61 ジン④
人生に誘拐されることなど滅多にないと思うし、俺にとっては、初めての誘拐されましたである。だから基づくものがないまま考え、答えを出す。
結論は、違うなんか違うである。
直立する俺は誘拐された被害者。優しい寝息を立て眠る桜子も、同じく被害者である。
加害者、誘拐犯のジンは、見下ろす先のソファに座りながら、酒を飲んでいる。
ジンの肌は褐色なので、顔が赤らんでいるのかわからないが、本人は酔っていると言うので、そうなんだと推測される。
そのジンが俺に頼み事をしてきた訳だが、これがなんとも信じ難いものだったので、俺は聞き返していた。
「だからよ、真っ直ぐ行って突き当たりを右に曲がる。そうすっと、奥に洗濯する場所があってだな。そこにでっかいカゴがあって、探せば煙草あっからよ」
ジンは煙草を切らしたらしく、予備の煙草が説明したカゴにあると主張し、それを俺に取って来いと言うのだ。
昨日着ていた服にでも、煙草を入れぱなしとか、そういうことなのだろう。
「なあ、ほんとに俺が煙草取りにいっていいのかよ? 俺人質なんだぞ」
「人質”だった”だな。働かざるもの食うべからずつってな、少年もコーラ分くらいは役に立てよ、がはは」
物申したいところ満載だが、堪える。ジンの気分が変わらないうちが、チャンスなのだから。
部屋の扉のノブを回し、手前に引く。この部屋が明る過ぎたのか、先に延びる通路は薄暗く感じた。匂いも変わり、タービンの回る音……遠くにブーンと聞こえる。
「少年」
通路へ踏み出そうとした俺の背中が、ジンの声を受ける。
その短い掛け声に、のしかかってくるような圧を感じた。
「俺は、少年が賢いのか馬鹿なのか知らねえ。だから、少年にはもう一度だけ言うぜ。お
前さんが曲がるのは右だ」
俺は表情を見せたくなかった。振り返らず扉を締める。
ジンの物言い……試したのか。でも、俺が左に行くのはマズいってことにも取れるよな。酔っぱらい相手に、深読みし過ぎだろうか。
企てを胸に、通路を歩く。
進む通路は、人が二人並んで歩ける程には幅がある。が、決して広いとは言えない。
先へと、睨みをきかす視線の角度を上げた。
等間隔に設置された照明は、オレンジ色に発光していて、それらは側面壁の上部に並んでいる。天井と呼ぶ部分には天板はなく、コンクリートように見える質感のそこには、口径の違う数本の配管が、通路に沿って這わせてあった。
どこか学校や病院に似ているような雰囲気でありながら、それとも違う。
「ここどこなんだよ」
コーラの飲み過ぎによるものでもなく、胃がきゅっとなる俺の心は、ざわざわさと落ち着きがない。
けれども、心をざわつかせている場合でもないし、この機会を最大限利用しないと。
いつかの胃薬とっておけば良かった、とボヤく俺の手元が明るくなる。光源は携帯端末の画面だ。
「うーん……圏外だな。けど、建物の外に出れば繋がる可能性はあるかもだろうし――」
諦めきれずに振る。かざす……。もう一度振っては、Uターンでホイっとかざしてみる。
意表を突いてみたところで結果は同じ。んで、気付いた。
「って、電池ヤバっ」
想定外の充電状態。胃が更に縮まる。
電子機器ってのは、電気があってなんぼであって、手にするスマホのその残量は、極めて少なかった。
「電話が使えなきゃ、意味ねえのに……」
俺は、ジンの煙草なんか取りに行く気などない。どうにか外に出て、登城先輩もしくは京華ちゃん、繋がれば警察だっていい。ジンは誘拐犯であり、銀行強盗なんだしな。とにかく助けを呼ぶつもりでいた。
予期していなかった充電の不安材料を、スマホの電源を落とすことで先送りして、止めていた足を動かし、またてくてく歩き出す。と、正面に壁が現れた。
「突き当たり……か」
右見て左。奥に四、五段くらいの鉄製の階段らしき物があって、それを目で上ると扉が見えた。その扉を通路のとは違う照明が照らしており、こちらの色はグリーンだ。
ジンの言葉に従うなら、振り返り、『突き当たって右』の通路を行くべきだろう。
ただ、そっちには煙草があるだけのような気がする。てか、それしかないんだろうな。なら、こっちには。
現在、俺の希望の光とやらは、緑色なのだ。
扉は閉まっているかも知れない。はたまたそこから建物の外へ出られるとも限らない。仮に外へ出られたとしても、電話が通じる確証はない。でも可能性はある。
だからこそ、危険性も感じる。ジンの罠じゃないかと。
ジンは言っていた。
ムカつきが先行してて、はっきりとしないが、俺が賢いだとか、そうでないだとか、そんなことを口にしていた。
幾度となく迷っては答えを求め、悩んだ。
そして、誘拐犯の気まぐれに、
「ぬがあっ。俺は馬鹿なんだよっ」
そう答えた。
掴んだドアノブを回し、扉を押す。重たいわけではないがゆっくりと開けた。隙間から中をうかがう。予想していた部屋の明かりの光量がなく、薄暗さに軽い緊張があった。
「折角、逃げるチャンスを与えてやったのによ。少年、お前さんは馬鹿だな」
もう聞き覚えた声が言った。ソファに座り、本来のサングラスの意味を成していないそれをし、煙草をふかしているジン。口元には歯が見えるので、このおっさんは、ニヤけてでもいるのだろう。
俺の目は薄明かりの中、桜子を探す。変わりなく、ブランケットに包まり寝ている様子だった。それから周囲を。
後ろの壁側には、天井から吊るされたスクリーンに映像があった。プロジェクターによるもので驚きもしないが、映し出されているものが頂けない。
「なんで戻ってきた。ちーとでも賢いヤツなら、ここから逃げだして助けを呼ぶもんだと、俺は思うんだがな」
「どうでもいいだろ。俺は馬鹿なんだよ。それでいいだろ。てか、煙草あんじゃんっ」
テーブル代わりになっている木箱の方へ近づき、俺は吐き捨てた自分の台詞とともに、握っていた煙草を、投げ付けた。どこから出てきたのか、前は置かれてなかったノートパソコンに、ガンっと当る。
馬鹿正直におっさんの頼みを遂行した俺は、ほんと馬鹿だ。
ジンが言ったように賢い選択をするなら、いやするべきだったんだろう。上手くいけば、それで桜子も助けられたかも知れないのだから。
けれど、俺には……。それより、
「おっさん、抜け目ないな」
プロジェクターが映し出している内容を指して言う。
スクリーンには、いくつかの部屋、通路の様子が分割表示されていた。
「まあな。若くて賢い俺はあるものは利用する。監視カメラで、少年の行動はばっちりってわけよ。がはは、いい酒の肴になったぜ。特にお前さんが、俺の煙草を探している時なんかわよ。あそこは脱衣場も兼ねてるから、仕方がねえっつたらそうなんだけどよ。……まあ、少年はまじまじと見てたわな」
ジンは含んだ感じでそこまで言うと、酒が入ったグラスを口元へ運んだ。
含みの意味がやや遅れて、脳へ伝わり体温が一気に上がる。
「アレ違っ違う。たまたま俺の目の前にあって」
「ちなみにありゃ、リンネのだ」
「だから違うって言ってんだろ。俺は下着なんか興味ねーっ」
「別に俺は下着なんて一言も言ってねえぜ。がはは、あそこには、リンネの洗濯物もあったって話だけでよ」
むぐぐ、このおっさん、このおっさん。
「でよ、思春期真っ盛りの少年にもう一度聞くが、なんでここへ戻ってきた」
話題が逸れて、良かった――とかじゃなく、そもそも”そんなに”見てないかんな俺。
でも、またこれかよ。
「っんな、あんたしつけーよ。……言ったろ、俺はおっさんと違って馬鹿なんだよ」
俺はこれで終わり、のつもりで再度、自分を馬鹿呼ばわりした。
いつの間にか、ジンの返しが予想できるようになっていた俺の中には、がははと笑い、おちょくりを掛けてくるおっさんの絵があった。だが。
時間が漂うように流れた。それだけだった。
ジンは俺を見つめているようで――酒を飲み続けていた。それは俺の言葉を待っていると伝えてくる。
自分の口が、ゆっくり開いてゆく。息を吸い、吐き出す。言葉は乗せない。
何度か繰り返して、ようやく俺は声に変えようとする。
別に言いたくもないことだけれど、馬鹿なりに想いはあるんだよ。
「俺が寝ていた時、桜子はずっと俺の側にいてくれたんだろ。だったら――」
いつから自分の視線が、ジンから桜子の方へ移っていたのか。
ジンへ向き直り、
「あいつが目を覚ました時、俺がいなきゃダメだろ。そう思ったんだよ」
「少年。お前さんはやっぱり馬鹿だな」
ジンはその後、まあ俺は賢いヤツが嫌いなんだがな、と付け加え、サングラスを外してみせるのだった。




