77 壬夜兎の眷属②
「スバルっ」
桜子の叫びが、ホールに響く。
吹っ飛び壁に叩きつけられた俺の耳に、幾度目かの俺の名。
「し、心配すんな……大したことねーよ。はあっ、次は大丈夫だから」
とは言ってみたものの、打開策はまだ見い出せていない。
殴れど殴れど登城の爺さんに、軽くあしらわれるばかり。
同級生の鮫嶋君が以前話していたが、日本の武道に相手の力を利用して攻撃へと転じる合気道なるものがあるそうだ。
熟練者になると軽く触れただけで、襲ってくる相手を投げ飛ばしたりできるらしい。
殴りかかる俺の拳に爺さんの手が触れると、俺はふっ飛ばされる。客観的に見たら合気道とやらの達人に立ち向かう輩が、その技によっていなされている構図となるわけだ。
だがしかし、投げられる輩の方としては、明らかに武道のなせる技を越えたベクトルが働いているのを、身を持って感じのである。
このままじゃ埒が明かない――が、俺もただの馬鹿じゃない。
ぶん投げられ、床や壁に叩きつけながらも、爺さんとの位置取りを見計らっていた。
ホールほぼ中央に登城の爺さん、その真向かいに俺、俺の斜め後ろに桜子。
「ぶん殴れねーのは癪だが、仕方ねー」
今が好機だと判断、
「桜子っついでに武田。とりあえず逃げるぞ。俺の後ろの扉に走れっ」
選択肢”逃げる”を発動させる。
俺の一番の覚悟は、桜子を守るだ。
眷属だから桜子の命の保証はある。けれどそうじゃない。『桜子を守る』はあいつの側に一緒に居てこその守るだ。桜子もそれを望んでいる。なら逃げるでも、俺の自尊心なんてものは傷つかない。
「スバルでも――」
「わかってる、無理はしない。後で俺も一緒に逃げる。お前足が遅いから、俺が少し時間を稼せがないとな」
冗談が言えるくらいには余裕があるんだぜ、ってところを見せたかったのだが、ちらっと見た桜子の頬の膨らみからすると、誤解されたようだ。
なんとなく桜子との間に以心伝心を感じていたから、ほんのちょっぴり切ない。こういうのは伝わらないのね。
背中が、だだだと駆ける気配を察知する。
「スバル、早く私を追いかけて来るのだぞ。私の本気は侮れないのだ」
「ああ、靴下なんだから無茶するなよ」
振り返らず桜子に応えていると正面、登城の爺さんが腰を落とし床に手を添えていた。強烈な眼光。その目は紅い。
「逃げの手を講じるとは、如何にも愚かしき者と言うたところじゃのう」
『万物流転』。爺さんの白い髭が微かに動き発せられたこの言葉で、異変が起きる。
体中の血液が引っ張られると言うか、ぞわぞわっと――
「なんなのだ、足が滑るのだ」
「あああの変ですよ、なんか変ですよっはあ体があ――」
「ちょっ、ぬお」
壁が迫ってくる。いや俺が壁に向かっている。違うこれも正しくないっ。
壁に引っ張られる。そんでもってこの感覚は、
「壁に向かって、落ちているのか俺っ」
背後から衝撃が突き抜け、呻く声は音を奪われる。息もままならない程に痛い。
痛みに慣れる間もなく、壁に打ち付けられた俺の顔面に紺色の影。ホットパンツが降ってきた。
「ふぐっ」
とっさに両腕を突き出すが支えきれず、頭部をリンネの尻と壁に挟まれてしまう。
「……どいてくれ」
リンネを押し転がす。
と、やや離れたところから呻き声が聞こえた――と思ったら、耳をつんざく男の甲高い悲鳴。武田が喚く。
ソファや鉄板、木片や破損して原型がなんだったのかわからない残骸が、俺達が張り付く壁に向かって飛来してくる。それらは、桜子が”あてられ”でどっかからここに持ち込み、登城の爺さんになぎ払われた物達であった。
「だあ゛、くそったれ」
俺は壁に張り付いたまま、同じく張り付くリンネに覆い被さる。
ドンとかガシャンなど、飛来物が衝突音をまき散らした。
ホールの広さに救われたのか、俺の運がいいのか。幸いにも傷ひとつ負うことなくやり過ごせようだ。顔を上げ、物をホールに持ち込んだ張本人を目で探す。
「あうう、腕が辛いのだ」
俺が居る長さが短い方の壁の側面中央、桜子が開かれた扉の取っ手を両手で掴み、足をバタバタさせていた。
ここからすれば、取っ手の棒にぶら下がる桜子なのだが、常識的尺度なら、扉と垂直になり万歳する少女は、宙に浮いているように見えるのではないだろうか。
ただしホール内は、その常識が通用しない状況化にあるようであった。
「先輩っスバル先輩っ、おおお爺さん、お爺さんっ」
「うげっ……マジ……か」
四つん這いの俺の足がホール天井、頭が床に向いているから、頭に血が”上る”が正解じゃないのかよ……。
『万物流転』で変えたものがなんなのか、わかりかけてきていたところに、屈み片腕を挙げる登城の爺さんを見て、血の気が引く。
手の平の上には、大きな大きな鉄の塊。ボイラー室から転移させられていた円筒のタンクだ。
危機感がそうさせるのか、俺の頭脳が明晰なものへと変わっていた。
「爺さん、重力だろっ。あんた”あてられ”で重力が”作用する向きを変えた”」
もしそうなら、ニュートンも真っ青な所業だよ、こんちきしょう。
頭上にてプレッシャーを与えてくるタンクは、恐らく”落下”を”停止”に変えて留めている。それをまた”落下”に変えられたら、変えられている重力に従い、タンクは俺が床にしている壁へと落ちてくるだろう。
「ほう、儂の力を知り動じぬばかりか見識を得よったか。小童よ、そちは宿す者か」
「お生憎様、俺はそこら辺にいる普通の高校生、あんたらの言う一般人だよっ。”アテラレ”なんて宿したことも使ったことねー。けど最近できた友達のお陰で、こっちとらアテラレ耐性がついてんだよ」
「ならば、故に小賢しきかな小童よ」
どうする。自分で言ってなんだが、俺って本当にただの男子高校生で、スーパーマンでもミュータントな人間やカメでもないんだぞ。
まかり間違っても、あんな鉄の塊を受け止めたりなんてできやしない。
ならば一択、リンネを担いで全力回避あるのみ。
がっと肌を見せる細い腰に、両腕を回す。リンネはどちらかと言えば小柄だ。けれども、眠る人の体は予想以上だった。
「重っ」
「娘を失いとうはないが、致し方あるまい。所詮は壬兎鬼に代わる器と成れなんだ者。その憐れみは儂が負ってやろうぞ」
動けないまま爺さんの言葉に反応すると、大きな物体が”落下”を始めていた。
踏ん張る足、腕、首。リンネを抱き抱える。足は引きずるようにだが、動く――が走れない。
脳天が否が応でも感じる。重圧を纏う圧倒的な存在感が、俺を襲ってくる。
刹那、視界の隅におかしな物を見た。壁から――剣!? が生えていた。




