64 過去③
「なあジンのおっさん。人がその兎鬼ってのになったら、もう元には、人には戻れないのか」
「……あのな少年、おりゃ眷属でもなんでもねえ。そこんとこよく覚えとけよ。だからよ、『兎鬼』が人に戻れるかどうかなんてのは知ったこっちゃねえし、今の俺にゃ関係ねえ」
あっ、シス――。
「空気読めなくて……その、ごめん」
「あん、なんで謝んだ。んで、蛙が潰れたみてえな面でこっちを見んじゃねえ。たあ、どうにかしろその面あ。っそ……あん時、銀髪野郎は俺に”手遅れだ”って言いやがった。つまりそう言うことなんだろうさ」
「うう、ごめん」
はあ、と吐く、ジンの白煙のため息が意味するところはよくわかる。
ごめんわざとじゃないんだ。って、また……いかんいかん気持ちを切り替えろ。引きずるのは余計、ジンに悪い。
「少年。眷属ども、特に御子神のヤツらが”あてられ”を見つけ出して、そいつらを管理しようとしてんのは知ってるか」
ジンは小指の先で頭をぽりぽりかきながら言うと、束ねる髪を解いた。それからごつごつとした両の手で髪を撫で寄せ、また束ねようとする。
「アレだろ、リンネやおっさんみたいな”アテラレ”を悪用する連中がいるからだろ」
「なんか謝ってんなと思ったらつぎゃあ。お前さんは俺に喧嘩売りてえのか。言っとくが俺は好きで”あてられ”になったんじゃねえし、リンネに至っちゃあ。っと俺達の話はどうでもいいんだよ。こっちにゃこっちで少年にゃ関係ねえ、大人の事情ってもんがあんだからよ」
大人の事情とやらに、銀行強盗や誘拐も含まれるのかね。
「人からモノを教えてもらいたきゃ、それなりの言葉を選べって話だが。たあ、ガキに言ってもしようがねえわな。説教しても酒が不味くなりゃ」
「違うのかよ」
「あん、何が違うって」
「さっきの、獅童さん達が”あてられ”を管理するってやつ」
「そういや……その話だったな。お前さんの言う悪用されないってのも、そこの嬢ちゃんの胸程度にゃあるかもだがよ、一番は『兎鬼』だろうさ。『兎鬼』を生み出したくねえあいつらからすりゃ、自分らの知らねえ”あてられ”がいちゃあ、かなわねえだろ」
この下品な皮肉混じりの台詞を皮切りに、ジンはなんだかんだで長々説明してくれた。
その口からは、俺が耳に覚えのある『百捌石』『還し』の言葉が飛び出す。
京華ちゃんの言葉、登城先輩の言葉、獅童さんの言葉。
埋没されていた過去のそれらが、話の流れによって洗われ寄せ合い、顔を見せていった。
ジンの言葉通りなら、宿主の『兎鬼』化は”あてられ”てもすぐには起こらない。個人差はあるものの、”あてられ”に喰われ続けられることが引き金になるようだった。
”あてられ”そのものが宿主から消えてなくなりさえすれば、人が『兎鬼』化することはない。
だから眷属は、”あてられ”を『百捌石』へと回帰させる”還し”、その儀式を宿主達に施す。
ただ”還し”によって『百捌石』に戻った”あてられ”は、また別の宿主を求め誰かを中てる。
このサイクルがあるから、宿主を発見次第すぐさま”還す”というより、『兎鬼』化する予兆があるまで人に宿らせておくことの方が効率が良く、”あてられ”の所在さえ把握していれば、いざという時に対処が容易で、眷属には都合が良いとジンは言う。
正直ジンのおっさんが指す、眷属の人達に縁がある俺からすれば、気持ちの良い話じゃなかった。なんか獅童さんを始め桜子達が、人間を”あてられ”の入れ物みたいな感じで扱っている。そんな風にジンのおっさんが話すから。
でも、気持ちが良くない話の中に、羽が生えたように気持ちが軽くなる部分もあった。
『兎鬼』化は、すぐには起こらない。
俺にはどれくらいで”あてられ”た人間が『兎鬼』化するのか、判断できないけれど、眷属――要は”あてられ”プロの獅童さんや京華ちゃん、加えて登城家の先輩までが桜子の側にはいて、京華ちゃん自身、『兎鬼』とか怪しげなものになってしまう危険性のある”あてられ”であるが、至って平然としているし、御子神家の当主である獅童さんが、桜子に”還し”を行わないってことは、裏を返せまだそれ程の危機的状況ではないんだと受け取れる。
楽観視とは別に、冷静に考えればそれなりの猶予があるってことだよな。
そして。
――”還し”さえすれば、桜子が『兎鬼』になることもない。
それがわかっただけで、俺は十分おっさんの話に価値を見出せた。
「俺、前にも思ったんだけどさ、”アテラレ”の発生源の『百捌石』をぶっ壊してしまえば、獅童さん達もややこしいことにならなくて済むんじゃないのかな」
話を聞けば聞く程、”あてられ”ってやっぱり厄介だった。だから、元を絶てばそれもなくなるのではないかと。
「少年が考えつくくらいのこたあ、眷属どもも考えたろうさ。なんせ千年前からこの街にあるらしいからな」
「なぬっ、千年」
そういや”アテラレ”っていつから存在してたなんて、考えたこともなかった。
千年かよ、ミレニアムかよ……。歴史あるなーとかの以前に、この世に在ること自体不思議なんだけどさ。
「理由は知らんが『百捌石』は壊せねえんだろうよ。たとえ壊せたとして、”あてられ”たヤツらの”還し”が、出来なくなっちまうわな。そうなりゃ、俺も困る」
確か……に。”還し”ができなくなれば、『兎鬼』化が防げなくなるってことだもんな。
「そうなると獅童さん達はずっと”あてられ”を見つけ出しては、”還し”続けないといけないってことか……。なんだかなあ」
「同情はしねえが、しゃーねえわな。それが壬夜兎の眷属どもの業ってやつさ。ご先祖様に愚痴りながら、せっせと”還し”に励んでいるんだろうさ」
みやとの眷属のごう? はて。みやと市役所の関係者って意味ではないな。それはそれとして、
「ジンのおっさんさ、そんな言い方しなくてもいいだろ。獅童さん達が頑張って”還し”てるから、”あてられ”た人が”鬼”にならなくて助かってんだろ。ジンのおっさんだって、もし獅童さんともっと早くに会ってたらッ」
会ってたら――なんだっ。言葉を噛み殺す勢いで止める。奥歯がガチっと鳴るように止める。が、てんで遅い。
俺はおっさんに何言おうとしてんだっ。いや言ってしまったんだ。
桜子の事でとりあえずの安堵を得ていた俺は、浮かれてやがってたのか。もしかしたらシスターさんが助かったかも。そう口にしようとした。
まただ。
今度は空気読めないどころか、おっさんの心を土足で踏んずけた。俺は馬鹿野郎だ。
自分に対する嫌悪と怒り、情けなさいっぱいの重みで心が急降下する。そのまま、足元のひんやりとする床に叩きつけた。
くそっ。ジンのおっさん俺、
「大馬鹿野郎だ」
違う俺の馬鹿さ加減はもういいっ。自分を避難するのは後回しだ。謝らないとジンに謝らないと。
「はあ……今更大を付けて訴えられてもよお、お前さんが馬鹿なのはもう知ってるしな。だからよさっきも言ったろ。んな辛気くせえシケた面で、こっちに見んじゃねえよ。煙草まで不味くなりゃ」
「違うんだおっさん、この馬鹿はとんでもなく馬鹿なこと俺が、げふっ」
顔に白い煙が、吹きかけられた。
ぐっと寄ろうとしたら、ジンから煙たがれるように煙で制された。
「ふう……なあ少年、聞きな」
煙草の煙が目にしみる。
「仮に獅童の野郎が、あいつが”鬼”になる前に現れてたとしてもよ。おりゃあの野郎に死んでも”還し”をやらせねえわな。誰もあいつからあいつの”声”を奪っていいはずねえんだよ。あいつ自身でもな。でもよあいつは馬鹿だから、自分の最後に自分自身を責めた。言ったろ、私が悪いごめんなさいってよ」
ごしごしと目をこする俺には、煙草を挟んだ指が向けられているようで、その先を追えば、しっかりとしたジンの強い視線に出くわす。
「あいつは、声を手放せない自分の欲を恥じたんだろうさ。んなことねえのにな。あいつはなんも悪くねえ。悪いのは元々そこに在ったはずのもんを奪ってよ、善人のフリして偽モンをくれやがった神様って野郎でよ。そんでもあいつには、大切なもんだったんだよ。あいつはお人好しだからさ。そんなクソ野郎にも感謝すんだよ」
ジンはあざ笑う。
いい加減俺も気付いていた。”あいつ”の話の時、ジンは向き合う話し相手の俺に、俺の姿を見ていない。
今までいろんなものを映してきただろう黒が薄い眼球に、俺は映り込んではいなかった。
そこには、もう一人のジンがいた。
「けど、人のこたあ言えねえよな。俺も感謝しちまったんだしな。そんな自分がほとほと許せねえ。クソ野郎に礼言ってる、っんな暇がありゃ、あいつによあいつにこそ、なんで俺は言ってやれなかった。いつでも言えたのに……たった一度も伝えてねえ。ありがとうってよ……。おりゃ、てめえが馬鹿過ぎてヘドが出るぜ」
荒らげた声じゃなかった。逆に平坦で、低くて重くて真っ直ぐで。でも激しい熱を感じた。
ジンが手にする煙草の灰の塊が、朽ちるように音もなく落ちる。
静かさの中にも、俺やジンの動きはあった。
「なんだあ……。結局おりゃお前さんに何言いたかったのか……わりいな少年。やっぱ安酒はいけねえな。ちーとばっかし、くだらねえ酔い方しちまった。まあ、忘れてくれや」
「俺、わかんね……よ」
何やらバツが悪そうなジンの声の前で俯く(うつむ)く俺は、自分の口からはみ出さない程度に、ぽそり小さくつぶやく。
ジンの”あいつ”の話には、哀しさ、憤り、優しさがあった。俺はそれをどこに、誰に向けていいのかわからなかった。
ジンは自分を後悔し、神様を恨むことで答えを出しているが、俺にはわからない。
誰が悪い、何がいけなかったんだよ。
「少年、おりゃもう寝るわな」
ああ、おっさん寝るのか。結構な話だったし……。俺も横になりたいくらいだ。
けどまあ、おっさんに眠らされたお陰で、眠気一つないけれどさ。ハハ。
「おっさん、おや……す、って」
え、ジンのおっさん寝るの?
首を左に十五度回し、顔を上に六十度程。
ソファの肘掛け部分を枕に頭を乗せ、仰向けに体を埋めるジンがいて、大概の人はそれを眠りにつく体勢と判断するだろう。健やかなる眠りをってやつなのか、両手はお腹の上で組まれていた。
「おいおいちょちょ、お、おっさんが寝んのかよっ。なんで寝るんだよ」
「あん、俺が寝るのにお前さんの許しでも必要なのか」
「いやいやそういうんじゃなくて、い、一応おっさんはアレだろ誘拐……犯なんだし、俺や桜子を見張っとかなくていいわけ?」
「見張っとくっつったって、いつまでだよ。てめえらを四六時中監視しとけってか。かっふざけんなよ。こちとら、んな暇じゃねえんだ」
ふざふざ――俺が言いたい。どっちがだ。
と、ここでただ反発しては足元をすくわれる。少しは学習している大人な俺は、なら諭す感じでどうだろうと、試みる。
「ええとさおっさん。だぶん見張るのも大切なその、誘拐の仕事みたいなもんだろ。ちゃんと責任持って見張ろうよ。なんつーの、帰るまでが遠足っていうじゃん。最後まで頑張ろうよ。いい大人なんだしさ」
俺なりに気を使った。
「うっせえな。気持ちわりい喋り方で話しかけてくんじゃねえよっ。おりゃ、残業はしねえたちなんだよ。うだうだ言ってねえで、とっとと羊でも数えてお前さんも寝ろっ」
結果、この仕打ちでした。
「アレだアレだっアレだかんな。俺だってな眠れるんならそうするさ。けど誰かさんが昼間”アテラレ”で俺を眠らすから、眠たくねーんだよっ。あーあ俺全然眠たくねー。羊、楽勝で千匹数えられるね。間違いないね」
「……がきゃ、これだからよ」




