隣国の器
目を開くと、まず目に入ったのは青鼠の畳だった。後ろ手に縛られている所為でうつ伏せに眠るしかなく、頰が畳に張り付いていたのだろう、顔を上げると湿った音と共に痺れが走った。
今はどのくらいの刻限だろうか、と辺りを見回すと障子を透かす日が薄く紅色を帯びている事に気付く。畳に落ちる障子の枠が細長く伸びていた。
「日暮れまで、か」
ぽつりと声に出してみれば思った以上に落ち着いていたらしい、彼にしては遅いな、と心中で毒付く余裕がある。だがそんな朧の胸中など知らずに、転がる朧の側に座っていたらしい君主が嘲るような笑いを漏らした。
「はっ、やはりそんなものよ。たかが兵一人の為に大国の君主が動いたりはせぬ。
……取るに足らぬ小国の為にもな」
彼の顔は自信に満ちて、さも自分の予想通りだと言うように笑っている。どっかと朧の側に腰を下ろし、刻限が来るのを今か今かと待っている。
だが彼の指が、膝が、瞼が、何処か苛立たしげに震えている事に朧は気付いた。
彼はきっと自分を傷付けないだろう。少なくとも約束の刻限、日暮れまでは。その自信があったから、朧は口を開いた。歯に衣着せぬ、煽るような口調だった。
「我が君が動かぬと自信があるにしては奇妙な時間設定ですな。まるで来ぬ事を願っているかの様な」
「まさか。約束の期限がたとえ一月後であっても、我らと対等の会合をもつとは思えぬよ。ただ風花への返答にあまり時間が掛けられぬだけの事だ」
君主は小さく首を振って朧の言葉を否定する。ともすれば激昂されかねない言葉だった筈だが、彼は全く気にした様子はない。
もう少し突いてみるか、と朧は再び口を開く。先程よりも心持ち挑戦的な顔付きと声色だった。
「やはり諦めておられるのですか。乱世の中で一国を張って生きてゆくのは疲れましたか。
風花に併呑され、彼の国の一部として生きてゆけば、それはそれは楽でしょうな。労せずして、貴方は戦勝国となれる」
「ふ、ざけるな。聞き捨てならんぞ赤提灯!」
わなわなと君主は身体を震わせる。腰を上げ、顔を真っ赤にして朧を睨みつけている。その手が側に置いていた刀に伸びるのを、朧はほくそ笑む心地で見留めた。
「殺せばよい。貴方はどうせ我が君は来ぬと信じているのでしょう。ならば今殺すも、日暮れ後に殺すも同じだ。
力を貸せと請いながら、不敬を働く遣いを、さあ」
うつ伏せに転がったまま、ぐいと首を上げ、朧は君主を睨みつけて煽る。
危ない橋を渡っている自覚はあるが、どうしても彼の吐露が欲しかった。流されるだけではない、彼が自分で選んだのだと自覚して欲しかったのだ。
君主は勢いよく刀を取り、鞘を投げ捨てる。きらりと刀身に赤い西日が反射した。
彼が聡慧だと信じるからこそ、朧は首を差し出す。彼がもし本に刀を振り下ろすような凡愚なら、朧もこんな手段は取っていなかった。だからもう一度、朧は挑戦的に言うのだ。
「我が君ではなく、貴方が選ぶのです。風花か陽炎か……その刀を以って」
と。
ふるふると彼の切っ先が揺れる。その度に刀は赤を弾いて朧の眼を刺す。
迷っているのだ、彼も。双肩に乗る隣国の命と、彼の信ずる義を天秤にかけて。それでも義を捨て切れぬ彼だからこそ、この小国は今まで呑まれる事なく生きてきたのだ。
ならば此度も、それを貫かねば。
朧は鋭く睨みつけていた眼を一度ゆっくりと閉じ、そして再びゆっくりと開いた。そして薄く唇を歪めて笑む。
「やはり。だから私は貴方に首を差し出すのです。貴方を見縊っているのではなく、貴方に敬意を表するからこそ」
かしゃり、と鍔が鳴る音が印象的に響く。弾いていた赤い日が、畳に落ちて消えていった。
「ここらが潮時だと、思った。我を通し、民に戦いを強いるには……私はもう弱過ぎる。淘汰されるならば、一番傷付かぬ方法が良いと」
刃先を地面に向けて、君主は訥々と語り出す。声色は掠れて、彼の苦しい心の内を明かす。
それは彼が決断した瞬間だった。朧が求めた、彼の吐露だった。
「貴方の下したその高尚な決断に、風花は応えぬかも知れぬ。そんな危惧がずっとあったのでしょう」
「はじめから、彼の国は我らの事などみては居らなんだ。我らを乗り越え、目指すは陽炎と青嵐。分かり切っていた事よ」
呆れた様に薄く息を吐き出して、君主は天を仰ぐ。刀を手に赤く光りを放つ障子を背にして立つ彼の影絵は、印象的に朧の目に映った。
朧は笑む。天を仰ぎ、何かを堪える様にして立ち尽くす君主に尊敬の意を込めて。
「貴方様の義に、感服致しました。やはり貴方様は聡明な方だ。決断は間違っておりません。
そして我が君もやはり、貴方様の決断に報いる御仁です。そう言ったでしょう」
と朧が言った瞬間、すぱんと勢いよく障子が開けられ、眼を丸くした家臣が顔を覗かせた。開扉の礼も無いのは酷く焦っている所為だろう。
その理由に朧は気付いていた。だからもう一度言う。ゆっくりと笑んで唖然とする君主を見遣りながら。
「言ったでしょう」
◆
眼を丸くして、開いた口が塞がらぬといった表情をしているのは何も隣国の君主だけではなかった。縛を解かれた朧も信じられぬ思いで、上座に座すその人を見詰めていた。
「来いと言われたから来てみれば。何だ、その化けもんでも見たみてえな面は」
してやったりといった所か、蒼樹は髭をじょりじょりと撫でながらにやりと笑う。
三日後の日没が約束の刻限だった。それが不可能に近いのは黒衣の足を以ってしてだった筈だが、今目の前で笑う御仁は紛れもなく人である。やはり化け物を見た心地には違いなかった。
「全くです。どこの国に君主を背負って荷馬の様に走る黒衣がいるのか、教えて欲しいですね」
「逆に、背負われて会合に入る君主もそうそういねえわ」
そして蒼樹の隣、いつもは涼しい顔を崩さない彼の師の荒く上下した肩を見て、朧は胸が掴まれる様だった。不謹慎にも喜ばしく思ってしまったのだ。
彼は全てを理解し、朧の望むままに動いてくれた。危ない橋は渡れぬ、と一蹴されてしまうかも知れない不安は一抹あったが、そうはならなかった。自分で思うよりも晶は朧を大切に思っているのかも知れぬと朧が思い上がるのは致し方ない事であろう。
そんな朧に気付いたか、蒼樹が悪戯な笑みを浮かべ晶を指差した。
「しかし朧、またお前は思い切った事をしたな。晶にくれえは相談しておいてやれ。其奴蒼い顔をして心配して、可哀想なくらいだったぞ」
やはり信じられぬ思いだ。捻くれ者でいつも飄々とした彼が、朧への心配を隠さなかったなどと。
蒼樹の隣の師へ視線をやってみれば、彼は穏やかに笑って朧を見ていた。垂れ目が細く伏せられて、瞳は見えずともその表情は慈愛に満ちている、気がした。
「当たり前でしょう。朧は私の可愛い弟子、見捨てる事などあり得ません」
淀みなくそう言って晶はまた穏やかに笑う。
気恥ずかしくなりそうな言葉を、素直に。
朧は小さく笑んで返し、きゅっと小さく手を握ったのだった。
「さて、私から一言宜しいだろうか」
そう言って腰を上げたのは隣国の君主だった。膝立ちになったまま蒼樹の前まで寄ると、勢いよく頭を畳へと押し付ける。その場に居る全員の表情が強張るのが分かった。
「数多くの非礼を詫びさせて頂きたい。陽炎ノ国の器を験するような真似を……」
「それは違うんじゃねえですか」
平伏して何やら語り出す隣国の君主の言葉を止めたのは、蒼樹の凜とした声だ。決して怒っている訳ではないが、何処か冷たさの篭る物言いだった。
「我らは、風花のようにこの国を呑み込んでしまおうなんて腹はねえ訳です。選択肢もねえような此の期に、疑問を抱き風花に反旗を翻す決断をした其方を俺が、欲したからに他ならねえ」
がっかりさせてくれるな、と暗に蒼樹は言う。これは強国が小国を蹂躙するような協定とは違うのだ、と。
対等に扱ってくれる強国を求めたのは隣国の方であった。それが叶えられた事に気付いたであろう隣国の君主は、やはり顔を上げそうにはなかった。
痺れを切らした蒼樹が、指の節でぱしぱしと畳を叩いて話を始めた。
「建設的な話をしましょうや。我らが手を組んだとて、風花が大きな合併を行うのは変わらねえ。何処かで奴らが慌てふためくような大事を起こして、出鼻を挫いてやらねばならん」
とうとう風花との一戦に話が及ぶのだ。先程まで穏やかな表情をしていた面々は、皆一様に顔を引き締め居住まいを正した。
「慌てふためく、ですか」
「風花と合併し戦を起こすのは遠からずだったのだろう。この国の状況を見ればわかる」
「仰る通り、来たる月初めに風花にて連合軍を結成し宣戦を布告、その後軍を二つに分け陽炎と青嵐に向けて行軍となっている筈ですが」
蒼樹はぱしぱしと畳を叩き続ける。指を何やら動かすのが、彼の考えを纏める時の癖なのだろう。眉宇を寄せ、若干伏し目がちに蒼樹は暫しの間口を閉ざした。畳を叩く音だけが部屋に響く。
一分の間の後、動かしていた指を止めた。そして鋭い、戦の時の眼で部屋の面々を見渡す。
「その期日、その場所で、我らを手引きし風花に刀を向けてもらいてえ」
「つまり貴方が我らに求むるは……」
そこで君主は言葉を切る。世迷言を信じられぬといった様子で、只々唖然としていた。
蒼樹は鋭い瞳のまま、その後を強調するように続ける。彼の野太い声が静まり返る部屋に残響した。
「風花の中心、連合軍のど真ん中で陽炎と青嵐の協定を宣誓し、蜂起する」
騒ぎに乗じて寝返る国も出るだろう、と蒼樹はにやりと笑った。この策がまるで最上の物だと言わんばかりだ。
確かに各国の離反を煽るならば最上──そして最も危険である事にも違いない。だがこれ程の策無くしては強大な風花の出鼻を挫けないのも事実。
悲壮な空気をたっぷりと孕んで、会合の面々はそれぞれ頷き、この案を受け入れたのだった。




