89 特別なあてられ
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獣のように唸る俺がいた。
このまま衝動に駆られ吠えてしまえば、満足だったろう。
けどそれで何が変わる。鎖に繋がれたままの獣に何が出来る。
自分とせめぎ合う。
「桜子を……見殺しにするつもりですか」
側から立ち去ろうとする獅童さんの足が止まる。
見せる顔は――もっと歪んだものであって欲しかった。
「私達は出来る事をやるまでだよ」
「それを見殺しって言うんですよっ。いい加減にしてくれ獅童さん、あなたは正しいけど間違っている。俺達は桜子を助けに向かうべきなんですよ。答えは出ているっ。なのにあなたは、あなたが桜子の命を奪おうとしているっ」
「池上殿っ」
打ち付けるような短い声の後、頬が痛んだ。振り抜かれた手。
どこからともなく、獅童さんとの間に割って入ってきた京華ちゃん。
その鋭い眼は、ぎっと俺を睨みつける。
「兄様や私達が、本当に桜子の身を案じていないとでも思うてかっ」
「京華、やめなさい」
「いいえ兄様、云わせて下さい。兄様や私はっ、出来るものなら今すぐにでも桜子の元へ駆けつけている。しかれど、しかれどそれが叶わぬのだ。我々は決して獅子王を失ってはならない。決して『獅子童子』を還してはならない。このもどかしさ辛さ……池上殿には分かるまい」
押し殺し、それでも漏れ出る感情が言葉の節々に表れていた。
いつになく力強い、けれどどこか深い色を見せる京華ちゃんの眼光。
そこへ呼応するかのように、周りの想いが集まっていった。敏感になっている感覚が難なく察してしまう。
京華ちゃん、俺だって何も知らないままじゃないんだ。なんとなくだけど感じてはいたさ。
もしも施設内で獅童さんが倒れる事があれば、獅子王は燃え盛る炎で灰と化す。刀身は虚ろでも、”アテラレ”の器自体は実体を持つ。
灰になれば、獅子王に宿る”あてられ”は百捌石に還る。
獅童さんや京華ちゃんは、この事を何よりも恐れていた。
京華ちゃん自身も、きっと自分に宿る鏡眼を枷に感じているんだろう。
けどさ、だからなんだ。だからどうした。
「もどかしいなら、辛いなら、自分の気持ちに素直になればいいっ。俺は獅子王が大切な物だって知っているさ。京華ちゃんの生死が、ただの生き死にで済まないのも知っているさ。それでも、それが桜子を諦めていい理由になんてならない。俺は認めないっ。なんでこんな所で足踏みしてんだよっ。なあ、そうだろ京華ちゃん」
俺の胸ぐらを掴む京華ちゃんが、ぎりぎりと奥歯を鳴らす。
彼女の中では言葉も言えない程に、感情が高ぶっているようだった。
「京華、下りなさい」
強く掴まれていた胸ぐらが緩む。
「スバルくん。私達が壬夜兎の眷属と呼ばれているのは知っているかい」
獅童さんが京華ちゃんの激情を冷ますかのように、静かな喋りで静かに前を横切る。
「……ジンが、獅童さん達の事をそう呼んでいました」
「壬夜兎とは遠い昔、この地に災いをもたらしたとされる鬼の名で、その鬼を封じたのが我々の祖先だと言われている」
どういう意図なのか。
疑念を抱いて――考えるのやめた。獅子王の支配下にある今の俺がどうこう思案したところで、獅童さんには筒抜けだろう。
何を言われようと俺は桜子を諦めませんからね。これだけを強く思い、耳を傾けた。
「壬夜兎を封じた祖先はその名を分けた。名は力を帯びる。私達は代々登城、柳、御子神の名を守る事で今も祖先の意志を受け継いでいる。私達が壬夜兎の眷属と呼ばれる由縁でもあるだけれども……祖先は名の他にもあるものを残した」
「あるもの……それって」
「私達が”あてられ”と呼ぶ、今も脈々と続き衰えることのない壬夜兎の力だ」
「壬夜兎、災い……。鬼の力が”あてられ”なの……か」
いいや、兎鬼、紅い眼、常人ならざず力……”あてられ”が鬼の名に相応しい禍々しいものなんだって、俺は薄々どこか気付いていた。
でもなら、どうして壬夜兎の力を、災いを払った側の獅童さん達のご先祖様がその力を残すんだ。
”アテラレ”が元で、”アテラレ”があるから、獅童さん達眷属は悩まされていたんじゃないのか。
「”あてられ”は忌むべきものだよ……。壬夜兎の力が強大だったのだと思う。祖先は滅する事叶わず、名と力を奪いそれらを分かつ事で壬夜兎を封じた。言い換えれば封じる事しか叶わなかった。だから鬼は今も生き、”あてられ”も存在している」
鬼を封じた。鬼が生きている。
まるでお伽話だが、俺の物語に”アテラレ”は在って、なお且つ ”アテラレ”を生み、”アテラレ”が還るものが在る。
「”アテラレ”の元、百捌石って……もしかして壬夜兎って鬼にまつわる、違う……壬夜兎そのものなんだ」
「百捌石は現世に残る壬夜兎の一部――鬼の眼だと言われている」
見た事もなくどこに祀られているのかも知らない物に、背筋が少しばかり凍りつく。
「恐ろしいのは、その姿にあって壬夜兎が壬夜兎で在り続けている事だ。百捌石は今までも、そしてこれからも人を己の分身たる兎鬼へと化す為、力の片鱗を”あてられ”という形で人々に宿し喰らう」
「でもそんな事にはならない。獅童さんや京華ちゃん、御子神家の人達が兎鬼化の前に宿主から”アテラレ”を還すから」
「未然に防ぐのも私達の役目だからね。御子神は鬼をいなし狩る。その為に登城は財を成し眷属の後援を担う。柳は眷属を取りまとめ諌める立場に在る。私の家だけでなく、三家が各々役目を継ぎ頑なに壬夜兎からこの街を守ってきた」
『守ってきた』――か。
途方もない時間の歩みがあり、重さがあるのだろう。
言葉は噛み締められた。向けられた眼差しは俺でない何かを見ているようだった。
桜子……京華ちゃんや登城先輩。俺と同じ街で暮らし、同じ時間を過ごしているはずなのに、住むんでいた世界は違う。
街では壬夜兎の眷属と呼ばれる人達が、人知れず戦っていた。
長い長い時を経ても戦っていた。
それは、元凶である壬夜兎が今もその力を振るっているから――。




