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鬼灯紋ノ太刀  作者:
第二章 十二となった少女
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辛酉大戦 其ノ一

 朧がまず向かったのは書物庫だった。黒衣がおいそれと入れた場所でないのは分かっていたが、番の者に無理を言って入れてもらった。勿論彼の監視付きではあるが。

 黴びた臭いの充満する埃っぽい小部屋、そこが書物庫だった。自分には全くの無関係だと思っていた部屋だ、物珍しさと罪悪感で朧はわざと大仰に辺りを見回す。

 視界を埋め尽くすは、黄色く変色し反り返って分厚くなった帳面が詰め込まれたの書架の壁だ。

 まだ比較的歴史の浅い陽炎ノ国でさえこの文献の量。戦ばかりを繰り返す世ではその量は当たり前かも知れぬが、朧は初めて息づく歴史に触れた気がした。


「三百年前の大戦、といえばどの辺りか分かるか」

 問いかければ心底億劫そうな番の者がある一段の一部を指差す。必要以上に黒衣と接しないという態度は珍しくはなく、彼だけが特段愛想がないという訳ではない。会釈をして背伸びをしながら一冊抜き取れば、どうやらそれは戦の概要が示してあるらしかった。

 潤いをなくして黄ばんだ頁の紙を慎重に繰ってゆく。そこに数多く踊る名を朧は掠れた声で読み上げた。


辛酉かのととり大戦……」

 これが和泉の言った三百年前の大戦のことであろう。厳密にいえば、辛酉氷室戦かのととりひむろせん辛酉八朔戦かのととりはっさくせんの二つの戦を合わせた呼称を辛酉大戦と呼ぶらしい。

 概要をゆっくりと追っていく。

 かつて大陸で広く祈祷師シャーマンとしての役割をしていた黒衣が大陸の覇権を求めて起こした戦。その蜂起は瞬く間に全土に広がり、人間対黒衣の大きな戦となる。

「人間対黒衣、だと」

 その兵差は約九千。いや兵差という言葉で片付けるのがおかしい程の差、人間九千に黒衣が八十という圧倒的なものだった。

「それでも、黒衣が人間に負ける筈は」

 呟いてその先を指で辿る。

 例え兵の多寡がいくらあろうが、強大な術を操る黒衣が遅れを取る筈がない。信じられぬ思いで先を読み進めるが、朧の不信感は更に膨れ上がってゆく。

「辛酉氷室戦は、人間軍大軍師深紅(しんく)の強大な術で黒衣軍は壊滅、人間軍が勝利をおさめた……だと?」

 人間が術? 黒衣は壊滅? たった一人の人間の力で? 朧の今迄の常識では書いてある事を読めても理解が出来ない。


 水無月朔日ろくがつついたちの未明に開戦した辛酉氷室戦では、深紅が操る不思議な術の前に黒衣はなす術もなく日暮れまでの僅かな時間で壊滅に追い込まれた。戦は苛烈を極め、両軍共に壊滅的な被害を受けたが、とりわけ黒衣軍の被害は甚大であった。人間軍の戦死者三千、黒衣軍の戦死者。

「……八十」

 まさに全滅だった。黒衣の圧倒的な術を以ってしても、大きな兵差は如何ともし難かったのだろうか。例えそうであったとしても疑問は数多く残る。

 黒衣と人間の大きな違いは不可思議な術を扱うか否かだろう。だが辛酉大戦で人間が旗印に掲げたのは術を扱う者だった。

 大軍師深紅とは、黒衣ではなかったのだろうか。


 その答えがあるかと次の項を読み進める。

 二月後に起こった戦が辛酉八朔戦である。黒衣の殲滅を信じ切っていた深紅の居城を生き残りであるたった一人の黒衣が襲った事件であった。

 その黒衣の名はほむら。辛酉大戦の総指揮者であり、黒衣の中でも群を抜いて強大な術を扱う者であった。だがこの辛酉八朔戦において彼は一度もその術を使わず、隠密のうちに城を攻略し深紅の術を封じた。そして深紅の首を取ったのちに居城内で討死。辛酉八朔戦は開戦より七日目の夜に、両軍の総大将の死亡で幕を閉じたのだった。

 この辛酉大戦で黒衣の絶滅は成ったものとされ、大陸に平和が訪れた──とはならなかったのは朧も良く知っている通り。人間は覇権を争って同胞と戦を繰り広げ、目を逃れた黒衣の生き残りが里を作ったという事だろう。

 朧は焦ったように別の書物を何冊か引っ張り出して目を通す。僅かでも良い、自分の疑問に答えるような記述はないものかと。だが三百年前の伝承に近い戦の話である故か、戦に関する詳細な記述は少ない。

 まして陽炎は人間の国である。何故術を扱う者が黒衣の軍ではないのか、生き残りはどのようにして人間の目を逃れたのか、その疑問に答えられる資料などない気がした。


「ならば、私がすべきは一つだ」

 生半可な知識など毒にしかならない。知ると決めたのならば得心するまで知らねば。それがきっと先の朧の力となる。

 朧は書架に資料を押し込むと番の者に礼を言って書物庫を飛び出した。向かう先は勿論蒼樹の元。暇を与えられた今だからこそ出来る事、それを乞う為に朧は足早に城の廊下を進むのだった。


 ◆


「晶の思惑は外れたみてえだな」

 謁見に訪れた朧の顔つきを見るなり、蒼樹はそう言って疲れたように笑った。彼には心労ばかり掛けている自覚はあったが、朧は自分の事情を優先した。朧にとっても己の殻を破らんとする瀬戸際だ、それ程の余裕がなかったと言って良い。

 兎に角蒼樹は朧の表情から、彼女の一大決心を察したらしかった。何やら合点しながら頷いている蒼樹に、朧は目を瞬かせて尋ねた。

「お師様の思惑、ですか」

「ああ。雲雀にお前の相手をさせて戦から遠ざけて、ほとぼりが冷めるまで安全な場所に隠しておいてやろうってな。お前の為でも何でもねえ甘やかしを考えていたみてえだぜ」

「お師様がそんな事を、何の為に」

 ぽつりとそう零す。

 かつて戦う術を持たぬ幼い朧に戦い方を授けたのは他でもない晶だった。だが彼が朧に図った事はまるで女として生きろと言わんばかりだ。

 今更朧を見限ったのだろうか。術の発現の齢を迎えて、これからだというに。

「さあな。あんな捻くれ者の考える事なんざ俺が分かる訳ねえだろうが」

 そう言って首を振る蒼樹だったが、表情は言葉に反して何処か得心がいっているように見える。だがそれを朧に告げる気はないのだろう。口を噤んで朧の言葉を待っている。彼女が何を告げるか、分かっているような顔付きで。


「少しの間お暇を頂き、里に帰ろうと存じます」


 全てを知り、受け入れ、私の持てる全てで再び貴方様に尽くす為に──そう言って朧は袖頭巾を脱いだ頭を垂れた。

 絶滅した筈の黒衣の隠れ里、そして朧の生まれ郷、全てはあの黒衣の森から始まっているのだ。

 かつて忌み嫌われ隠れ住むようにして無為に過ごしていた里での日々。知るべきが有ろうとも知らず、ただ外に焦がれていた。外にさえ出れば何かが変わると信じ込んで。

 朧が外で生きる為には、外に出る為にせねばならなかった事やり残した事を──忘れ物を取りに戻らねばならぬのだ。

「私は守られて生きるつもりはありません。貴方様に仕える黒衣として生きる為に、今一度里へ帰るお許しを頂きたい」

 がばりと袖頭巾を取って平伏した朧の頬をさらりと短い髪がくすぐって撫でた。

 たとえ敬愛する師の思惑とは外れていても、朧は心に決めてしまった。その証拠に、かつては忌々しさに胸を痛めていた短い髪など今は気にもならない。

 蒼樹は一度だけ深い溜め息を吐くと、疲れの滲んだしゃがれ声で吐き捨てる。

「満足いくまで知って来い。お前を捨てた黒衣の里の、高尚な仕来たりとやらをな」

 嘲笑うかの様な物言いは彼なりの叱咤だと分かって、朧は伏したまま大きく頷いたのだった。


 傷を負って戦から逃げ帰った朧が動き出したのは、師の予想より余りに早く、懐深い君主の期待より余りに遅い、凡そ十日過ぎたときの事であった。

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