朧、七つにして 下
『黒衣』一族。
常人には持ち得ぬ、不思議な術を使う戦闘民族だ。男しか生まれぬ彼ら一族は深い森の隠れ里に住み、周りの国の依頼に応じて兵を派遣していた。
彼らの持つ力は強大で常人では歯が立たず、殆どの国が一族の力を欲して依頼が続いている。それが混迷した乱世に拍車をかけているといっても過言ではなかった。
そして力の現出を迎えた晶に従う形で、まだ七つの朧も隠れ里の隣国である『陽炎ノ国』へと派兵される事となったのである。
◆
朧は今前を歩く晶の背に続くようにして、里の中道を歩いていた。十七の晶と七つの朧では歩幅がまるで違うが、前を行く晶はそんな事など構う様子もなかった。
忌み子と呼ばれる朧に、彼もまた良い印象など持っていないに違いない。幼いながらも朧は自覚して、出来るだけ晶の気に触らぬように必死に足を動かしていた。
そうして外に通じる小径へとやって来た時だった。ふいにぴたりと晶が足を止めた。
「如何なさいましたか、晶さま」
声をかけながら、彼の視線の先を窺う。其処に広がるのは、眼前を埋め尽くさんばかりに咲き乱れる鬼灯の畑であった。静かな風をうけてゆらゆらとその紅い実を揺らしている。里に咲き乱れる紅い提灯──これこそが一族が掲げる『鬼灯紋』の所以であった。
里を出る事を惜しんでいるのだろうか、と思って朧は黙って晶の側に並んで立っていた。声をかければきっと冷たい眼で睨まれるのだろう。
どのくらいそうしていただろう。小さく晶が声を出す。
「壱の家本家の貴女が、私に敬称などつける必要はないでしょう」
視線も寄越さず、晶は感情の込もらない冷たい言葉を投げた。蔑まれ慣れている朧ではあったが、彼の冷ややかな態度はとても寂しいと思ってしまっていた。
「ですが晶さまはわたしの御目付のようですので」
「厄介な任務ですよ、全く」
そう言って晶はわざとらしくため息を吐いた。びくりと肩を揺らすと、初めて彼の瞳と目が合う。
冷たい視線ながらも袖頭巾からのぞく彼の双眼は僅かに垂れ目で、きっと笑ったなら優しく見えるだろうと朧は思った。
「何ですか、言っておきますけれど、私に貴女の父親の様な優しさは期待しないで下さい。貴女はただの同僚です。共に派兵される身なのですから、それで充分でしょう」
つんと鼻先を仰がせて、晶は言った。
彼は朧を突き放したつもりだろうか。
忌み子として育った朧にとっては、褒め言葉にも等しい程に有り難い言葉であるのに。
「はい。わたしは晶さまの同僚なのですね」
にこにこと、朧は笑顔を弾けさせる。晶は面食らった様にじっと朧の顔を見つめていた。
「まあ、忌み子と出来損ないですから。随分とお似合いな同僚ではないですか」
小さく嘲る様に鼻で笑い、晶は足を踏み出す。特に感慨に浸る風もなく外に通じる小径をゆく彼を、朧も慌てて追った。もしかしたら少しだけ、歩く早さが楽になったかも知れない。
先をゆく黒ずくめの同僚の姿を見て、朧は足取り軽く地を蹴る。
二人を見送る様に紅い提灯の群れが頭を揺らしていた。
そうして里を出て暫くした頃だった。
「黙って付いて来ないでくれませんか。後ろに立たれるのは嫌いなのです」
欝蒼と茂る木々の根元に足を取られないように俯き加減で走る朧の頭に突如降りかかったのは、不機嫌そうな晶の声だった。思わずたたらを踏んで堪えると、ぽすん、と彼の腰に頭から突っ込む羽目になる。叱られるのかと恐る恐る彼を窺うと、冷たい眼がこちらを見ていた。
「少しは何か話したら如何ですか。口が利けぬ訳でもないのでしょう」
延々と続く森の中の小径に飽きてきたのだろうか、不機嫌そうな彼の言から察するに雑談をご所望らしい。変わった男だ。
「わたしは楽しい話など出来ませんよ」
「そんなものを童女に求めません。黙って後ろに立たれるのが不快なだけです」
ついと鼻先を外方に向けて晶は冷たく言い放つ。そんなものか、と朧は手先を弄びながら考え込んだ。
家族以外の者と話した事さえない朧には、話題というもの自体がないのだけれど。
小首を傾げて考える朧を、頭上から晶がしげしげと見つめていた。彼女を見るその目は先程までと違い、興味深そうに細められている。
「泣かないのですか」
「え」
突然の問いかけに朧ははたと顔を上げた。彼の垂れ目が細められてこちらを向いている。
「どうして泣かないのですか。急な別れだったでしょう」
言葉こそ優しいが、決して気遣うような声色ではなかった。彼の態度はまるで朧を責めるようだ。
だがこの質問が重要なものであると朧は感じ、表情を改めて口を引き結ぶ。そして心持ち胸を張って声を出した。
「泣きません。わたしは『黒衣』です。いずれ外に出るのが定めでしたから」
黒衣に生まれた者は力の現出と共に里を出、派兵された国でその命を完うする。それが習わしであり、幼い頃より言い聞かされた決まりでもあった。
里の中では忌み子である朧も、外に出たならば人並みの扱いがあるかも知れぬとずっと焦がれてきたのだ。術の力を持たないうちから出されたのは予想外ではあっても、外に憧れる気持ちはなくなりはしなかった。
「忌み子であれば尚のこと外で黒衣の名に恥じぬように生きろと、我が父の教えです」
幼い朧は胸を張る。彼女にとってこの巣立ちは哀しむべきものではないのだ。
「成る程、流石は壱の家本家の教えです」
流石という割に晶は忌々しそうに言い捨てる。先程から何故か、晶は朧を『壱の家本家』と不愉快そうに呼んでいる。意味が分からなくて、朧はおずおずと尋ねた。
「壱の家とは、なんですか」
朧は自分が本家筋の人間である事は知っていた。父親が里の長を務めているのだ、里の中でも良い血筋なのであろうとも見当がつく。
そういった意味なのだろうか、と尋ねたつもりだった。
だが晶は首を振ると小さく言う。
「術を持たぬ貴女が気にする事ではありませんよ」
突き放すような物言いに、朧は口を噤むしかない。
自分の事が嫌いなら黙っていれば良いのに雑談を要求したり、泣かぬ朧を気遣ってみたり、今度は突き放してみたり。晶という男はひどく捻くれた男だと、朧は十も年上の彼を判じたのだった。
◆
夜は野宿にて身体を休め、昼は欝蒼とした森の中を黙々と歩く。元来体力も運動能力も常人とは比ぶべくもない程秀れた黒衣の者にとっては辛い道程ではなかった。
そうして過ごす事三晩目。木々の傘が途切れ、じめじめと纏わりつくような森独特の空気が晴れた。とうとう森を抜けたのだ。
隣国といえど隠れ里を隠す為の迷いの森を抜けねばならず、思った以上に時間が掛かったように思われた。だが森を抜けた今、陽炎ノ国はもうすぐそこの筈である。
「では此れより、貴女は一黒衣です。女でも忌み子でもありませんからね。ゆめお忘れなきよう」
暗がりに目を遣りながら晶が静かに言う。心なしか声色が強張っていて、思わず朧も爪が食い込む程に拳を握った。
薄い月が照らす先に見ゆるは高き天守の城。濃藍の夜空に黒く影絵を映して立つ城こそ、この時より命尽きるまで二人が尽くす事となる陽炎ノ国の姿であった。