73 アヤメ
チリンチリンと鈴の音が聞こえる。
視線の先では、桜子があのあの野郎ことまなブンを、眠りから呼び覚まそうとしていた。
ジンの”アテラレ”は、鈴を所持している者を眠らせることができない。それから『夢落とし』による眠りを、鈴の音で打ち消すことができるようだ。
なぜ、鈴にそんな効力があるのか。ジン本人にも理由はわからないらしい。
『っんなこたあ、どうでもいいだろ。”あてられ”ってえのは、そういうモンなんだよ』とのことだった。
首を定位置に戻すと、床に転がるリンネ。
だらりと横たわる少女のくびれた腰はヘソを出し、長い方の髪の尻尾が、胸から首筋にかけてもたれ掛かかっている。閉じられたまぶたは目つきの悪さを隠していた。……唇は少しだけ隙間を作っている。
すうすうと眠りに落ちる暴女は……まあ可愛いもので、リンネと言う人物を知らなければ、喜んでモーニングコールなんぞをしたがる輩も多いだろう。特に向島辺りは率先してやりそうだな。
だがしかしっ、俺は向島じゃない。
たぶん、もしかしたら――いやいやきっと目を覚ました瞬間、こいつは有無も言わさず俺を殴るだろう。しかもグーで。可能性としては、蹴られる方が高いだろうか。
とにかく、不幸な未来のビジョンしかない。
「アレだな……とりあえず先に拳銃を」
ジンからは、拳銃を奪えと言われていた。
俺は黒服一号の手から、恐る恐る剥ぎ取る。
拳銃のグリップ部分に、円の中に三本の矢印が伸びるマーク。黒光りする銃身には『BERETTA』の英字が刻まれていた。壁際まで運んでそっと床に置く。
これで形上、黒服から奪ったからいいだろ。正直こんな物騒な代物を携帯するだなんて、お断りだ。
男子たる者、こういう武器に興味をそそられまくるが、本物の冷たさを感じてしまうと好奇心は影を潜める。
そして……過去の恐怖は、時間差で訪れるから難儀なものだ。
ブルっと身が震えた。
「うう……桜子先輩……ですか」
「おはようなのだ、まなブン」
「あ、はい、あのお早うございます。あの僕……あれ僕の『インビジブル・ペイン<悲しき存在>』が……。あの桜子先輩、その……近いです」
『どうしてまなブンがここにいるのだ。教えるのだ』と、あのあの野郎に攻め寄る桜子。
ジンのおっさんは、右足を不自由にしながら黒服二号の元へ。
俺はその状況を尻目に、現在の目的である”リンネを起こす”を渋っていた。
「なんだかな……」
思えば、ここに来てから目的がころころ変わっているような。
確か日曜に桜子と遊ぶ約束をしていて、それが気付いたらジンに誘拐されていて、逃げなきゃと思ったが、桜子を置いて行く訳にもいかず。そうしたらおっさんと一緒にここへ逃げることになって、登城の人に襲われて、今鈴を使って、眠るリンネを起こさなきゃいけない。
「これでいいのか俺。大体、俺の目的はあくまでもあいつを守るってことで」
ちらり桜子を見る。
ブツブツ言っても始まらない訳で、ここから逃げる為にも必要な仕事だと割り切り、ポケットの中の鈴を探す。
その時、鈴の音ではなく、人の気配を感じさせる物音を耳にする。
反応した顔は、ホールの奥へと向いた。
このホールに足を踏み入れた当初、黒服達が居た辺りだ。
「儂を待たせた責を問うつもりで来てみれば、なんとも不甲斐ない。菖蒲、登城近衛衆の名折れじゃのう」
「返す言葉もありません」
お爺さんと若い女の人だった。
頭髪と同じく、白い髭を蓄える山吹色の紋付羽織、袴雪駄と古風な姿のお爺さんは、こ
こからでもわかる背筋がしゃんとなるような風格があり、いかにも偉い人臭がする。
お付きの人らしい佇まいの女性は、タイトな黒服、耳が見えそうな短いボブカットで、
お爺さんの斜め後ろに控える。
で、俺が真っ先に思ったのが――ここは集会場かよ、であった。
ホールなので間違ってはいないだろうが、黒服の男達にリンネ、あのあの野郎、子犬もいたよな……。
もう、これで打ち止めにして欲しい。
「ああ旦那……そのなんだ、こいつは不可抗力ってヤツでよ。別にこいつらは死んじゃいねえ、俺の『夢落とし』で眠っているだけだ。旦那がここへ来る話なんて聞いてなかったモンで、つい俺も驚れえた……つうか」
「儂がここへ出向くのに、主への断りが必要とな……戯けた事を。ここは儂がお前に貸し与えし場所。なんの不条理がある」
「そりゃそうだけどよ、俺もただの馬鹿じゃねえ。旦那が直接ここに来るとなりゃ……。それなりの理由を考えちまう」
ジンが旦那と呼ぶ紋付羽織袴のお爺さんは、お付きの人を従え悠々とこっちへ歩いてくる。
一方ジンは、黒服二号の元から離れじりじり退る。話す相手との距離が、縮まるのを嫌うようだった。
「ユイちゃんのお祖父ちゃん」
後方から桜子。
振り返ってまた振り返り正面を見たら、ボブカットの黒服女性と目が合う。
切れ長で釣り上がる狐目から視線を逸し、俺は自分の中にある言葉のピースを並べた。
「菖蒲」
「はい。何故このような所にいらっしゃるのか、理由は解りかねますが、あちらは柳家の桜子様、側に見える少年らに見覚えはありません。ですが、奥の一人が着る制服は、ユイお嬢様が在学なされる青藍高等学校、学徒の物です。それと、彼らの側で横たわるのは例の娘です」
「ふむ、どういう事か聞くが早かろう。説明は出来るであろうなジンよ」
きっぱりとしたお爺さん。
「……説明も何も嬢ちゃん、柳のご令嬢様わよ、気付いたらここに居たんだ。嘘じゃねえ。元々は御子神のヤツらからリンネを奪い返す算段で、そこの坊主らを掻っさらたんだが、どうにも誤算だらけになっちまって……別に隠してたわけじゃなくてよ、旦那の手え煩わすのも何かと不都合があると思ってよ」
対するジンからは黒服を相手にした時と違い、余裕が消えているのを感じた。
「スバル、ユイちゃんのお祖父ちゃんなのだ」
俺の側に来た桜子がもう一度、顎鬚を撫でるお爺さんを指して言う。
ああ、と返す俺の目は三人の動き、耳は三人の会話に集中する。
ジンは、その登城先輩のお祖父さんを旦那と呼び知り合いで……。
「小賢しい。ジンよ儂が主を囲こうたのは、その娘に『曼陀羅』を見たからじゃ。故にお前達の戯れにも、幾分目を瞑ってやった。儂が主に求めるもの等、元から在りはせぬ。娘が御子神家の者の手に落ちたとて、それは壬夜兎の眷属に在るものと同義。儂の手に在るものとして違いなかろう」
「リンネを物みてえに扱うのはよしてくれねえか。っとすまねえ、俺は旦那に楯突こうってわけじゃねえんだ。旦那には世話になってるしな。リンネのヤツもこうして戻って来れたみてえだし、さらった坊主らは脅しをかけて返すからよ、ごたごたしってけど、まあ問題は何もねえ。そうだろ旦那」
「ジンよ、儂自ら出向いた意味を、小賢しきお前なら疾うに理解しておろう。儂は主に対して憂いておる。小賢しき者はどこまでも儂の手を煩わせる。菖蒲」
先輩のお祖父さんは、言葉尻の名に感嘆符を付ける。
ボブカットの女性が、つかつかきりりと向かって来た。
「桜子様、こちらへ」
「私はお姉さんを知らないのだ。だからごめんなさい」
アヤメと言う名の黒服女性の誘いを、桜子は桜子流で断る。男の俺としては、ごめんなさいで拒否されたら……耐え難い。
「待ってくれ旦那。あとそこの姉ちゃんもそいつらに近づくんじゃねえっ」
今一歩近づこうとした黒服女性を、ジンが怒声で牽制した。
嫌な感じの濃度が上がる。
桜子は黒服女性から逃げるように、俺の半身を盾にした。
「旦那としちゃ、嬢ちゃんが居たりで面倒なのは良くわかる。そこんとこは申し訳ねえとしか言えねえ。けどよそれだけだ。あとは今までとなんも変わらねえ。念の為に言うが、坊主らはなんも知らねえただのガキ共だ。放って置いてもどうって事ねえしよ」
「ジンよ。娘には総ての”あてられ”を、その身に宿してもらわねばならなかった。御子神家の者により、娘のそれが還された今となっては、意味なき事」
「ああ、旦那の言う通りみてえだな。本当にすまねえ。ドジ踏んだリンネには、俺から良く言い聞かすからよ。同じ轍は踏ませねえ。”あてられ”をまた集めるのはてえへんだけど――」
今だ起こしてないリンネを一瞥。
なるほど、だからリンネは黒服一号に、やすやすとやられてたって訳ね。
トンズラカマしてやった、とか言ってたくせして、しっかり”還し”は、受けてんじゃねーか。
「旦那も言ったじゃねえか、リンネに『曼陀羅』を見てるってよ。そりゃあ、リンネの”あてられ”を奪う体質の事だろ。本来”あてられ”は一人の人間に一つしか宿らねえ。だからよ、旦那の目的にもリンネが必要で、そのリンネはここに居る。問題ねえ、問題ねえはずさ」
「ジンよ。『曼陀羅』はこの忌まわしき力の先に在るもの、それらを統べるもの。娘には壬夜兎の器を見ていたが、叶わぬ。”あてられ”が還る事、それはすなわち娘が『曼陀羅』たりえぬ事を表す」
登城先輩のお祖父さんが口にする言葉は難しく、ジンへと向かう変わらない歩みが否定を物語る。
「儂の願いは潰えた。ならば主の想いも意味なき事。ジンよ潔くあれ。儂自ら出向いたは慈悲と知れ」
「慈悲かよ……全く胸クソわりい言葉だぜ。登城の当代である旦那の計画は、眷属共の総意じゃねえから、隠さなきゃいけねえような表に出せねえモンだ。だからよ、そん為にも用済みは綺麗さっぱり後始末しねえといけねえ。あんたの慈悲とやらは言い換りゃ、それを自分の手でやらねえと夢見が悪いって話だろ」
「宗司様っ」
黒服女性から、強いピリピリしたものが飛ぶ。
名を呼ばれたお祖父さんは歩みを止めただけで、動揺もなく依然堂々たる身構えである。
ホールのほぼ中央にて、遠からず近からず。三人の大人達が睨み合う。
奪った拳銃を手に、ジンは登城先輩のお祖父さんへその銃口を突付けていた。
ジンと黒服女性はそこに基点でもあるかのごとく、一定の間を取り回るように動く。とても静かに。
二人の歩く床が、今にも割れてしまいそうな薄い硝子に見えた。
一触即発の事態の中、俺が並べた言葉のピースはそれなりの絵を見せる。
ジンやリンネは御子神家に追われる身でありながらも、同じ眷属の登城家と通じていた。
詳しくわからないが、キーは『曼陀羅』。”アテラレ”に関して、お互いの利害が一致していたのだろう。
登城先輩も登城家だ。このことを知っていて、京華ちゃんや桜子に話していたのか、それとも黙っていたのか。俺の胸は痛い。
そして今、ジンは手を組んでいた登城家の当主、先輩のお祖父さんと敵対することを選んだ。
自分の立場とかも含めて、誰が正しくて誰に従えばいいのかなんて、まるっきりわかっていない俺は――
「愚かしき男よのう」
「旦那あ、てめえの命の危機に愚かしいも何もないだろうさ。俺やリンネをどうする気かなんて聞くまでもねえ。けどよ、旦那次第で俺は賢くもなれる。今直ぐここから立ち去ってくれねえか。俺達もこの街から姿を消す。落とし所の話だ。これに交渉の余地なんてモンはねえ。おりゃ本気だぜ……さすがにあんたの『万物流転』でも鉛弾は防げねえだろ」
「儂は愚かしき者と交わす言葉など持たぬ。菖蒲」
「私は”銃声”を許さない」
殺気なんてものを感じたとするなら、この黒服女性のそれだろう。
「くそっ、なんかやりやがったなっ。ネエちゃんよお」
ドスの効いたジンの声。その手にあったはずの拳銃が粉々に散る。
気付けばホール中を、透明に近い希薄な煙のような霧状の何かが立ち込めていた。
「私の霧は”音”を許さない。従わなければ罰が下る」
「引き金を引いたらっ……つまりよお、ネエちゃんの”あてられ”はよお、銃声を許さねえ為に、そうなる事象そのものを破壊したってことか……つっ、いろいろ気に食わねえなあんた。おりゃ鼻がいいからよお、あんたから臭う血生臭さに鼻が曲がんだよっ」
「私は”眠りの音”を許さない」
不意をつくようにして振り上げ振り下ろそうとしたジンの左腕が、見えない手に叩かれたように弾かれた。一瞬、耳鳴りを伴う。
『夢落とし』を使おうとしたジンを、黒服女性の”あてられ”が制したと思われる。
「スバル、おじさん血、血」
桜子がゆさゆさ、俺を揺さぶり言う。
ジンの左手は流血し赤い。腕は床に向け、だらりと下げられていた。
「ぐっクソっ、とことんだぜ。ネエちゃんよお、こう言うのは普通、制限とかあるんじゃねえのかよ。一度に何種類もの事象をなんてえよ、卑怯じゃねえか」
皮肉でもなんでもない。切り札である『夢落とし』を封じられたのだ。ジンの純粋な負
け惜しみである。
アテラレ使い同士の争いは、何をもって優位に立てたり、不利になるのか未知数だ。けれど、これだけは言える。
ジンの『夢落とし』と黒服女性の”アテラレ”は、相性が悪かった。




