序
影が走る。
ざりざりと枯葉を踏む音を小さく立てながら、鬱蒼と茂る森の中を縫うようにして。
影が起こす風は梢を揺らして木々の合間に光の筋をちらちらと弾かせていた。
黒い影の動きはとても変則的で落ち着きがなかった。それはまるで子犬が外に出られてひどく喜んではしゃぎ回っているかのような動きだ。
違いない。
影自身も、久方振りの外での鍛錬に浮き立っていたのだから。
「遅いよ!」
声を上げて木の幹を蹴り上げれば、小さな身体は易々と宙を舞い、危なげなく梢の先へと足をつけた。がっしりと太い大木の枝は子どもが一人乗ったとてびくともしない。勢いに任せて重力に反するように木の幹を登ってゆくと、茂る葉に遮られていた眩い日光がどんどんと鮮やかさを増してゆく。
「ぶはぁ」
百尺はあろうかという木の天辺まで登りきってみればそこはまるで雲の上だ。
顔についた葉や羽虫を手で払いながら、広大な景色に目を遣る。
眼下には青々と広がる迷いの森。
侵入者を阻む森の果ては、たとえ高い木の天辺から見下ろしたとて窺い知れない。だが遥か向こう、空の青と森の青の交わる間際に薄っすらと見えるのはきっと外の世界だ。
自分が住まう里にはない、なにやら大きなものが幼い心を刺激する。
外には何があるのか。
好奇心と呼ぶには少し切実とした、憧れ。
木の天辺から見下ろすだけでは満足出来ない切望。
いつかそこへ行きたいと思うのに、幼い自分にはどうする事もできない。時間が過ぎるのが酷く遅くてもどかしくて。
「あと何日……」
指を折る。
きっと何度指を折ったところで、その日を数える事は出来ないだろうが。
終わりない思考に耽りかけた時だった。
「何処にいる」
不安がるような声が聞こえて下を窺うと、木の根元でさ迷っている黒い影が見えた。
「おーい、こっちだよ」
返事をすると根元の影はきょろきょろと辺りを見回して、やっと気付いたようにこちらを見上げた。
「危ないぞ。降りて来い」
「嫌だよ。そっちこそ怖がらないで登っておいでよ」
少しだけからかうように言えば、影は不満そうにその場をうろうろと歩き回った。怖がっているのだろう、以前に高いところが苦手だと言っていた事があった。
「大丈夫だよ、助けてあげるから」
身を乗り出して手を差し伸べる仕草をすれば、影は少し迷った仕草の後意を決したように地面を蹴った。
流石に身のこなしは品やかで、危なげなく幹を蹴り続けている。木の天辺辺りまで登りきった影は、いつもは表情の起伏の少ない筈のその顔に明らかな喜色を浮かべてこちらに手を伸ばした──筈だった。
ずるりと嫌な音がして伸ばされた指先が空を切った。
「──あ」
ざわり、と葉が騒ぐ音がやけにゆっくり聞こえる。近づいて来ていた筈の顔が、驚きの表情に変わりながら遠ざかってゆく。
思わず自分も幹を蹴った。
落ちてゆく速さが、酷くゆっくりと感じてしまっていた。