88 脱出④
――どうしてだ。何でこんな事態になってる。
地面から見上げる先、施設出口から吐き出される大量の煙が晴れない。
何もかも、突然押し迫って来た煙に飲み込まれた。
そこに危機感がなかった訳じゃない。
火事に見舞われている最中なのだ。こんな場所に残る事がどんなに危険かはわかっていた。
それでも、俺を含め周りは事態の終わりを見始めていたんだっ。
なのに、だから――――っ。
「どうにかしろよっ、俺わあああっ」
俺は四角い大きな施設出入口で、まだかまだかと消防車を待つ。
状況に待てる余裕があった。
火災現場である施設はとにかく広く大きい。この事が幸いした。実際には燃え盛っている火の手も、出口付近に差し掛かかれば見る影も形もない。時間が経てば自然と鎮火してくれるのではないかと思える程だ。
しかし、肝心の消防車の方は条件が芳しくないようだ。
火災現場は山の中。道はあるらしいが考えるまでもなく平地とは勝手が違う。要請すればすぐに消防車がサイレントともに駆けつけてくれるものでもない。おまけに、ただここを目指していては辿り着けないときている。
原因は、迷惑千万な迷子になる”アテラレ”。
この点は、麓にいる御子神家の人が案内をする算段になっていた。
ともすれ、この居心地の悪い時間とは当分付き合わなくてはいけなかった。
桜子に釣られるようにして、表へ向け顔を上げる。
四角い大きな口から望む外では、朝日が木々に付く暗がりを払って、山に緑の色彩がある事を教えてくれていた。
その景色の中に一歩、あと一歩踏み出せば飛び込めるが、見えない壁が桜子、いや俺達を足止めした。
施設出口。傍らの桜子はここと外との境界線を越えられない。
”アテラレ”『天之虚空』の制約である。
越えてしまえば、またここまでの道のりを逆戻りばかりか桜子本人にも、建物のどこへ転移させれるかわからないと言うのだからから質が悪い。
「おお、変な虫がいる。やっぱりいいのだ。いつも見ている景色と違う景色は、眺めているだけで楽しい」
「なあ、もうちょっと離れた方が良くないか」
「大丈夫だ。スバルが思っている程、私はおっちょこちょいな人間ではない」
俺は身を乗り出すようにして外をのぞき込む桜子のワンピースを掴む。
だって、桜子の片腕が消えているんだもの。消えた腕がどうなっているのか気にもなるが、何かのはずみで全身がのめり込まないかと、それどころではない。
「桜、もしもの場合がある。大人しくこっちで待っていなさい」
後ろから掛かった声に、桜子はひょいと身を返して、言われた『こっち』へ移動した。
お前、獅童さんの言う事は聞くのな。
「まあ、いいや。それで、どうでした?」
「ああ、奥の通路は塞いだよ。獅子王で壁を押し寄せ合わせようと思っていたのだけれども、防火シャッターがあってね。後は通気口をどうするかだね」
念には念をって事か。
俺達の方が身動きが取れない以上、危惧の元である火を消すしかない。
でもそれは、御子神家や獅子王の力を以ってしても難しく、現状専門である消防隊の力を借りる他なかった。
その事に変わりはないが、獅童さんは言っていた、火災に於いて厄介なのが煙だ。煙は炎より足が早く、人の呼吸を奪うと。
だから桜子の安全をより高める為、こうして措置を施していた。
御子神家の男達と獅童さんが広いフロアを見回る。
その間俺は、桜子の話し相手を務める。これが俺の為すべき事。
時間が経つにつれ、現場の緊張と慌ただしさは次第に薄らいでいく。
変化のない状況が安心に繋がり、時が流れればそれだけ消防車がここに近づいている。
それに、気持ちの緩みは俺だけではなかった。
一段落終えた獅童さんが、建物内部では携帯が使えない以上、桜子をどうやって柳邸に送り届けるか、と俺達に相談した。
獅童さんの頭の中ではもう、無事な結末が見えている事が伺えた。
俺は心がすうーと軽くなって、体が重くなる。
家に帰ったら風呂に入って、だはーとベッドに潜りたい。獅童さんのお陰でそんな事を考えていた。
その時だった。連続した音が弾け建物が揺れる。
音は遠い。
「まだここには、爆発するような物があるようだね」
物言いは柔らかいが、獅童さんの顔は硬い。
フロアに居る誰もが不穏な気配を取り逃がすまいと動きを止める。
そうしてしばし。落ち着きを取り戻した時間の流れに、心を緩めようとした瞬間またも不意な音。
今度はさっきより近い。
幾分遠のいていた緊迫感が一気に戻って来た。
「兄様っ何事です」
京華ちゃんが表から飛び込んで来て、立ち止まる。
誰も何が起きたなんて知る由もない。
張り詰めた空気が続く。何も起こらない。いや、何かあっては駄目だ。
何に注意を払っていいのかわかないまま、誰もが奥の方、先に伸びる通路をのぞき見た。
俺も目を凝らすが、男達の背中が見える以上にその先は暗く見えない。
そして、生暖かい風が俺の頬を撫でいった。
なんだ今のはと思った頃、前方から得体の知れない大きな大きな――全ての隙間を塗り潰すような質量の――煙が襲ってくる。
何も見えない。息が出来ない。飲まれた。煙に飲まれたんだ俺。
身を返し、外へ転がるようにして飛び出す。
「ごほっ、ぐごっほ。なんだ何が起きた」
四つん這いながら施設側を振り返る。
出口いっぱいに灰色の煙。煙に交じり人影が一人、また一人。
「桜子、桜子っ。くそ、くそくそ――」
煙が晴れねえっ。どうする、どうにかしろ俺。桜子が飲み込まれたままなんだよっ。
このままじゃ、このままじゃ。
俺は立ち上がり煙の中へと、桜子の元へと駆け寄ろうとする。しかし、体が意志に反して後退した。
「獅童さんっ」
獅子王が俺の自由を奪った。
「京華っ確認したい。ユイは今も”身社の義”に在るか」
「――は、はい。桜子の事がありましたので、その旨は伝えています。ただ、私の判断で……申し訳ありません。ユイ姉には、宗司様の件が解決をみた事を伝えております」
「ならば至急、念を押して身社に万全を尽くすように伝え、身社の義を執り行いし者には、御子神獅童の名代であるとして立たせよ。登城、柳の者からの言葉に耳を貸す必要はない」
その背中は振り返らない。獅童さんは京華ちゃんと話す。
体の向きに逆らい見る。もくもくと吐き出されていた煙は収まりつつあった。
「獅童さん、獅子王を、獅童さんっ」
俺の叫ぶ声は届かない。まるで届かない。
あちこちから人の声が飛び交う。一瞬にして騒然となった場の中、獅童さんが先立って統制を図っていった。
各々が指示に従い、直面した事態に備えようと動いた。
けどそこに俺の望む光景はなかった。
どうしてだ。気付いていない訳ないだろ。まだあの煙の中に桜子が居るんだぞ。なんで誰もあそこへ手を差し伸べようとしない。
俺はあの中に、俺があいつの元に。早くしないと本当に危ないんだよ。あんなに煙が充満したんだ、息が出来ないだろ。
「獅童さん応えてくれっ。俺の体、早く獅子王を解いてくれっ」
「……そうしたら君は、あの中へ駆け込んで行く」
やっとこっちを向いてくれた顔は、俺に冷静になりなさいと言う。
「わかっています。俺が危険だって、行ってもどうしようもないって。でもそれでも、俺、あそこへ行きたいんですっ」
「スバルくん。桜は今、あの場所には居ない。自分の意志なのか、そうでないのか定かではないけれども、煙に飲み込まれた時、桜は確実に出口の境界を越えた。私が言っている意味、君なら分かるだろ」
「ああ……そうか。……良かった」
一先ず、一先ずなのだが。
言葉が考えるよりも先に漏れた。
「なら獅童さん、探さなくちゃ、桜子を探さなくちゃ。こうしている間にも――」
桜子は『天之虚空』であの煙から逃れた。けれども火災から逃れられた訳ではない。
きっと無事だろうが、今も危険に晒されている。
早く見つけてあげなくては。
「スバルくん。桜子の捜索は行わない。いいや、出来ないと言った方が正しい。施設内は予想以上に危険な状況だと判断した。先程のような現象がまた起きるとも分からない。我々は消防を待つ。それが最善だ。もし桜が生きているなら……自身で身を守ってもらう事にする」
耳を疑う。
「獅童……さん。何言ってんっスか。意味わかんない……ですよ。もし桜子が生きていたらなんて考える必要はないでしょ。生きているに決まっている。俺達が信じなくてどうするんです」
獅童さんは俺と一緒に桜子を探す。それ以外の事なんてないのに。
強い意志の塊のようなものが、獅子王の支配下にある俺の体を突き抜けた。
「今は希望ではなく事実を見極める事が大切だ。現状、桜は命を落とす可能性の方が高い。そしてその可能性は、桜の元へ近づこうとする者全てに付き纏う。これは分かってくれるね」
「だからだからこそ、獅童さんが諦めたら駄目なんだっ。獅子王の力があれば桜子の元へ行ける。そうでしょ?」
なんだか意識がぐらんぐらんと揺れる。
声でもないざらざらとした音が、頭の中で鳴った。
「スバルくん……私も君と同じただの人だ。炎や煙に巻かれれば命を落とす。獅子王の力があっても桜を探し出せるとは限らない。仮に生きている桜を見つけ出せても、桜があの場所から逃れる術はない。それでもスバルくんは私に、あそこへ行けと言うのかい」
「違う、そうじゃなくてっ。たぶん獅童さんは……正しい、正しいんだろうって思う。けど俺の知っている獅童さんは、それでもどうにかしようとする人だ。俺に力を与えてくれる人だ。だから獅童さん、それは……俺を裏切らないでくれ」
「君は私を買いかぶり過ぎだよ」
冷たく突き放されるような一言だった。
わかってはいる。獅童さんはどこまでも正しいって。自分の感情をぶつける矛先も間違っているって。
「なら俺はもう、獅童さんを頼らない。お願いです、獅子王を解いて下さい。なんと言われようと俺は桜子を助けに行きます」
「君はその命を、桜の為に捨てるの気なのかい」
「捨てる気はありませんよ。でも覚悟はあります。獅童さんがどう思おうと俺には命を張る覚悟がある。この覚悟を……あなたの優しさに巻き込まないで下さいっ」
「スバルくん、君の周りにはその覚悟で悲しむ人達がいる。君の命は君一人のものではない」
獅童さんの言葉は、俺に家族の顔をちらつかせた。
それで俺の気持ちが揺らぐ事はない。
だから余計に、行き場のない苛立ちが募る。
「っ……卑怯ですよっ」
「ああ、私はいつだって卑怯者さ」




