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鬼灯紋ノ太刀  作者:
第一章 齢七つの女童 
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朧、七つにして 上

 目が醒めると、相も変わらず古びた天井が見えた。穴の開いた天井板から眩い白い光が目を刺す。

 寝起きの目には痛い程の白だった。


「気付いたか、おぼろ

 そう声を掛けられて声の主に目を遣ると、白髪混じりの髪を乱れさせて安堵した様な表情の男が目に入った。

 窶れた様子の彼は父親だ。余りに心配を掛けたらしいと分かったが、なぜ彼がそれほど取り乱しているのか、まだ霞みがかった頭では皆目検討がつかない。取り敢えず何か声をかけねばと口を開くが、喉が嗄れて声が出なかった。

 どうやら酷く長い間、眠っていたらしい。

「気分が悪くはないか。何が欲しい」

 口を小さく動かす朧を気遣わしげに見て枕元でがちゃがちゃと音を立てて狼狽える父親に、朧は小さく笑みを浮かべる。そして掠れた声で小さく、水、と呟いた。

「水だな。ある、ほら」

 父親は枕元に置いてあった水差しから湯のみへと水を注いだ。こぽこぽと水音だけが静寂の中に耳に届く。目を閉じてしまえば、またどろりとした眠気に誘われそうになった。

「朧、起きれるか」

 父親の手が朧の背を支えて起こす。久方ぶりに身体を動かしたのかぎしぎしとあばらが痛んで、朧は眉宇を寄せた。俯きながら身体を起こしきると、はらりと前髪が頬をくすぐる。

「え」

 思わず出した声の所為で喉がびりと痛む。だが朧は構わず頬をくすぐり続ける己の前髪を指で掴んだ。父親がそれを見て顔を歪める。

「わたしの、髪」

 掠れながら、それでも朧は強く声に出した。己の異変を信じられぬと言う様に。


 確かに朧の髪は長かった筈だ。

 たおやかな彼女の髪は光を弾く程の濡烏色で、彼女はそれを殊の外大切にしていた。長い髪は朧にとって自己の証明であったのだ。

 それが今では、全ての毛先が首の付け根程までにばっさりと短くなってしまっていた。毛先を掴みながらの朧はふるふると唇を震わせる。

「気を落とすな、朧」

 父親が湯のみを朧の口元にあてがいながら、背を撫でる。慰める声色は彼女の涙腺をひどく刺激し、朧はぽろりと小さく涙を流した。

 それは致し方ないだろう。なにせ朧はまだ、七つになったばかりの童女であるのだから。取り乱して泣き喚かぬだけ、朧はまだ分別がついていた。

 潤した喉でようやっと朧は言葉を紡ぐ。まだはっきりとは声にならないが、それでも彼女は狼狽えたりせず父親をじっと見遣りながら的確な質問をした。


「父さま、何があったのですか。何故わたしは長い間眠っていたのでしょう」


 頭が働き出したらしい。記憶が少しずつ目を覚ましている。彼女の最後の記憶は、決して物騒なものではなかった。

 剣の鍛錬にと木刀を持って森へ向かったのだ。家の近くであったので、危なげな事でもなかった。その上確か目付け役もいた筈だ。

 なのに何故そんないつもの光景さえ霞みがかってしまっているのか、父親ならば知っている筈だと朧は思った。

 だが父親は首を横に振りながら、朧を再び布団へと横たえる。先程までの狼狽えた様子とは一変した強く鋭い眼が、話す事などない、と言っていた。

「父さま」

「朧、今はただ眠れ」

 寝かせつける様に、父親は朧の胸を布団の上から軽く叩く。ゆったりとした動作はいつもなら眠りへと誘うものだろう。だが朧は眠らなかった。

 天井の穴から射す眩い光が朧の記憶を白く染める。思い出そうと目を閉じると、光は目蓋を紅く透かしてまた、考え事の邪魔をする。


 何か、大切な事を忘れてしまっている気がするのに。

 髪を失くしてしまったのも、自分の所為だったと思うのに。


 やっぱり考え事をしだすと、光が色を変えてそれを阻んでしまうのだ。

 まだ幼い朧が抗える筈もなく、本調子でない身体はすぐに睡眠を欲してゆく。どろりとした微睡みの波間に小さく浮かんだ紅い情景も、きっと光が消してゆくのだ。

 幼い朧は全てを忘れる。それは彼女にはどうやっても抗えぬ事だった。


 ◆


 翌日目を覚ました朧の身体は、昨日の事が嘘の事ように感じる程に調子を取り戻していた。もし夢を見ていたのだと言われれば、それを信じてしまう程にいつもと変わりない朝だった。

 髪が頬をくすぐりさえしなければ。

 溜め息と共に朧はまた、忌々しい短い髪を指で掴む。毎日大切に手入れしてきたそれは、短くなってしまった今でも滑らかな手触りで指間を流れた。


 大切だった。朧が朧でいる為には必要なものだった。

 朧が普通の七つの童女だったならば、きっとそんなものを必要としなかっただろうに。

 感傷に浸っていても仕方ないと、朧は頭を一度振って身支度を整え始めた。子供らしくないこの切り替えもまた、きっと彼女の性格の所為だけではないだろう。

 黒一色に染められた小袖の腰で細帯を貝の口に締め、頭からこれまた黒の袖頭巾を被る。これが彼女の、いや彼女の一族の普段の服装である。

 男にしか見えぬその格好を、朧も類にもれずせねばならなかった。


 全ては、彼女が一族の生まれである為だ。


「支度が出来たか」

 がらりと襖が開けられ父親が顔をのぞかせる。昨日は乱れた様子だった父親も、今日は髪をなでつけて朧同様に黒の袖頭巾を被っている。その所為で表情はわからないが、声色がいつもと違い僅かに強張っていた。

 なにかあるのかも知れない、と朧は身構える。

「今日は共に本殿へ行く」

「本殿、ですか」

 父親に倣って朧も声を固くする。七つの朧にとって、本殿は良い印象の場所ではなかった。もっともっと幼い頃から、近づいてはならぬときつく言いつけられていたのだ。

 不安に思って父親の顔を見上げると、被りの中にちらりと瞳が見えた。厳しい光を湛えた、仕事の時の眼だ。

 身体を小さくしながら戸口に向かう父親の背に続いて足を踏み出した、時だった。


「父さん、朧、何処へ行くの」

 背後から掛けられた声に二人は振り向く。そこに立っていたのは、黒の小袖を身に纏った童だった。その姿はまるで鏡の様で、朧と二人が並んで立てばどちらがどちらか分からなくなる程によく似ている。

あかり……」

 父親が苦虫を噛み潰したような表情で名を呼ぶ。灯と呼ばれた彼は朧の双子の兄であった。兄は父親の渋面にも気を留めず、掴みかかるようにして質問を浴びせ続ける。どこか必死な表情だった。

「ねえ、朧を何処へ連れて行くの」

「灯、お前は家で待っているのだ」

「嫌だ。僕分かっているんだ。本殿へ行くんでしょう!」

 父親を睨みつける様にして灯は叫んだ。小さい身体で何とか父親を食い止める様に袖口を掴んで、兄は必死に声を張る。視線は父親を向いたままだが、言葉は朧に向けられているようだった。

「灯! 黙れ!」

「黙るもんか、まだ力の現出もない朧を外へ遣るんでしょう! 父さんたちは朧を棄てる気なんだ!」

「灯!」

 父親が咄嗟にだろう、腕を振り上げた瞬間にばしん、と強く頬を張る音が響く。朧が思わず目を覆うと、兄の歯噛みするような声が震えて聞こえた。


「朧は忌み子なんかじゃない。棄てられて良いはずがない、僕の、僕らの家族なんだ。──たとえ女でも」


 朧と同じ、七つの兄もまた子供らしくない表情でぽつりと言葉を漏らす。

 彼女が失った長い髪よりも大切な言葉だった。それだけで、彼女は充分だった。

「兄さん、大丈夫」

 朧は袖頭巾を持ち上げながらゆっくりと微笑む。強がりに見えなければ良い、父親や兄に愛されていた、それだけで本当に充分だったから。

「私は外に遣られても大丈夫。もしかしたら幸せになれるかも知れない」

 このまま此処にいるより。

 女に生まれたが故に忌み子として扱われるより。

「だから心配しないで」

 そう言って朧はくるりと背を向けた。決意を兄に示すように、そして僅かな迷いを断ち切るように。

 背後の兄のしゃくり上げる泣き声の合間に、いくな、と呼吸の音がする。それを聞きながら、朧は戸を後ろ手でゆっくりと閉めたのだった。


 父親の大きい手が朧の頭を撫でる。その拍子に朧の目からも涙がぽろりと落ちた。父親に見られたくなくて慌てて袖で擦って前を見遣れば、広がるのは一族の里の風景だ。

 ぽつりぽつりと立つ黒い木造の家屋を覆い隠す様に、深い木々が立ち並ぶ。そこを歩く一族の者たちは皆同じ黒い小袖に袖頭巾を被っていた。まるで隠れ住んでいるかの如き欝蒼とした森の風景こそ、朧が育った里の姿である。

 拭った筈の涙がぼろぼろと止め処なく落ち、朧は袖で顔を隠す。父親には呆れられたくなくてただ両の脚だけは踏ん張って立っていた。

「朧」

 父親が名を呼ぶ。顔は上げられないので、震える声で返事をした。

「私はお前を棄てない。ただ偏にお前の為にだ」

そう言って父親は今一度朧の頭を強く撫でた。

 その言葉だけで充分過ぎる程だ。なにせ父親は掟や任務に対しては決して甘やかさない頑固な男だった。そんな父親がただ一言だけでも朧を気遣ってくれたという事実だけでこの先何があろうと耐えられる気がした。

 朧はごしごしと袖で顔を擦って前を向く。目はまだ真っ赤だろうが、もう振り返る必要はなかった。


 初めて本殿に足を踏み入れた朧は、異様な雰囲気に思わず足を止めた。其処は何かの儀式が行われる場所のようで、窓もない暗い中に薄明かりの灯る提灯が数多くぶら下げられている。赤い光の提灯全てに一族の紋『鬼灯ほおずき紋』が押されていた。

 その場には円を描くように男が六人と、円の中心に一人が座している。六人の男たちはいずれもが皆本家の長たちであった。六人が六人とも鋭い眼差しで朧を見遣っている。

「待たせたな」

 そう言って父親が腰を下ろしたのは入り口の正面、つまりは一番の上座であった。父親は一族の長であったので、それ自体に不思議はない。父親は神像奉る神棚を背にどっかりと胡座をかき、指で朧を差す。座れと示されたのは円の中心の男の隣だった。おずおずと其処へ腰を下ろせば、隣の男が煩しげな冷たい視線を寄越した。

「では此れより、我が里から陽炎かげろう()くにへと派兵する者らの出立の儀を執り行う」

 父親がそう言った瞬間、何人かの男が驚きに目を剥いた。

「何を馬鹿な。そこの朧はまだ七つ、力の現出もまだであろう」

「ましてや女に生まれた忌み子などを送って仕舞えば、陽炎ノ国との信頼関係にも傷がつきかねませんぞ」

 口々に反対の声を上げる本家の長たちの言葉は、まだ幼い朧の心を刃物の様に抉る。


 ──忌み子。

 名を呼ばれるよりも多く、ずっとそう呼ばれてきた。

 男しか生まれぬ筈の一族に生まれた女の赤ん坊は、凶兆の証とも言われる双子の片割れだった。その事実は里始まって以来なかった事で、直ぐにでも処分をとの声も出たという。本家の長たちの声を抑え続けたのは、彼らの頭目であり里の長である父親だった。

 きっと父親にも抑えきれぬようになってしまったのだろう。だから朧は里を追われるのだ、力の現出を待たずして。

 だが朧にとって悪い事だけではない筈だ。

 外に出ればきっと女性だって数多くいるだろう。忌み子と呼ばれ蔑まれて生きるよりはきっと、幸せになれる。


「これは決定した事だ。陽炎ノ国にもその旨既に伝えてある」

 父親がぴしゃりと言い放った事で、反対の声を上げていた長たちは口を噤んだ。一族の長の言葉は絶対だ、分かっていながらも顔付きには皆不満の色を隠していない。

あきらよ」

 名を呼ばれて顔を上げたのは、隣で冷たい表情をしていた男だった。涼やかな顔付きをした、女に見紛うほど線の細い青年である。

 彼の事は朧も知っていた。彼もまた里では有名な人であったのだ。それというのも。

「お前は他よりも遅くに力を手に入れた。確か歳は十七だったか」

 晶がこくりと頷く。

 朧の一族は十一から十二を迎えるあたりに大概の者が不思議な力を手にいれる。その力はそれぞれ違ったものであるが、年の頃には殆ど違いはない。だがこの晶は十七の歳を迎えても未だ力の現出がないとして噂の男だったのだ。しかし陽炎ノ国へと派兵されるというから、きっと力を手に入れたのだろう。

 父親が晶をじっと見つめながら口を開く。

「他の者よりも長く生きたお前だから、分別がつくだろうと思う。まだ幼い朧だが扱いにくい子ではない。宜しく頼めるか」

 晶がまたこくりと頷く。不満の表情ながらも、朧を一度見遣ってまた小さく点頭した。

 彼が此れよりの御目付であろうと、朧がぺこりと頭を下げたが彼は興味もなさそうに目を逸らすだけだった。


「さて、里に出るにあたって守らねばならぬ掟がある。努努忘れるでない」

 父親が胸の所で三本指を立てる。そして一本ずつ折りながら口にした。

「一つ、一族で殺し合わぬ事。敵味方如何によらずだ」

こくりと二人は頷く。それは里に居る時からずっと言い付けられていた事だ。

「一つ、里の情報を漏らさぬ事。里は必ず隠れ里でなくてはならぬ」

これもまた里に生まれた者であれば守っているものであった。そして父親は最後の指を折る。最後の掟は朧と晶、二人だけのものであった。


「一つ、朧が女だと知られぬ事。我ら一族には男しか生まれ得ぬ。要らぬ混乱を招かぬよう隠し通すのだ、良いな」

 二人は一瞬面食らったが、次には直ぐに頷いてあっさりと了承の意を示す。

 女だと明かさぬ事。

 それがどんなに大変な事かまだ幼い朧には分かっていなかったし、彼女に関心を持たぬ晶にも決して推し量れぬものだった。故に二人は余りにあっさりと頷いてしまっていたのだ。


 全てを伝え終わったとばかりに父親は膝を叩いて、声を張り上げた。その声はいつもの任務に厳しい父親の威厳に満ちたものだった。

「我らからは以上だ。各々『黒衣クロゴ』一族としての自覚と誇りを持て、その命尽きるまで」


 今日朧は里を出る。力の現出も待たぬ、七つの事だった。

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