未知の力 上
まだ薄っすらと影が残る、そんな刻限だった。
朧らは先の戦さとは違い、いつもの黒装束に袖を通しそれぞれが武器を腰に提げていた。袖頭巾を深く被り、暗くなってゆく広場に通じる大通りを見張っていた。
穏やかだった昼間とは打って変わり、肌を刺す程の緊張感に、皆一様に口を噤んで通りを見遣っている。
広場には仰々しい程の明りが焚かれていた。それは此処に向かう本隊の為の目標でもある訳だが、別に大きな目的にもなっていた。
夕を思わせる程の明りに照らされるは、高く掲げられた紋入りの国旗であった。
当たり矢の紋入りの草色の飾り旗が陽炎ノ国、並び立つは猪目の紋が刻まれた橙色の青嵐の飾り旗と。そしてその隣には隣国の陰桜紋の旗も掲げられている。
三国の共闘を宣するよりも明確に、並び立つ国旗は三国の結び付きを表わしていた。夜闇に浮かぶ赤い篝火は更に深く印象付けているであろう。
風花に併呑された小国のうち僅かでも、動揺すれば良い。日和見を決め込んでもらえれば尚良い。
結果がどうなるかは未だ解らぬが。
此処に向かう本隊は長い大通りを縦に長く隊列を組んで進軍してくる手筈である。縦長の陣形は横よりの攻撃に弱く、ふとした弾みで直ぐに分断されてしまう。
そこで黒衣の出番だった。
「では此れより我らは本隊に通じるこの大通りを行く事になります」
そう声を上げたのは晶だった。
此度は黒衣に危険はない、その自信からか晶の声色は戦さ前にしては穏やかなものだった。背に護る人間もおらず、黒衣の皆には晶と嵐の護りの術がかかっている。危な気はない筈だ。
「広場にも本隊にも目が向かぬくらい、派手に暴れて本隊を迎えに行ってやりましょう」
晶の号令で、黒衣たちはそれぞれがまた掌に光を浮かばせる。本領発揮とも言えそうな、激しい力だ。
黒衣たちは地を蹴る。薄闇に黒装束が溶け、手に湛える光だけがぼんやりと浮かんで消えて行った。
残されたのはやはり、晶と嵐そして朧だ。
「私たちも行きませんとね。足手纏いでも、何かの役には立ちますから」
こくりと頷いて朧もまた地を蹴る。前を行く二人を追いながら、何処か身体が重く感じてしまうのはやはり、先の戦さを思い出すからだろうか。
赤く火の粉が散る中笑う赤い狐の男を思い浮かべかけて、朧は頭を振って無心に足を動かしたのだった。
◆
朧がそれに気付いたのは偶然だった。異変を感じた朧はぴたりと足を止めた。
通りの脇に立つ家屋にはもう人はいない筈だ。広場であれ程の騒ぎがあって尚この場に留まる民などいなかった。ある程度は確認済みである。
だが何か、目の端にきらりと光るものが見えた気がしたのだ。気の所為で片付けるべきでない、と朧の中が言っている。その証拠に掌には緊張故の汗の玉が光っていた。
「どうかしましたか」
足を止めた朧を不審に思った二人が引き返して来たが、朧は未だある一つの家屋から目を離そうとしなかった。
「何かあるのか」
朧の視線の先に目を遣って、嵐が覆面の下でもごもごと言った。
言葉にするには僅か過ぎる違和感だったが、朧は意を決した。たとえ杞憂であったとしても気掛かりを残しておくべきでない。
「あの窓、何かが光った」
朧が指したのは開け放されたままの窓であった。住人はいないのだろう、明かりの灯らない窓が大きく開けられているのは、確かに不審ではある。
「見に行きますか、気になるのならば」
小さく頷いて、朧はゆっくりと足を踏み出す。腰に穿いた刀に手を遣り、足音を立てぬよう腰を落として窓へと向かった。
近付けば近付くほど、変哲も無い小さな家屋だ。やはり杞憂であったかと安堵する気持ちがもたげ、息を吐き出そうとした瞬間だった。
カチリ、と。風音にも負けそうな小さな金属音がしたのを朧は聞き逃さなかった。
考えるよりも早く、足が地を蹴る。刀を抜きながら開け放された窓から身体を飛び込ませると、やはり、驚きに目を見開く兵が武器を手にこちらを見ていた。
敵の兵が気を取り戻して武器を構えようと指先を動かしたその刹那に朧の刀が空を斬り、刃先がぴたりと兵の首元に突きつけられる。正に瞬く間であった。
「風花か。一人か」
首に押し当てた刃に力を入れながら、朧は低く言った。相手はたかが人間一人、勝負はとうについている筈だが、力を弱める事が出来なかった。
何故なら敵が、一人きりである敵の目が、まだ僅かな余裕を含んでいたからだ。
「一人で何が出来る。何を企んでいる」
朧の声は次第に焦りを帯びて上擦ってゆく。そして反して相手の表情にはやがて焦りが消えていった。
カチリ、とまた僅かな金音が響く。暗闇では詳細は解らないが、敵が持つ武器が音を発した様だった。敵の目が笑った気がした。
意図的だったのか否かは解らない。少なくとも朧は本能で危機を感じ、反射的に手にした刃を翻したのだ。
顔に生温かいものが降りかかる。暫し目を細めてその赤をやり過ごした朧は、力無く投げ出された敵の手から武器を取り上げた。
それはまるで短い棍のようであった。ずしりと重みがあるのは周りに付いている仰々しい金属の所為だろう。
初めて目にした武器、刃もなく、重みを考えれば鈍器であろうがそれが正しいかすら解らない。ただ一つ、自分たちにとって良くないものである事だけは確かだ。
朧は武器を腰紐に結って提げ、未だ大通りからこちらを窺う二人の元へと戻った。敵兵が一人きり、その事象が表す事実を伝える為に。
「伏兵、ですか」
こくりと頷きながら晶は渋い顔をした。懸念していた通りだと言わんばかりの表情だ。
「はい。それも恐らくは其処此処に」
「まあ予想通りですね。本隊が通る時に横から攻めて分断する、定石通りとでも言いますか」
晶は辺りを見回す。大通りに沿うように並び立つ家屋を見遣って、心底信じられぬと首を傾げた。
「ですが不思議ですね。此れ程入り組んだ場所でそれをしても意味はない筈です。横から攻める側が分断されていてはお話にならない」
「ですが現に兵が伏せられています。そして今私たちが棒立ちであるのに攻撃して来ないのは、やはり本隊を狙っているからでは」
「何か、策なり企みなりがあるって事か」
三人がそれぞれの考えを述べて、一様に口を噤む。考えている事は同じだろう、顔を見合わせれば解った。
「放って行く訳にはいきませんね」
「私たちしか居らぬのですから、私たちがせねばならぬでしょう」
「なら、別行動だな」
焦ったように空を見上げながら嵐が言った。
夜闇の中、時折稲光が走るかのように空が白むのは、恐らくもう先行の黒衣が術を発しているからだろう。本隊の到着まで猶予はない。
「考える暇などありませんね。手分けして伏す者を討ちましょう」
晶が言った事で、嵐が地を蹴りかけたのを止めたのは朧だった。
闇雲に探していてはきりがない。確実にとは言えないが、朧は思い付いた特徴を小声で伝えた。
「窓だ、開け放された窓を狙え」
「窓だと?」
「確証はない。だが敵はそれをせねばならぬ様だ。恐らく間違いない」
宵闇に開け放たれた窓、それが如何に不審かは見ればわかる。見咎められる危険を冒してでも、敵は窓を開けていなければならぬらしい。つまりそれは──。
「矢が射掛けられるか……少なくとも策があるのでしょう。私たちも警戒しなくてはなりませんね」
三人は頷き合って地を蹴った。やはり思ったより近くで爆発音が響いたのを、朧は焦った心地で聞いたのだった。
◆
朧の予感は的中した。通りに並ぶ家々には数多くの開け放たれた窓があり、其処にはやはり兵が伏せられていたのだ。だが伏せられた兵はどれも一人きり、そして漏れなく奇妙な棍の武器を手にしていた。
朧の中で不安がむくむくと大きくなってゆく。
何故敵は一人ずつなのか、珍妙なこの武器は何なのか、果たして一人一人討つ事に意味はあるのか。そして必死に駆けずり回っていても、所詮は敵の手中なのではないか。
敵を討つ度に焦燥は増し、朧は赤く濡れた刀を一振りして開け放たれた窓から外を見た。
宵闇の空の端に弦月が浮かぶ。それ程までに時間が経ったのかと舌を打ちかけて、朧は逸らした視線を再び月へ──いや、正しくは薄月明かりに照らされた小高い櫓へと遣った。
伏せられた兵は窓から何を見ていたのか。それを考えればもっと早くに掴めていただろうに。
月明かりに浮かぶ小高い櫓は、朧が廻った全ての窓から見える位置にあったのだ。決して偶然ではない。
だが、確か櫓には警戒の為に兵を配していた筈だ。
「まさか」
赤く爆ぜる火の中を悠々と歩く赤狐の姿が思い出される。我らの意識が広場と本隊に向いたその時に少数の兵が配された櫓を奪うなど、あの男には容易い事だろう。
晶や嵐に報告すべきか、足を踏み出した朧は先程までとは比ぶべくもない程の地鳴りを感じて大通りを見遣った。
迸る光が近付いて来ている。本隊の行軍が近いのだ、二人を探し報告をする暇など無かった。
「ちっ」
舌を打って朧は外へ飛び出した。向こう見ずだと後に叱られようと、今は手遅れになる方が恐ろしい。
薄闇に浮かぶ櫓を睨みつけて跳ねるように地を蹴る。焦りからだろう、身体が急激に重くなってゆくのを感じながら、朧は必死に櫓へと急ぐのだった。




