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鬼灯紋ノ太刀  作者:
第二章 十二となった少女
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「おい、朧」

 肩を優しく揺すられて、朧は今自分が微睡んでいた事に初めて気付いた。はたと見上げれば気遣わしげな嵐の顔がある。

「すまない、眠っていたようだ」

「大丈夫か」

 掌底で眼をごりごりとこすると、幾分か視界ははっきりしたがまだ眠気が残っていて、朧は強く頭を振った。目蓋が重い。

「疲れている、訳でもないんだが。酷く眠い」

「顔色が悪い」

 それだけ言って、嵐は朧の隣に腰を下ろした。口調は無愛想だが、彼自身はとても優しい男らしい。心配そうに寄った眉が彼の人柄を表している気がした。


 日が西に傾きかけている今は、戦の合間の小休止といったところか。広場では怪我人の治療や武器の手入れ、また夜に向けて体力を養う為に一眠りついていたりなど、皆が様々な様子で時を過ごしていた。


「食べるか」

 そう言って嵐が懐から出したのは小振りのかぶだった。

「蕪? どうした、こんなもの」

「崩れた家にあった」

 悪びれもなく無表情で言って、嵐は蕪に口をつける。硬く削れるような音がして嵐は目を細めて眉を寄せていた。

「かたい」

「当たり前だ。私も丸かじりは初めてだ」

 手の中にある蕪を一撫でして、朧も恐る恐るかぶり付く。瑞々しさに喉が潤った反面、舌を刺すのは苦味だった。

「苦いな」

「生だからな」

 しれっと言って嵐はまだ蕪に歯を立て続けている。切れ長の目だけが朧を向いていて、様子を窺っているように見えた。


「何か聞きたい事でもあるのか」

 蕪を指先で撫でながらそう尋ねれば、がりがりと咀嚼していた嵐の口がぴたりと止まった。分かり易いものだ、と朧は彼の顔をじっと見遣る。

 逡巡の後、嵐は再びゆっくりと口を動かし始めた。鋭い目が落ち着かなさげにゆらゆらと揺れている。

「兄者、の事だが」

「お師様がどうかしたか」

 身を乗り出せば、嵐は僅かにたじろいでまたぴたりと咀嚼を止めた。迷っているのか、眉宇を寄せて忙しなく瞬きしている。

「なんだ。気になるからはっきり言ってくれないか」

「どう言えば良いのか分からない、が……兄者を宜しく頼む」


 嵐が躊躇いながら呟いたのは、予想だにしない言葉だった。晶を師と仰ぎ、寧ろ足手纏いである朧に、彼は晶の何を頼むと言うのか。

 目を丸くして朧は首を振る。

「私は迷惑を掛け通しだ。それはきっと此れからも変わらないだろう」

 たとえ朧が大人になり、術を得て一人前に戦えるようになったとしても。晶を師と仰ぎ、彼に迷惑を掛け、小突かれながら生きてゆくのだ、きっと。それは変わらない気がした。

「そのままでいい」

 短くそう言って嵐は蕪を嚙る。がり、と硬い音がして彼はまた眉を寄せた。

 そのままでいい、と嵐は言った。ただ足手纏いで晶に助けられてばかりの現状は、初めて陽炎ノ国に足を踏み入れたその時から変わっていない。鋭く冷えた視線を投げて、煩わしそうに朧の手を払っていた、あの時から。

 なのに何故、そのままでいいのか。彼の簡略な言葉では理解出来なかった。

「何か、気にかかる事でもあるのか」

「いや。ただあの兄者が、お前を信頼していたから」

 嵐は眉間の皺をふっと消し、穏やかな目で朧を見る。ただ純粋に兄を想う、優しい目だ。

「里に居た頃は部屋に篭りきりで、誰も信じられなかった兄者だから」


 ふと思い出す。

 忌み子と蔑まれ、里を歩く事すら憚られた。ただでさえ鬱蒼とした森の中、篭る部屋は仄暗く、陰鬱な気分は更に落ち込んだ。時折外から響く声にすら怯えて震えた──あの頃の自分の姿に、そのまま晶が重なる。

 出来損ない、と呼ばれていた晶もきっと朧と同じなのだろう。冷えた表情でただ座す晶の姿を想像して、朧は胸が掴まれる心地だった。


「心配せずとも良い。お師様は大丈夫だ」

 安心させるように強く言えば、嵐は穏やかな表情のまま一度だけこくりと頷いた。

 一瞬、その顔が重なる。

 満足に言葉を交わさぬまま、泣き声だけで別れた自分の兄。いくな、と。家族なんだ、と泣き叫びながら一番嬉しい言葉を伝えてくれた兄も、今の嵐と同じような表情で朧を見ていた。

「やはり兄弟とは良いものだな」

 感慨深く思ってそう言えば、嵐は照れたように外方を向いてまた蕪を嚙った。


「何を話しているのですか」

 頭上からの声に顔を上げれば、心なしか硬い表情の晶が腕を組んでこちらを見下ろしている。嵐は此れ程にも兄思いであるのに、やはり捻くれ者の晶は弟を見る目にどこか冷たさを孕まさねばいられぬらしい。

 悪戯心が頭をもたげ、朧は思わずにやりと笑って言った。

「お師様の事です。嵐がいかにお師様を想っているか聞いていたのです」

 嵐が隣で咽せ、晶がぎゅっと眉宇を寄せる。双方の鋭い視線を感じたが、朧は目を閉じて素知らぬ顔で言葉を続けた。

「大切にしなくては。此れ程兄思いの弟は見た事ありませんよ」

「そんな憎まれ口を叩くのはこの口ですか」

 わざとらしい程優しい口調の後、ぐい、と頰を捻られる感触がする。ただのお巫山戯ふざけかと思いきやその力はどんどん強まり、朧は思わず立ち上がって晶の腕を叩く。

「い、いは、いはいへふ」

「え? 聞こえませんねえ。おかしいですね、貴女の憎まれ口はとてもよく聞こえるのに」

 ぎゅっと更に力を入れられて、朧は目を見開いた。照れ隠しにしてもやり過ぎだと思う。爪も食い込んでいる気がする。

 彼の腕を掴みながら非難の目を向けた朧だったが、晶の顔を見て思わず動きを止めた。


 晶の目には薄っすらと涙が浮かんでいた。

 垂れ目を細く眇めて朧を叱る表情はそのまま、ただ目尻に光るそれだけがいつもの晶と違っていた。

 動きを止めた朧に、晶も自分の異変に気付いたと感じたのだろう。頰から手を離し、わざとらしく袖で目尻を拭ってみせる。

「そうですね、兄思いの弟をもって涙が溢れ出そうです」

 芝居掛かった仕草の所為で、嵐は晶の涙には気付かなかったらしい。微笑ましげに二人のやりとりを見上げていた。

 信じられぬ思いだった。

 朧が思うよりもずっと、目の前の捻くれた男はいろいろなものを背負っているのだろう。嵐の言葉で初めて、その片鱗を朧は見る事が出来たのだ。

「やはり、兄弟とは良いものですね」

 赤く腫れているであろう頰を摩りながらそうにっこり笑えば、晶の目が細く眇められた。また小突かれるかも知れない、と思って身構えると、やはり晶の手が伸びてくる。


 躊躇うような僅かな震えを伴いながら、触れられたのは頭だった。手のひらは想像よりも大きく、そして温かい。

 戸惑って視線を彷徨わせば、同じようにして頭を撫でられている嵐が目に入った。目を丸くして、嬉しさと照れ臭さが入り混じった瞳で、同じように朧を見ている。

 自分も彼と同じような表情をしているのだろうと思えば、何故か胸が苦しくなった。

「兄者……」

「そうですね、良いものです」

 今まで聞いた事のない程の慈愛と親しみの篭った晶の声色に、朧は堪える事が出来なかった。ぼろりと決壊した涙は次々と溢れ、声までも抑えられなくなってゆく。呻きを上げながら、朧は顔を両手で覆った。


 初めて、晶に触れたと思った。

 彼を師と仰ぎ共に戦っていても、何処かでやはり彼の心を信じ切れていない部分があった。決定的な別れをいつかは訪れるであろうと覚悟し、その上で今の関係を享受していた。

 だが今初めて、晶に与えられる慈しみは偽りではないと感じたのだ。

 彼が朧に抱く感情にはきっと忌むものもあるだろうと理解はしている。だがそればかりでもないと思えたのだ。

 忌み嫌われて生きてきた朧だが、初めて他人から親愛の情というものを感じたのだ。


 里を出て、五年。派兵されたからには一人前として在らねばならない。ましてや朧は術も持たぬ足手纏いであるのだ、せめて態度だけでも立派であろうと努めてきた。

 だが朧はまだ十二。感情を露わに咽び泣く事はおかしな事ではなかった。

「何故貴女が泣くのでしょうね。ここは普通は私か嵐なのでは?」

 呆れたような晶の声に、朧は頷くだけで返事をする。泣く事も甘えだと理解しているのか、晶の手は未だ朧の頭を撫で続けていた。

「それだけ泣けばすっきりするでしょう。顔色が悪かったので心配していましたが、もう大丈夫ですね」

 最後にがしりと力強く擦って、晶の手が離れてゆく。若干の気恥ずかしさを感じながら顔を上げれば、晶と嵐が同じようにこちらを見ていた。彼らの表情も照れを含んだぎこちないものだ。


 戦さ準備に騒めく広場の中で、朧は今までになく穏やかな心地になったのだった。

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