65 スバルの戦い①
周りすべてを覆い、迫り襲ってくるモヤモヤな”まどろみの霧”を相手に、右手は根性、左手は気合いのグローブを付け、ワンツーワンツー。俺は脳内で抗い拳を振るうが、いかんせん世界どころか町内すら制するのも怪しい、ボクシング素人のパンチは当たらず、防戦一方――いや、敗北濃厚であった。
この霧に屈したところで何も命を取られる訳でもなく、夢の国へ招待されるだけなのだから、素直に参ったをするのが懸命である。
しかしなんとなく、ではなくむしろ明確に癪で、その想いが俺を戦いのリングにまだ立たせていた。
就寝しようとするジンのおっさんに食い下がっていた俺は、おっさんからうるさい騒ぐなと避難される。ついでに、うろちょろするな、物にさわるな、呼吸だけしてろ。散々な言われっぷりだった。
当然、これに納得できる要素など微塵もない。
なので、ジンに自分の正当性を訴えた。
こんなどこともわからない娯楽も何もない部屋で、どうやって静かに一人で一夜を明かせというんだ――と。
涙ながらではなかったが、最もな抗議内容だったはず。にも関わらず、返ってきた言葉は、『なら嬢ちゃんと、朝までいちゃついてりゃいいだろ』、だ。
桜子とがってのじゃなく、向こうがどうって問題もあるし、の問題じゃなくて、倫理的、倫理的観点から大人が子供相手に、こんなこと言っちゃーダメだろっ。
ただ、この倫理さんとやらは人を選ぶようで、ジンのおっさんには無縁だった。
そんなジンのおっさんは、いよいよ面倒くさいといった態度を俺に見せた後、寝そべるソファから上体だけをこちらへひねり、親指と中指をくっつけた右手をかざして、『お前さん、大切な三つの袋の話てえのは知っているか』、と凄みのある眼差しで聞いてくる。
大切な三つの袋の話と言えば、結婚式の挨拶に使う定番ネタとかで、以前親父が話していたのは”お袋”と”給料袋”、後”堪忍袋”だった。育ててくれた母に感謝すること、安定した経済力、互いを許し合う心。この三つを大切にすれば、結婚生活を円満に送れるらしい。
らしいけれど、おっさんが結婚生活のノウハウを、しかもこのタイミングで俺に説くとは、ペンギンが空を羽ばたくくらいあり得ない。
予想するにおっさんは、三袋のうち最後の”堪忍袋”を、これ以上あーだこーだ喋べるなら、その袋の緒が切れて『夢落とし』を使うハメになるぞ。眠らされたくなければ静かにしてろ、いいな。とでも使い、俺に脅しをかけるつもりなのだろう。
俺の知る三つの袋話の使い方じゃないし、”お袋”と”給料袋”はどこへ行った、って具合で、はっきり言って上手いとも必要な話とも思えないが、ダメ出しをしても、おっさんのアテラレ『夢落とし』を防ぐ手立てにはならない。
現実の世知辛さを感じつつ、それでも、やれるもんならやってみろと身構えてみたら、『俺にゃ三つの袋がある。堪忍袋が一つ、玉袋が二つだな。わかんだろ少年なら。袋の緒が切れちゃあ、マズイわな』――下品かつ、すこぶるくだらない脅しを貰った。
気持ちが顔に出るとは、どっかの誰かさんがよく言ったものである。自然と目から一切の感情が忍びのごとく鳴りを潜め、針のような視線でジンをぷすり。なんの躊躇いもなくチクチク、プスプス、オラオラ刺してやった。
指が弾かれ眠らされるなって、覚悟する。
でも、だからといって『夢落とし』の餌食になることはなかった。
会心だったのかどうかなんて興味ない。けれど反動なのだろう。ジンは俺のリアクションに対して予想外な、ふてくされるを選択し、けっと一言吐いてまた就寝状態に入る。
黙りなおっさんを見て、信じられないが本気で寝るつもりだと判断した俺は、真剣さを別角度へと向けた。
一度はここからの逃走を諦めた身だが、桜子も一緒に逃げれる可能性があるなら――鬼の居ぬ間に洗濯ならぬ、ジンの寝る間に脱出である。
鬼に匹敵するおっかなさをジンが持っているかはさて置き、リスクは確実にある。失敗した場合、桜子に危害が及ぶのは絶対に避けたいし、それ以外にも不安は尽きない。
丁寧に考え、行動に踏み切るかどうするかをジンに委ねることにした。
ジンのおっさんは、もしかしたら悪い人間じゃないかも。頭の隅っこの方にあったこれが、どうにも俺を迷わせていた。
だから、直接聞いた。
「あのさジンのおっさん。おっさんの目的ってなんだ?」




