75 覚悟
奥から紋付羽織袴のお祖父さん、拳銃を手にする狐目の女、床に俯せで転がるジン。
それらを収めたまま、視界が薄れ遠のいていくような感覚にあって、確かな左手の締め付けを感じた。
「おじさん血、血っ」
桜子からジン……それからまた桜子へと目を配る。
俺の手を強く握ってくる桜子はただ一点ジンを見つめ、おどおど怯えている様子だった。
「桜子……桜子」
ただ名前を呼ぶことしかできない。
大丈夫の一言も言えない。
俺がしっかりしなきゃと思う。けど時間が欲しい。今は時間が俺を次に進めてくれる気がするんだ。すがるのがそれしかないんだ。
「お願い。お願い手を離さないで。でないと私、私は」
「……わかった。大丈夫だ桜子」
たったこれだけなのに、絞り出してようやくだった。けど言えた。
その瞬間、自分の足が大地をしっかり踏みしめている実感がわき、俺は正常な時間の流れの中へと回帰する。
桜子は棒立ちで、音が聞こえるくらい呼吸を荒くしていた。
「桜子お前、本当に大丈夫か? なんか――」
心配も束の間、側にあった気配で自分の身の危うさを思い出す。
「桜子様から離れてもらおう」
ゆっくり、ゆっくりと声の方へ顔を向ける間に、いろいろ考えた。
不意をついて思いっきり飛びつき拳銃を奪おうとか、カンフー映画のように拳銃を蹴り上げてやろうとか。
ジンとのやり取りを見るに、黒服女の”銃声”は”消えない”。消える音を許さないとの宣言がそれを可能にしたようだった。
「……くそ」
狐目がしっかり俺を見据え、拳銃もしっかり向けられていた。間合いはタックルも蹴りも可能なくらいに近い。
でも、何もできなかった。体が動いてくれなかった。そんな自分に苛ついた。加えて、
「何が可笑しい」
「別に……あんたに対してじゃないから」
死ぬかもと思い、こんな状況でも、まだ現実と受け止めきれていないのか俺はと、可笑しくもあった。
「うぐっ――桜子」
狐目の黒服が、俺を蹴り飛ばした。桜子と引き離される。
黒服女は桜子を背に、尻もちをつく俺へ銃口を向ける。
恐怖の中、後悔があった。
後少し何か、何かきっかけのようなものがあれば、この恐怖を吹っ切れた気がしたから。
でも遅いだろう。その何かが俺にはわかっていないし、狐目の女が引き金を引きさえすれば、すべてが終わる。
「桜子は……どうなるんだ」
「お前には関係ない」
関係ない……か。
いつかも言われた気がする。悔しい。自分の存在が否定されたようで、悔しい。全身に力を入れながらも、睨みつけることしかできない、そんな無力な自分が悔しい。
鋭敏になっている聴覚が、自分の心臓の音を薄っすら拾う。
瞳孔が開いているのか、過分な光が目にするものへ鮮やかさを与えていた。
漆黒の鉄の塊が、鈍く煌めいている。
黒服女の狐目が、すうっと細くなってゆく。ああ……目をつむる。
――パンっ。
暗闇の中、音が一つ鳴った。
次に間近で、どさっと人が倒れ込む気配。
ぱっと目を見開いたそこには、俺の足元で倒れ込む狐目の女が居て、そのまま視線を先へ延ばしていけば、太くがっしりとした足――胸の前で両手を合わせた大男の姿。
「ジンっ」
「少年……おっさんはどうした。呼び捨てなんて生意気許した覚えはねえ……ぜ」
合掌でジンが『夢落とし』を使ったのは、即座に理解した。
なぜ指を鳴らしてではないのかなんて、どうでもいい。俺は死の脅威から逃れた。そして、ジンのおっさんが生きている。その事実だけで良かった。
ふらふら歩み寄ってくるジンに呼応するかのように、俺は立ち上がり両腕を広げ前へ。
それから……滲み歪む視界に紅い点を見た。
「おっさん目がっ――。もしかして、と、『兎鬼』ってやつなのか」
「そうか……やっぱ紅けえか。少年、怯えるこたあねえ……こいつは『怨鬼』っつてえよ……半分鬼で……半分人間みてえなモンだ。俺はまだ『兎鬼』じゃねえ……だからよ、んな面あ……見せんな」
ずしっとした重みが肩にのしかかる。抱きつくジンを全力で支えた。
「いいか少年……相手はただの耄碌した爺さんだ」
徐々に重みを増すジンは、耳元で息も絶え絶え言う。
「相手は?」
「小賢しい真似を。『怨鬼』の力を使えば儂をどうにか出来るとでも思うたか」
ジンの背中を突き刺すような声が、俺の疑問符をなぎ払った。
片手を自分の顔に当てる登城先輩のお祖父さんが、床に片膝をつきながらもしっかり起ている。
「な、なんであの人、眠りに落ちてねーんだよっ」
「爺さんの『万物流転』……大方、俺の”眠り”を”目覚め”に……変えやがったんだろうさ」
俺のように鈴で眠り回避している訳ではなく、『万物流転』――お祖父さんの”アテラレ”によるものってことなのか。
「なんか……ヤバくないかその『万物流転』ってやつ。”眠り”を”目覚め”にって、どういう理屈なんだよっ。……いろんなものをそうやって変えられる力ってことなのか。なら、なんでもありじゃ」
「少年」
一段と重みを感じるようになったジンが、そう口にして俺の言葉を切る。
弱々しい一言だったが、強くて厳しくて、優しくて、そんな『少年』だった。
俺の中で、何かが揺れ始める。
「いいか……これから言う事をてめえの魂に刻め。……男ならよ諦めんな……足掻け……指が一本でも動くなら、そりゃ足掻き足りてねえ……。お前さんはただの少年だ。けどよ……てめえを信じろ、とことんまで信じてみろ。そうすりゃ誰よりも特別になれらあ……。いいかもう一度言うぜ――」
声がだんだんとかすれ小さくなる。それとともにジンの重みは大きくなり、俺の体を沈めてゆく。両足が支えきれない。
「後よ……少年……」
倒れ込む俺に覆いかぶさるジンは、小さく小さく呟き頼み事を残した。
「おっさん、ジンの……」
ジンの体が重い。呼び掛けながら、もっと重たくなれと願った。
しかし、この重みが変わることはなかった。変化のない重みがとても悲しかった。
そして、悲しみに暮れている暇なんてない、この重みを乗り越え立ち上がることが、俺が今やるべきことだ――
「そうなんだよな、ジンのおっさん。わかってるよ。ちゃんと受け入れているよ。ジンのおっさんはもう、ずっと眠ったまんまなんだろ。ああ、言われた通り足掻いてみるさ、その言葉魂に刻んでやるさ」
天井を仰ぎ見る俺は、既に覚悟を決めていた。
――自分の覚悟を俺は信じ抜く。
それが今、俺が手にした覚悟だ。




