90 特別なあてられ②
「スバル君が感じている程、煩わしくもないさ。私達が祖先から受け継ぐ御役目は誇りでもあるからね。あはは、奢りと笑ってくれて構わないよ」
懐かしくも思える軽い笑い声に、御子神獅童ではない獅童さんを垣間見た俺は、言うように笑うでもなく、
「壬夜兎を、いや壬夜兎の災いってどうなるんです」
代わりに、先を急かした問いをぶつけていた。
獅童さんの話がどこへ向かっているのか。繋がってゆく思考が言葉を待っていられなかった。
獅童さん達眷属は、壬夜兎が封じられた事で今にある。
見方を変えればこれは、眷属の存在が壬夜兎を現実のものとし、眷属の存在意義が壬夜兎なる鬼が今の世に蘇る可能性も示唆している。
遠い昔、この地に降り立った災い壬夜兎。
災いと聞けば有無も言わせず遠慮したいが、獅童さん達はこれを背負う定めにあった。
俺は知るべきだろう。向き合う相手の覚悟を。
「……文献によれば、時の帝が壬夜兎討伐の命を下し、千の猛者を集いてこれにあたるが、天を裂き地を割る壬夜兎の曼陀羅にて一昼夜の後すべて討死に、壬夜兎は彼の地に鬼の長として国を治めた。とあるね」
「人は昔、鬼と戦って負けたの……か」
「実際に壬夜兎がどれ程の、災いと呼べるものを人にもたらしたのかははっきりしない。けれども”あてられ”を知る者としては大袈裟でもなく、壬夜兎の蘇りはこの街だけに留まらず、世界をも混沌へと誘う災いと為り得る。そう考えているよ」
「獅童さん達は……世界を背負うんですね」
俺の呟きに獅童さんは瞳を閉じるだけだった。
覚悟の大きさ、重さを知らしめる為。俺が桜子を諦める為。それとも獅童さんが己を納得させる為なのか。
真意はわからないが、わかり得たものは多い。
「獅童さん達には、桜子を諦めてはいけない理由と諦めなければいけない理由がある。獅童さんは言った、祖先が名とともに壬夜兎の力を残したと。これは壬夜兎を封じる為仕方がなかった。結果的に”あてられ”が存在している訳だけど、獅童さんのご先祖様が眷属に残した”あてられ”は、御子神家が時に百捌石へ還す”アテラレ”とは違う特別なもの」
そう。
「――還せない”アテラレ”の事だ」
施設ホールで登城家の黒服と対峙した時だ。
銃を向けてくる相手にジンは、桜子が撃たれる事はないと言っていた。相手は桜子の命が尽き、”アテラレ”が還る事を良しとしないからだと。
俺としちゃ同じ”アテラレ”関係者、眷属の者同士だからってだけでも十分な理由だったけど、ジンの言っていた事の裏付けがここにある。
「”アテラレ”には還せるものと、還せないものとが存在している」
桜子はその還せない『天之虚空』を宿していた。
俺の瞳は先にある抜き身の獅子王を。そうしてまた獅童さんの立ち姿を映す。
「獅童さん、なんて言えばいいか……還せない”アテラレ”は鬼の源、力の結晶のようなもので、もし百捌石に還るような事になれば……壬夜兎が力を取り戻す。だから還らないのではなく、還せない」
「……確かに私達が淵源を冠して称する、”あてられ”は在り、”あてられ”の根源でもあるとされる淵源をスバル君が考えるように、壬夜兎を成す力と捉えても差し支えないだろう」
間を取るような呼吸の後に、言葉は続いた。
「淵源の”あてられ”を百捌石へ還さない事で、壬夜兎を封じられているのは事実だ。壬夜兎を成していた力、曼陀羅があっては抑えられないからこそ、祖先はその力を奪ったのだからね」
エンゲンの”アテラレ”、壬夜兎、曼陀羅か……。
壬夜兎の眷属は、災いを招く鬼を蘇らせない為にも『天之虚空』を百捌石へ還せない。還してはならないからこそ、桜子の安否は必要とされる。
理屈はどうあれ、獅童さん達にとって桜子の命は重い。
面白くないにしろ、この事は俺を後押してくれるものだが……。
「そのエンゲンの”アテラレ”の一つが『天之虚空』だから、本当なら獅童さん達は何がなんでも桜子の命を守らなきゃいけない。そうですよね」
「桜の『天之虚空』を……だね」
獅童さん、その言い方は俺をイラつかせるだけですよ。
「……桜子を諦めてはいけない理由がこれになります。けど俺は同時に、そんな獅童さん達だからこそ桜子を助けに行けない、諦めなければいけない理由もはっきり見ました」
――エンゲンの”アテラレ”は『天之虚空』一つだけじゃない。
三家が代々受け継ぐ、特別な”アテラレ”――。
登城の爺さんの『万物流転』、獅童さんの獅子王も還せない”アテラレ”のはず。
『天之虚空』と同等に還る危険は犯せない。
「そう言う事だね。……私の話に耳を傾けた事、後悔しているかい」
「後悔はないですよ。食い下がれるものにはとことん食い下がるつもりでしたから。言ったでしょう、俺は桜子を諦めないって。その為には吠えるだけじゃどうにもならないって知ってます」
とは言ったものの、獅童さん達の自分達が背負う定めと生きる意味。それを尊ぶ覚悟と重みを知ってしまえば、歯痒さしか残らなかったし、獅子王の拘束も解かれずじまい。
そればかりか、エンゲンの”あてられ”に限って言えば、相変わらず手札が無い俺とは違い、獅童さんは手札を持ち使っていた。
身社。
桜子の命が尽きた時の対策は、既に講じられていた。
俺に対する風向きはすこぶる悪いままだ。
けど諦めたくはない。せめて体の自由くらいどうにか……。
「悪いけれど、スバル君にはもうしばらく大人しくしていてもらうよ。私達の意志を乱すような事は遠慮して欲しいからね」
「なら――いや駄目だ。それだと、くっ」
「それだと、身社を認めてしまう事になるから」
獅童さんに遮った言葉の後を言われてしまう。相手の心を読める獅子王の力……やりずれえ。
身社は身社になった人の元へ”あてられ”が還る。
眷属には”アテラレ”を扱う技術がある。”移し”や”身社”みたいなのは、エンゲンの”アテラレ”があったから生まれたものかも知れない。
成り立ちともかく、百捌石へ力を還さない手立てである身社は、桜子の”あてられ”だけではなく獅子王の危機回避にも繋がる。
でもそれは……獅童さんの命より獅子王を優先させた提案になり、そのまま桜子へ言い換えられる。
俺は眷属の意志に抗わないといけない。
そんな俺が、身社を認めてはいけない。
「ぐぬう……」
「苦しむ君を追い詰める訳ではないのだけれども、”あてられ”は一人の身に一つしか宿る事はない。身社を立てた今、獅子王だけでなく他の力が還る事態も私達は避けなければならない」
「それぐらいっ――獅童さん達が協力出来ないのはもう嫌って程わかっていますよっ。だから俺が、俺だけでもあいつの所に行かせて下さいって、そう言っているじゃないですかっ」
「仮に桜の元へ辿り着けたとして、君に何が出来る。……桜も君の死は望んでいない。君の迂闊な行動が、かえって彼女を苦しめる事になりかねないのだから。スバル君、受け止めなさい」
すうっと逸らされる視線。獅童さんが俺から身を返す。
この瞬間、数分、数秒後にあるはずの自分を見失った。桜子を追いかけていた自分が見えなくなった。
絶望感ってヤツなのか。
嫌だ、やめろよ。俺は絶望なんてしていない、諦めていない。
「待ってくれ、待ってくれ獅童さんっ」
見えている以上に、獅童さんの姿がぐんぐん遠のく。
「根拠なんてないっ。けど行けば俺は桜子を助けられる。絶対だ。絶対にだっ。俺は死なないし桜子も死なないっ。だからお願いだ、俺を――頼むから俺を行かせてくれっ。でないときっと俺は……俺は、あなたを一生――」
「恨んでくれても構わないよ」
背中を向けられたままで告げられ、頭の中でも囁かれたそれは圧倒的な質量で俺の心を押し潰した。
肉体と精神が混乱していた。唸りを上げていた。獣になって吠えていた。何を口にしていたのかなんて覚えちゃいない。
「何をしているっ。兄様っ。後ろです背後に――」
京華ちゃんの叫び声で我に返ったのか、その時に京華ちゃんが叫んでいたのか。
手放していた自分の時間を取り戻した直後、体から蜘蛛の糸が纏わり付いていたような感覚が消えた。獅子王の支配から解き放たれていた。
それからの一瞬は目まぐるしかった。
京華ちゃんが声を飛ばす先では、獅童さんがさっきまで見えていなかった男ともつれ合っていた。
獅子王が地面に投げ出される。そこへ、ふっと軽くなった体を飛び込ませた俺は、間髪入れずに拾い上げた獅子王で、側の二人をまとめて薙いだ。
人体を通して死角からの一閃。さすがの獅童さんもこれを避ける事はなかった。ただ、俺に二人同時の支配は難しい。獅子王の意識を一つ消し、獅童さんに絞る。
一連の出来事を振り返る俺は、もう後には引けないなと決意を固めていた。
見た先には身構える京華ちゃん。仮に取り押さえられるものとして、普通の相手なら一拍以上の猶予がありそうな距離だが、彼女の素早さは侮れない。それに周りへの注意も怠たっては駄目だ。
俺の目は、すべてを牽制する。




