日落つ
本隊は混乱を極めていた。武器の攻撃の為か爆音故か、将の乗る馬が次々に猛り出し、暴れて列を乱すものや脚を地に縫い付けた如く動かぬものまで様々で、尚更隊の混乱を深めているらしい。
朧は未だどくどくと脈打つ右腕を強く押さえ、浅く息を吐きながら本隊の中を駆け抜けた。黒衣が傷を、と時折兵らの困惑の声が聞こえる。
それが尚隊の昏迷を深める事になりはしないかとも思ったが、構ってはいられなかった。
幸運な事に、どうやら本隊が混乱しているのは武器の放った爆音によるもので、放たれた攻撃で負傷した者は朧には見当たらなかった。朧が傷を受けたのは至近距離の所為であって、武器の精度としてはあまり良いものではないのかも知れない。
それに先程まで断続的に響いていた音が今では聞こえなくなっている。棒立ちの本隊に追い討ちをかけぬのは、何らかの理由で立て続けに放つ事が出来ぬからだろう。
であれば一気に大通りを駆け抜けるが上策だろう。動かぬ馬ならば乗り捨てて仕舞えば良い。朧は駆けながらそう結論付けて目当ての人物を探した。
大通りを行く細長く伸びた隊の中程で見覚えある兜を見つけた朧は、安堵の息を吐きながら走り寄り大声を上げた。
「日向様! 報告がございます!」
馬上の日向は駆け寄る朧に目を遣り、その負傷に気付き目を瞠る。彼も逸っているのだろう、いつもの冷静な口調が早くなっていた。
「黒衣、現状は」
「は。敵は未知の武器で応戦の模様。その武器矢より早く疾り、極めて殺傷能力が高いようです。一刻も早くこの場を離れるが良いかと」
未知の武器と声に出した時、朧は肌が粟立つのを感じた。
黒衣はいつ何時も戦場を支配していた。圧倒的な術で、如何様にも戦況を転がす事が出来ていたのだ。それを危ぶむ、人間の武器。容易く黒衣の命を奪える力。戦さ場における黒衣の危機を初めて感じた朧は身体が震えるのを抑えきれないでいた。
日向は朧から滴る血を一瞥すると、側の兵を呼び大声で朧の報告を伝える。
「脚を止めず駆けよ! 広場までは直ぐだ、臆さず突っ切れ!」
未だ狼狽える馬を落ち着かせるようにして手綱を引いた日向は、隊を縫うようにして走り出した。朧も後に続く。
混乱に騒ぐ隊だったが、日向の指示でゆっくりと再び歩みを進め始めた。
広場について仕舞えばあの未知の武器に対する手段もあろう。持ち帰った武器を解明し、対する手立てを考え出せば恐るる事など無い筈だ。
朧は日向の馬について駆けながら、夜陰に薄く浮かぶ櫓へと目を遣った。本隊が気掛かりで直ぐにあの場を脱してしまったが、赤狐の命を奪っておかなかった事を今になって後悔し始めたのだ。
結果論だと自分に言い聞かせるが、取り返しのつかぬ事をしてしまったのではないかと心の何処かで不安が頭をもたげる。
この先の戦、赤狐が無策でいる事などきっとない。あの男は再び朧らの前に現れ、強大な壁となるだろう。今から櫓に戻ったところで、彼の姿はないだろうが。
きらり。櫓を見遣る目に手摺りが弦月の光を弾くのが見え、その瞬間に朧は全身が総毛立つのを感じた。思考よりも早い本能での察知。だが矢より疾いあの武器では、如何に黒衣が行動を起こそうと防げるものではなかった。
思い切り飛び出した朧の手の先でぐらりと身体を傾けたのは馬に跨る、将日向の姿。
時が弛緩する中、空気を裂く武器の音だけが耳を打つ。
「日向様!」
具足が金属音を立てて地を打ち、彼の頭を護る兜の前立てが折れて転がる。横倒れになった日向を飛び出した勢いそのままに抱きかかえた朧は、勢い良く身体を転がせて通りの端に身を潜ませた。後に続く馬が、折れた日向の前立てを蹴飛ばし踏み付けて走ってゆく。急ぐ本隊の誰もが道の端に寄せられた日向の姿に気付く事はなかった。
「気を確かに! もう広場は其処です」
朧は自分より一回りも二回りも大柄な日向を背に負い、地を蹴る。
黒衣ならば朝飯前のその行為が今の朧には辛い。落ち着いていた右腕は再びどくどくと血を流し、戦さ場でも異変を感じる程の己の身体には、今は力が殆ど入らない。
朧はただ気力だけで、日向を背負って走った。
死なせたくない、その一心だった。
やがて大通りは幅を広げ、開けた場所には大掛かりな篝火が見える。本隊の馬が数多く並び、隊の兵は安堵に騒いでいた。転がる様にその場に飛び込み、朧は大きく叫ぶ。
「誰か! 日向様が負傷を!」
朧と日向の様子に色めき立った兵らが駆け寄り、背から日向の身体を離して連れてゆく。だらりと朧に身体を預けていた日向の手が朧の肩越しに離れてゆく瞬間、冷たく青くなった爪が頰を擦っていった。
「おい、軍医の幕だ! 早くしろ!」
「日向様、日向様! 聞こえますか!」
運ばれてゆく日向の姿は兵らに囲まれてもう見えない。様子を窺い知る事も出来ない。ただ朧の衣の背がぐっしょりと滴る程に濡れてしまっているのはきっと。
朧は自分の肩を抱いてうずくまった。身体が重い、痛い。傷も疼く。そして何より。
──日向を助けられなかった、と心が痛い。
赤狐が気を失ったのは分かった。だが本隊へと急ぐあまり、時雨と呼ばれた兵の意識を確認しなかった。武器を扱うのは彼だ、彼の行動こそ奪うべきだったのに。
自分の所為だ。櫓に向かったのが自分でなかったのなら、こんな悪手を踏みはしなかっただろう。自分の所為だ、自分の所為だ、自分の所為だ。
呪詛のような言葉を心の内で唱えながら、朧は目を閉じる。痛みに意識は霞み、そこでぷつりと途絶えた。
◆
がたがたと揺れる床に頭を揺すられて、朧は意識を取り戻した。ゆっくりと目蓋を開ければ、顔前にある白い大きな包みが目に入る。
「ここは……」
戦さの喧騒は其処にはない。ただ木造りの小さな床ががたがたと揺れる様で、荷駄車の中にいるのだと分かった。
朧の声を聞きつけたか荷駄車に掛けられていた白布が取り払われ、久方ぶりの日射しに朧は思わず目を強く瞑った。
「気がつきましたか、朧」
殊更優しい師の声に目を薄く開いて見上げれば、陽射を背負った晶が眉を垂らして此方を見ているのが分かった。酷く心配した、窶れた顔だった。
「お師様……私は」
「どうして一人で無理をするのですか。辛いなら辛いと……。言う訳ありませんね、貴女が」
一度は口調を荒げかけた晶だったが、途中で思い直した様に言葉をすぼませた。ゆっくりと首を振り、朧の頭を撫でる。
「貴女の事を頼まれていたのに、気付けない私も駄目だったのです」
晶の手のひらは大きく温かい。優しく触れて慰める晶らしくない態度は、いつもの嫌味などではなくただただ朧を気遣うものだ。
朧には師の曖昧な言葉の真意が分かってしまった。殊の外優しい態度も、労わる様な言葉遣いの意味も全て。
全ては、自分の身体の異変の為。
「私は、やはり女となってしまったのですか」
言葉にすれば尚更重く響く。
一抹には覚えていた不安。己の身体の異変から目を逸らし、気付かぬふりをしていた。
だが朧ももう十二、おかしな歳ではない。
「黒衣ではなくなるのですか」
ぼろりと涙が溢れ、大粒の涙は朧の黒い衣を濡らす。次々と溢れる雫を拭いもせずに、朧は晶を見つめ続けた。
初めて、朧は己が女である事を呪った。
今までは外の世界や女の証に焦がれ、黒衣の自分を要らぬものと思っていた。術を使えぬ自分を『黒衣らしからぬ』と思う事で、黒衣としての自分の存在を強めていたのだ。
黒衣で女である自分は、何処か特別な存在なのだと。
だが異変の起きた己の身体は戦さ場では役に立たなかった。壁を跳ねて登る事も高所から飛び降りる事も、背負って走る事も出来なかった。
──日向の命を救う事も。
今、只の一人の女になると思った時、朧の胸を締め付けたのはとてつもない程の虚無感だった。今まで生きてきた全てを失ったかの様な喪失感だった。
朧は拳をぎゅっと握って耐えた。狂おしい程の叫び出したい程の感情の渦に。そしてただ信頼する師の言葉を待ち続けた。晶は迷った様に視線を彷徨わせていたがやがてゆるゆると首を振った。
「私には分かりません。女の黒衣の話など、貴女以外知りませんから」
晶は溜め息と共にそう言って、再び朧の頭を撫でた。そうする事が唯一朧を落ち着かせられる事だと分かっているのだろう。次々と溢れ出る涙を見遣って、晶は一度だけ強く朧の頭を擦るように撫でて手を離した。
「一度陽炎に帰らねばなりません。貴女はまだ少し休んでいなさい。今はまだ何も考えずに」
がたがたとまた荷駄車が揺れ出す。
車を引いていたのは晶だったらしい、周りには誰も居らぬようだった。
ならば少しは良いだろうか。そう思って朧は哭いた。十二の少女らしく、声を上げて。胸に湧き上がる様々な感情を吐き出すように。
晶は振り返らない。だがその口は歯を噛み締めているかの様に固く固く閉じられていた。




