94 潜入①
学校の屋上くらいの高さがあるだろうか。
丸みを帯びた場所もあり、しっかりと足を付けれるところを探すのが手間だったが、無事施設の屋根へと辿り着いた。
眩しさを帯びてきた朝日が足元にある構造物の大きさをあらわにする。
「やっぱデカいな。向島と行った野球場くらいは楽勝であるよな」
ただ広いだけならまだしも階層があるのが痛い。
所々で煙が上がっているのが見える。のんびり施設内を探索できる猶予はなさそうだ。
「……運頼みか」
こればっかりはどうしようもない、と自分の運の良さを信じて屋根に獅子王を突き立て
た。
足元が勢い良く開口する。それから、少し考えればわかることであったが、
「まっ――――」
後先考えずってなもんで、俺は万有引力に従い下層へと落ちてゆくのだった。
進む先、障害となる物はすべて切り払った。扉すらもぶった斬ってやった。
後悔を振り払うように獅子王を振るった。
忘れよう。もう大切なものは失われてしまったのだから。
「だあ、クソっ、買って貰ったばっかなんだぞ。ナイフとスマホ――――――――分けときゃ良かった」
ズボンのポケットには、見るも無残な壊れたスマホがある。
施設屋上から落下し、がつんっと体を叩きつけて苦しむも、床に体を貫くような突起物がなくて良かったと前向きに捉えた矢先だった。痛みが強い場所を弄るとそこに獅童さんから渡されたナイフとジンの鈴、そして、画面が再起不能までに割れたスマホがあって……硬い物同士一緒にしなければ、この惨事は起こり得なったかも。
「ぬがっはっ、だからどうした。桜子待ってろよ、コンチキショウ、桜子、桜子おお」
ポケットの中身はいつでも好きなだけ、幾らでも後悔できる。
俺は通路を濁す煙に涙を浮かべ、桜子の名を叫び駆けた。
人が活動するのには酸素が必要で、酸素が不足すれば人は苦しさを覚える。
俺はその苦しさを大好きな体育の授業でたまに行われる苦行、生徒の不満も顧みず敢行されるマラソンの尺に当てはめていた。
だから、我慢すれば乗り越えられるものだと――――。
更に下層へ降りた俺は、だんだんと濃度を増してゆく煙に追い立てられた。
ここではないどこかで炎が容赦なくうねりを上げているのか、何かが焼け崩れたような物音が、まとわりつく熱気に混ざった。
飛んで火に入る夏の虫の気持ちを悠長に味わうつもりなんてない。下へ降りれば降りる程、危険が増してゆくのは百も承知だ。けど、微かに鈴の音が聞こえたんだ。
桜子も持っていたはずのジンの鈴。
決して穏やかでない状況下だった。幻聴だったかもしれない。でもそこに、向かうべき行き先を見た。
行く手にめらめらと燃え盛る赤い壁があれば、獅子王で内壁を斬る。
すぐさま横へ身を躱し開口。火の気配がないと感じれば切り開いた穴から転がり出た。
鈍い色の煙の下、頭を低くし駆け、また障害があれば獅子王で道を作る。まさに道を切り開いて俺はまっしぐらに進むのであったが。
「はっ、はぎゅっ―――」
喉が痛い。脳が痺れる。手足が重い。
マラソンとは比べようがない程に、体が速やかな酸素供給を欲していた。
俺は獅子王で腹部を貫く。
根本的な解決にはならないが、体を”意志”でコントロールすることによって。二人の自分から後押しされる俺の体は、なかなかにしぶとくなれた。
肉厚の壁の中を這うようにして通ると、これまでとは構造がやや違う場所へ繋がった。
ただ、こっちの期待を裏切り火災状況までは変わりなく、ここも耐え難い熱気と煙で溢れていた。
「右だよな」
通路の腹部にでも到達したのか、緩やかな弧を描く道を二つ選ぶことができた。
真っ直ぐ走っているつもりでも、どうやらふらふらのようで、肩が通路の壁に擦れる。
もうちょっとだと思うんだ。足よ前へ出ろ。
煙で塗られ見通しが悪い視界の中を、通路に沿い走っては歩くを繰り返していると”見通し”が不可能になった。
前方に扉のない壁。考えるまでもなく行き止まりってヤツなんだが……これで良し。
空気に流れが生まれる。
がばっと口を開く壁へ向かって雪崩れ込む煙。合間を縫って新しい空気が俺の鼻をかすめた。獅子王で大きく開けた壁穴からは朝日が射し込む。
「―――ぶはあ、うめえ。闇雲に走り回ってなくてほんと良かった」
屋上からの外観と突き進んで来た道程を基に、頭で地図を描いていた。開口部が外壁側と繋がり、自分が方向音痴ではなかったと命を賭して知った瞬間である。
水を得た魚よろしく、酸素を得て活力を取り戻した俺の耳に、ちりんと鈴の音が届いた。
幻聴と言うのは、意識が朦朧としている時にこそ相応しいものだろう。
――なら、今聞こえた音は正しい。
きっと世の中には、俺に理解できないものが多くある。
それは常に一方的でこっちの都合なんて考えちゃくれない。
だから理解できない俺にできる事と言えば、信じるか疑うかを自分に問うだけだ。
鈴の音が近い。
この壁の向こうから、この壁の向こうに。
側面の内壁へ俺は力強く獅子王を振るった。
円柱状の空間。馬鹿でかいこの施設にあったホール比べれば可愛いものだが、天井は相当の高さだ。
その分煙を貯めるスペースがあって、ここには人が居られるだけの空気がまだあったってことか。
上がる顎を下げてしばし相手の反応を見るも、大きく見開かれた黒い瞳がじーっと見つめてくるだけ。
少し前よりだいぶ汚れた白いワンピースの人影になんか喋れよと思いもするが、話すにしてはまだ遠い。仕方がない……向こうが動かないのだから、俺はそろりそろり歩き近づいて行く。
俺の中にあった約束。
リンネの元へ舞い戻る時、俺が隣に居てやると誓った。そこで待ってろとまで言った。
だから言うべき台詞があって、声も十分に届く距離になって――。
「よう桜子。待たせたな。約束通り迎えに来たぜ」
まるで近所の公園にでも誘うかのように口走った。
自分の顔がどの面下げて言っていたのかわからないけど、俺は真っ直ぐ向けて桜子へそう伝えるのだった。




