女の黒衣 下
日向の訃報から三晩を過ごした。
雄々しい印象の筈の目を微かに窪ませて前に座する蒼樹を見遣って、朧は尻込みしそうになる己を内心で叱咤していた。
彼の心労は如何程だろう。右腕である旧友を亡くし、それでも尚激化する戦への出陣を控えている。その上で朧は蒼樹に頭痛の種を増やそうというのだ。
普段ならばきっと、蒼樹の負担になるのを恥じて動く事を止めてしまっていただろう。だが朧は幼さ故に蒼樹に救いを求めてしまった。一人で三晩考え抜き、覚悟を決めてしまったのだ。
全てを蒼樹にさらけ出し、そして沙汰をもらう、覚悟を。
「蒼樹様、私は不出来な黒衣なのです」
感情の高ぶりを堪えた震える声でそう言って、朧は額を畳に擦り付けた。蒼樹の窶れた顔を見ながら告げる事はどうしても無理だった。彼の落胆や厭悪の表情を見たくなかったのもあるかも知れない。とにかく朧は泣き叫びたくなるのを堪え、努めて落ち着いた様子ではっきりと告げたのだ。
「女なのです」
視界の青鼠の畳がじんわりとぼやけていく。
ただ告げただけなのに、秘密を吐き出した朧の胸は棘が抜けたかのような小さな安堵が広がった。
恐らく隠し事というものは、己が思うよりずっと朧の小さな心を蝕むものであったのだろう。
逡巡の間の後、蒼樹が小さく息を吐く音がする。落胆の溜息だろうかと眉宇を寄せて肩を震わせた朧は、蒼樹の次なる言葉に目を大きく見開いて顔を上げた。
「知っていた」
肘を胡座を組んだ膝に付いた格好で蒼樹は朧を見て、そう言ったのだ。
窓を背にして障子を透かす陽射を浴びる彼の表情は窺い知れない。暗く影になる君主の顔がぼんやりと滲んで、彼の堂々とした影絵だけが、朧の涙ぐむ視界に映っていた。
信じられぬ思いで震える唇を動かす。
「今、なんと」
「知っていた、と言ったんだ」
やはり蒼樹は言葉を変えない。そして先の言葉も紡がない。ただ何でもない事の様に朧を見て座している。
女の黒衣など、奇怪な事この上無い筈なのに。
「知っていて、どうして」
「晶が告げて行ったんだ。出陣する前の夜に、一人で」
感情の窺えぬただただ凪いだ声色で蒼樹は続きを紡ぐ。嫌悪も慰めもない淡々とした様子だった。
「それで、何も変わらねえ。お前を要らないと里に送り返す気はねえし、大切に庇護してやる必要もない。
だろう?」
蒼樹の顔が朧の眼前に近付けられる。窶れて窪んだ彼のその瞳は、朧の覚悟を窺うかの如く強く射るものだった。
何も変わらぬのだ。
術を持たず、ただ己の奇異な生まれを利用して諜報を行ってきた今までと、戦場ですべき事は何も。
ただの女ではない。朧はまだ、黒衣として働く術があるのだから。
滲んだ目元をぐいと乱暴に拭って、朧は蒼樹の眼を射抜き返す。弱気になった自分を省みたのだ。
「変わりません。私がすべきはいつでもこの陽炎に、貴方様に尽くす事」
「なら此れまでと同じだ。俺も変わらねえ、お前を使うべきに使う。それだけだ」
話は終わりだと言わんばかりに、蒼樹は腰を上げる。障子を薄く開けて外を見遣るその後ろ姿に、朧は深く深く頭を下げたのだった。
◆
襖が閉じる乾いた音を背後に聞きながら、蒼樹は小さく息を吐いた。閉じた目蓋を指で強く押せば、思考の過ぎた頭がじんわりと痛む。
黒衣でありながら女に生まれた朧。如何に広く世間を見てきた蒼樹にとっても、その事実は驚くべきものだった。
だからだろう、蒼樹は一つ嘘をついた。
「そんなに変わった生まれなら、里に返してやりゃあいいんじゃねえか」
朧が女であると神妙に告げた晶に、蒼樹はそう言ったのだ。決してお荷物だと感じた訳ではないが、女である事に辛苦するのならば親元に返してやった方が良いとただ純粋に考えたのだ。
だが目の前の晶は小さく首を振って、僅かな嘲笑を浮かべた。
「何故あれが七つで里を出たのか、理由は察せられるでしょう」
術の発現も未だであるのに、と零すように言ってまた晶は嘲笑った。その嗤いが向けられるは果たして。
彼もまた十七で派兵という奇異な例であった事を思い出し、蒼樹は口を噤む。黒衣の習わしなど大まかにしか知らぬ蒼樹には、簡単に口出し出来ぬ事であった。
「朧を里には返しません。だからこそ、私は貴方様に真実を告げたのです」
強い意志を込めた瞳で晶は蒼樹を見つめる。日頃穏やかな晶の鋭い視線は、有無を言わせぬ迫力の中にどこか、助けを求めて縋り付くかのような切々とした色をも孕んでいた。
そう、晶は求めていたのだ。
気付いた蒼樹はくしゃりと白髪混じりの髪を掴んで小さく舌打ちをした。
「お前、俺が誰か分かって言ってんのか」
「勿論です。貴方様でなくてはこの様な異常な申し出、口にする事すら憚られます」
「そうじゃねえ、不敬とは思わねえのかって事だ」
心持ちの不満を眉間の皺に現して頭を掻けば、晶はまた少しだけ笑う。その彼らしい微笑には彼の深淵が表れている気がした。
「まさか、だから申し上げているでしょう。貴方様を知り、貴方様に仕えるからこそ、私たちは貴方様に居場所を求めているのです」
「私たち、ねえ」
顎をさすって目の前に跪く晶を見遣る。垂れた目を柔和に細めて薄く笑む彼は一見穏やかで好感の持てる人物だ。だが蒼樹は気付いていた。晶の張り付いた笑顔の下に潜む、仄暗い複雑な感情に。
だから蒼樹は突として跪く晶の前髪を乱暴に掴んで眼前に寄せ、晶の眼を鋭く睨み付ける。厚く塗り重ねた嘘の表情の下を見透かす事が出来たなら、と。
俄かに髪を掴まれて痛みに眼を細める晶だったが、やはりその仮面は崩れない。彼の中には何か恨み辛みの感情がある筈なのだが、表情には一切暴力的な色は窺えなかった。
「朧の為、それは本心か」
己でも短気であると自覚はしているがやはり晶を泳がせて探るという気になれなかった蒼樹は、絶対に本心など返ってこないであろう質問をした。ただの気休めでしかないだろうとは思っても。
だが晶は、驚いたように少し瞠目した後に薄く眼を細めたのだ。
能弁に嘘も真実も語り己を隠す晶には珍しい、沈黙という本心。その瞬間に蒼樹は、直感的に彼の求めに応じる事を決めてしまったのを感じたのだった。
また痛む目頭を指で押さえながら、蒼樹は独りごちる。誰もいない部屋に訥々と掠れた声が落ちていく。
「こうならねえ為に、お前は頑なに会わせなかったんだなあ」
眼を閉じて声を掛ければ、呆れた様な声が聞こえた気がする。全く貴方は仕方がないですね、と苦笑する友の声が。
五年前晶と朧が共に派兵されて来た時もそうだった。黒衣の派兵は漏れなく齢十二辺りであった為、十七と七で派兵されて来るという二人に蒼樹は大きな関心を示し、会ってみたいと日向に伝えたのだ。それ迄は黒衣については日向が統括していた為、蒼樹は戦場以外で黒衣の姿を見た事がなかった。
だが日向はというと眉宇を寄せて呆れた様な表情で首を横に振った。はじめこそ、必要ない、貴方には別の仕事が、とにべもなかった日向だったが、駄々をこねたと言っていい程に言い募った蒼樹を見て言ったのだ。
『全く貴方は仕方がないですね。ここで貴方を言い包めても、後日あれやと理由を付けて呼びつけるのでしょう』
君主で上役である蒼樹に言うには、些か甘やかした言葉であったが、日向の本心だったのだろう。
かつて一人の為に涙を流して国を挙げた蒼樹の情の深さ、そして甘さを彼は心から尊敬し、案じていたのだ。頑なに黒衣に会わせなかったのは日向の、これ以上蒼樹に何かを背負わせまいとした心遣いであったのだろうと、今なら分かる。
「すまねえな、お前の気遣いを無駄にしちまって」
それでも、蒼樹の心の中に後悔などは浮かんでは来ない。それが甘さであり、弱さであると解っていても、生き方を変えられなかった。それが蒼樹という男だった。
◆
蒼樹の御前を辞した朧は、彼に指示された通りの城の中のある一室の前で足を止めていた。
お会いしたのは過去に僅かな時間の一度きり。だが朧にとって衝撃的とも言える彼女との出会いは、記憶を漁らずとも直ぐに思い起こす事が出来た。
初めて女性を見て美しさに言葉を失ったあの時から、五年。既知とも言えない彼女の部屋を訪ねる事に躊躇い、何と声を掛けようかと思案していた時だった。
静々と襖が開き、記憶の中よりもずっと大人びた麗しい女性が顔を覗かせたのだ。光を浴びた深い鉄色の髪がさらりと肩から流れて、朧の視線を奪う。
彼女は辺りを見回して窺うと、小さく手招きして朧に入室を促す。言葉を交わさぬまま、朧はゆっくりと彼女の部屋へと入った。
「いらっしゃい、話は聞いているわ」
そう言ってゆっくりと笑む彼女に、朧は何と声を掛ければ良いか分からずに視線を彷徨わせる。まるで初恋の少年のようではないか、と内心自嘲するが、致し方ない。鮮やかな帯に包まれた細い腰も滑らかな白く長い指も、朧は目にした事すらなかったのだから。
「初めまして、ではないわよね。一度だけ和泉の部屋で会った事があるのを覚えているかしら」
こくりと頷くと、彼女もまた一度頷いて朧の顔を覗き込む。少しおどけた可愛らしい表情に朧の顔が独りでに赤くなった。
「あの時は自己紹介出来なかったから。今改めて、ね。
わたしは雲雀、陽炎ノ国君主蒼樹の一人娘よ」
あの時和泉は彼女を姫様と呼んでいたので、想像はついていた。だから朧は跪いて頭を垂れようと膝をついたのだが。
「わたしがお父さまと貴女のお師匠さまに頼まれたのは、貴女のお友だちになって力になってあげる事なの。表敬の礼は必要ないでしょう」
やんわりと彼女の柔らかな手が朧の肩を優しく押さえる。その穏やかな所作すら新鮮で、朧は目を瞬いて雲雀の顔を見遣った。
「わたしのお友だちになる人のお名前を聞いてもいいかしら」
小首を傾げて朧を見る彼女の美しい顔から目を逸らし、朧は名を小さく口にする。まだ恥ずかしくて直視は出来そうになかった。
「私の名は朧。黒衣のひとりに御座います」
「朧、ね。素敵なお名前ね」
雲雀の返事に、朧は信じられぬ思いで彼女の顔を見遣った。
たかが名、されど名。名がある事など当たり前の事なのに、彼女はそれを素敵な名だと言った。その違和感で僅かに悟る。晶が、蒼樹が、女となってしまった朧に何を与えようとしているのかを。
「雲雀さま、この様な異様な申し出を受けて下さり有り難く思います」
小さく頭を下げて目を上げると柔らかく微笑む雲雀の顔が見え、朧はまた気恥ずかしさに顔を染めたのだった。




