席を見咎めず、思うよりも容易に二人きりで話が出来たのだった。
「しかし不思議なものだな」
そう言って首を傾げたのは朧だった。まじまじと向かい合う流を見つめ、眉を顰めて疑問をそのまま口に出す。
「お前を知る者に会えば不味いかと思ったが、意外と誰も知らぬものなのだな」
「まあね。だれも他所の家の何番めかも分からない奴を覚えたりしないさ」
「その割にお前は里の情報を良く知っているようだが」
「そりゃね、七の家の生まれが上手く生きていくには情報が大切だからね。君みたいな話だけでなくさ」
自嘲を隠さず、流が言い捨てる。その言い様に朧は更に首を傾げた。
「私の事は皆が知っていると言うのか」
「そりゃあ知っているんじゃない。少なくとも君が生まれてから森を出た人たちは皆女の黒衣の存在を認識している筈だよ」
面白くもなさそうに流はそう説明する。
里に居た頃は隠れて過ごした。だから朧にとって友と呼べる相手も、顔見知りの相手すらいなかった筈だ。であるのに皆は朧の事を知っているという、しかも良くない意味で。
忌避感に眉を顰めかけて、朧はふと思い出したように小さく声に出した。
「なら、何故彼奴は私を知らなかったのだろう」
隣国の君主の間で大立ち回りを演じた朧を、躊躇いながらも助けてくれた彼。同じ年頃の彼は朧が名を明かしても大した反応を示さなかった。それどころか未だに朧を男だと思い込んでいる風だ。
流の言葉通りなら、何故彼は、嵐は朧の存在を知らぬのだろうか。
朧の呟きを聞き留めた流が然して興味もない様に半目で反応する。
「あいつって誰?」
「嵐だ。二の家の生まれ、晶の弟だと」
「ああ! あの朴念仁か!」
合点がいったのか手をぽん、と叩いて流が明るい声を出した。
さすが、流は嵐の事も既知であるらしい。何処か気安さの篭る声で流は彼の事を的確に表現する。上位の家を嫌う流らしからぬ、好意の含んだ物言いだった。
「あいつは仕方ないんじゃない? 君も分かるだろう、あいつは全っ然他人に興味ない」
「まあ、そうか」
確かに流の言う通りだ。嵐が耳聡く同胞の情報を集める様を想像しかけて、朧は頭をゆっくりと振る。大した仲ではないが、それは違うと直ぐに思ってしまった。
「それはそうとさ。これからどうするつもり」
話を打ち切って、流が声を潜めて顔を寄せる。一応彼なりに朧の立場を考えての行動だろうが、それが余計に怪しさを煽る。
朧は彼の額を手で押し退けて流し目で見据えた。
「此処から先はお前の手は煩わせぬ。私一人で動くつもりだ」
きっぱりとした朧の言葉に、流は瞠若して言葉を失した様だった。
流は風花に属する黒衣。風花軍に潜入する為に彼を利用はしたが、彼自身は朧の狙いも真意も殆ど知らぬままだ。それどころか朧は流に、陽炎に属する事も明かしてはいない。もしかすれば彼は朧を何処ぞの流れ者だとでも思っているやも知れない。
これ以上流に朧の事情を明かせない。ましてや朧を蔑み嫌う、彼には。
「お前にはお前の、すべきがあろう。私は私のすべきを己でする」
「ふーん、君のすべき事ねえ」
小馬鹿にした様な声色で流が鼻で笑う。今は黒い布が口元を覆っている故分からぬが、きっと口の端にひねた笑みを湛えているのだろう。
彼の態度に朧もまた不機嫌を露わにする。いくら耐性がついたとはいえ、幼き頃より忌避してきた侮蔑の感情を向けられれば、嫌悪感を抱くのは当然だった。
「何か言いたい事が?」
「いーや、別に。詰めが甘いとは思っていないよ。僕がもし上に君を報告すればどうなるかーなんて考えてもいないよ」
覆面の下がありありと想像できる声色で流はくぐもった笑いを漏らした。
そんな事を彼は企んではいないだろう。朧を伴って風花に入った時点で、彼も咎められる立場なのだ。
彼はただ朧を言葉で弄びたいだけなのだ。朧が戸惑い躊躇う様を見て楽しみたいだけなのだ。
解っていても朧とて黙っておれぬのは幼さ故。もっと上手く流を転がす事も出来たろうに、朧はまた高圧的な言葉で流を睨み付ける。
「構わない。短い命だったと悔いたければな」
「へえ? 同胞殺しは重罪だよ」
流のその言葉に、朧は一瞬声を詰まらせる。
──同胞殺しは重罪、それは黒衣であるならば決して侵せぬ一線であった。幼き頃より重々言い聞かされたそれは血に根付いて、息をする程に当然の事として朧の中にもある。だが今初めて朧はふと思ってしまった。
黒衣として生きねば、同胞を殺す事など躊躇わぬのだろう。それは、言うなれば予感のようなものだった。
きっといつか、決断を迫られる時が来るのだろう、と。
だが今ではないと朧は首を振って小さく息を吐く。
たかが言い争いで、そんな決断を下す必要はないのだ。馬鹿らしく思った朧は、自嘲と共に流を流し見ると
「私ではない。赤狐を甘く見るなよ、との助言だ」
と言い捨て、言い争いは終わりだとばかりに踵を返して背を向けた。
まだ納得のいかぬ流が背中に何か言っていたようだが、朧は素知らぬ顔で戻るべき天幕の方へと足を進める。
流の言葉は朧を苛立たせるものばかりではあるが、まるで縋っているかの様な切なるものも含んでいた。外の世界に慣れぬ彼の、精一杯の強がりなのだろうと分かってはいる。分かってはいるのだが。
朧は足を止める。すれば直ぐに流の甲高い声が追いついて来るのだ。
「ちょっと聞いてるのかな。何度も言ってるけどさ、此処にいる限りは僕の助けが必要な筈でしょう」
助ける気などないであろうに、流はそう言って朧の隣に立つ。可愛らしい癖に可愛くない彼を見遣って、朧はぽろりと零した。
「全く、下手を踏んだものだ」
朧を忌み嫌いながらも、放っておいてはくれない流。これではまるで己に枷をつけた様だと、溜め息を吐きながら空を仰いだ時だった。
僅かな風の音と共に黒尽くめの影が一つ、朧たちの前に飛び降りて地に足を付ける。それが先程まで天幕にいた風花の黒衣の一人だと気付いて、朧は思わず身構えた。隣の流が驚いたか小さく声を上げる。
「こんな所にいたか」
その黒衣は安堵したかの様に一息吐くと、朧らの顔を見比べて口を開く。硬い声と緊張の面持ちで、朧は語られる言葉を予想出来てしまった。
「陣触れだ。赤狐様がお呼びだぞ」
◆
「風花の中心地を奪った部隊だ。隊を二つに分け、こちらから見て北と北東に布陣している」
篝火の明々と焚かれた天幕で、赤狐は簡略図を広げながら黒衣たちに向かってそう説明した。朧や流を含めて、黒衣は十八。皆が揃って簡略図を覗き込み、静かに赤狐の言葉を聞いていた。
「数は大した事はない。だがその少数を割ってまで二方向に布陣をした意味が今一つ理解できない。只でさえ今俺らを三点で挟撃しているのだ、無駄に兵力を割けばそこを狙われるのは定石だと敵も知っている筈。
そこでだ、お前たちは二手に分かれて両方向の隊の狙いを探れ」
陽炎と青嵐が背後にいる為、『フウ』の武器の隊は使えぬのだという。北に兵力を向け過ぎては、それより衆兵である本国を誘い出しかねないのだと。
赤狐の言から窺うに、今は未だ風花は本国と刀を交える気は無い様だ。小さな前哨戦は起こるだろうが、近くに大きな衝突がないと知れただけ、朧には大きな安堵であった。
ほっとしたのも束の間、赤狐は風花占拠の隊の模型を指先で爪弾いて強く声をあげる。
「兵は預けない。お前らだけで如何様にも探れるだろう」
明日の朝にでも直ぐに、と赤狐は言って略図をまとめて仕舞った。図面の上に置かれていた二つの模型が机上に落ちて音を立てる。それが散会の合図となった。
ぱらぱらと黒衣たちがその場を後にする中、朧は身動きせずその場に立ち尽くしていた。目線の先には赤狐の側に控える見覚えのある男──その手にはあの『フウ』の武器があった。
「時雨、あれは見つかったのか」
「いえ。やはり一丁足りません」
問い掛けられた男、時雨が首を横に振りながら眉宇を寄せて答える。朧らに聞かせる話ではないようだが、赤狐も時雨も気に留めず話を続けていた。
「死体の側のものも回収はしたのか」
「はい、配置した兵の分は確かに」
「ならばやはり、あの黒衣擬が持ち帰ったのか」
突として己の呼び名が聞こえ、朧は身体が冷えてゆく心地がした。そして何についての話か、見当がついてそのまま耳をそばだてる。
「ふむ。あの時あの黒衣擬を始末しておけなかった事は迂闊だったな。彼奴のはったりを見抜けなかった俺の失態だ」
「あれが陽炎の手に渡ったとすれば、不味い事になりはしませんか」
時雨が恐る恐る尋ねた事への返答を、朧も固唾を呑んで待つ。『フウ』の武器を一丁持ち帰り、和泉に渡したのは確かだ。あれがこれからの戦において大きな意味を為すかと思ったのだが。
赤狐は一度だけ目を細める。狐口面の笑う口元も相まって、何らかの企図にほくそ笑んだかの様に見えた。
「構わん。あれだけ持ち帰ったところで、彼の国にどうにか出来るとも思わないな」
そう嘲笑う様に吐き捨てて、赤狐は時雨から視線を外す。そして──朧とはたと目が合った。
目を逸らしてはならぬと本能で分かる、強い視線。凍りつく様な緊張感に息も出来ない。怪しまれてはいない筈だが、此処で行動を間違えればその瞬間に終わりだと感じてしまった。
黒い覆面の下で唇を震わせた、時だった。
「おーい。いつまで突っ立ってる訳? 黒衣の天幕帰って作戦会議だってさ」
不機嫌そうに朧の顔を窺いながら、流が赤狐との視線を遮る様に立った。その瞬間に凍った時が弛緩して動き出し、朧はやっと大きく息を吐く。二、三深呼吸で動悸を抑えて顔を上げれば、もう赤狐は時雨との会話に戻っていた。
「今初めて、お前に感謝した」
「何それ。気持ち悪い」
心底嫌そうに皺を寄せる流を見ながら、朧は背中に汗が伝うのを感じたのだった。