43 リンネでパンク⑤
リンネは対象者の唇を奪うことで、”アテラレ”を盗む。
もしかするとそれ自体が、アテラレを奪う”アテラレ”――なのかは分からないけれど、リンネはそれを繰り返すことで『あてられ狩り』と呼ばれていた。
飾られていた絵画は散らばり、燃えて燻ぶる物もあった。上品な絨毯は所々切り刻まれ、円形に黒く焦げた跡を残す。破壊された扉……横たわるセバスチャンさん。
元凶であるリンネの傍には、気を失って動かない京華ちゃんが、うなだれている。
目を覆いたくなる状況に俺は……混濁する意識の中、自分を保つことしかできないでいた。内蔵を握り潰られるような吐き気。不快な汗が滲んでいた。油断したら、自我をどこかに持っていかれそうになる。くっ、いろんなもんが、
「……最低だ」
けれど――最悪ではない。
京華ちゃんを囲む立方体、薄い光の輪郭を持つキューブが消え、彼女の体は、どさりと床に伏せた。
リンネは足元、ブーツの側面に出現したキューブを蹴り、反動で後方へ滑る。
キューブは……空気を固めているのか。同時に複数展開はできない……。それから、浮く”アテラレ”も併用しているってことか。
体を浮かしているからこそ、できる芸当ってことだな。
俺は、理解が追いつかないけれど、”視える”し”情報”も知っている。
「っんでだよ」
京華ちゃんから距離をとったリンネは、一言発し警戒した様子を見せた。
傲慢なリンネだが、その態度は、俺に慎重な一面を伺わせた。
――厄介だ。
リンネは俺の時と違い、アテラレを奪うことが”できなかった”ことに、不信を抱いている。
俺との口づけで、何かしらの力を奪えなかったリンネは、俺をあてられていないと判断した。
しかし、今回は違う。
”鏡眼”を奪えなかったことに、何かしらの原因があると感じているようだ。あいつはその原因に、他の誰かからの介入などを考えたのかもしれない。だから、警戒態勢をとったのだろう。
結果、京華ちゃんから離れてくれたのは良しとして、今はこれを拾わなくては……。
俺の傍には、小さな石器が転がっている。親指ぐらいの大きさのそれは、鏃のような形をしており、先は尖り、赤く濡れていた。
京華ちゃんが俺を振り払った時、首に刺さったのもあるが……ちらりと、倒れている京華ちゃんの左手を見た。手の平には、血のりが付いている。
石器は、百捌石から削り出した欠片だ。”移し”を行う際に必要な道具だと聞いていたし、今の俺が”この状態”なのだ。間違いないだろう。
そっと手に拾う。その時だった。俯いていた俺の顔が、天井へと向いた。
目の前には、不機嫌そうなリンネの顔がある。
「ようチェリー、どういうコトだ」
「……なんのことだ」
「トボけんなよ。てめえなんか知ってんだろっ」
俺の髪を掴む手に、ぐっと力が入る。
知っているが、さらさら教える気なんてない。
そして、鏡眼を京華ちゃんが俺に”移し”た、そのことをさとられてはならない。
京華ちゃんが俺に託してくれたこれは、絶対に守らなくちゃいけねぇっ。
「……だから、なんのこがほっ」
何も言わず、リンネは俺を蹴り飛ばす。ブーツが淡く光って視えた。
なるほ……どな……。この重い蹴りも”アテラレ”の一つか。たくっ――こいつ、どんだけ”アテラレ”を持ってんだよ!?
「けっ、どいつもこいつもよ。……しゃーね、そっちのチビに聞くか」
リンネの視線が、俺の後ろの方へと注がれる。
「――れっ」
待ちやがれっ。桜子の方へ行かせてなるものか。リンネのブーツに必死になって、しがみついた。
鏡眼にあてられた俺だが、それでも、今はこれぐらいしか、これぐらいしかできなかった。
視界が歪み、距離感も何もあったもんじゃないが、呆然と立ち尽くす桜子が見える。
怖いよな、きっとそうだろうな。けれど、しっかりするんだ、桜子。
「……ろっ、桜子っ、逃げろ」
「チッ、マジでウゼーんだよっ、このチェリーがっ」
リンネを、光の線が縁取る。
足元には紐状のものがあり、その先端が発光しながら、短くなっていく。さながら導火線といったところだろう。
数秒後には――あの火柱の”あてられ”がくる。
くそっ、どうしようもねぇ。逃げ出す程の力があるのかわからないが、もし逃げたとして、こいつは俺が”視えている”ことに感付くかも知れない。
それに、こいつを桜子へ近づけるのは――覚悟を決める。
「走れ桜子! とにかく走れっ」
「じゃあなチェリー、燃えちまいな」
リンネの言葉は、導火線の終わりを告げたものだったのだろう。
俺の目は、赤い、赤い炎の揺らめきを映した。
覚悟はしていたと思う――。
炎はうねり渦巻き、柱と化す。
俺は現実の中に存在している。それはわかっているが、どこか夢のようで、あの燃え盛る炎の中にもう一人の自分が存在している。そんな奇妙な感覚を覚えた。
しかし、夢みがちになれる程に、時間は待ってくれない。
今は紛れもない今で、俺は黒焦げになることも無く、生きているという事実があるだけだ。
「……何が起き――」
エントランスホールに破壊音が鳴る。壊れたのは本棚だ。沢山の本が弾け撒き散る。
上空から降ってきたように見えたのだが。
「どういう――はっ!? バスタブ!?」
それからベッド!? いや、消えた。そして、テーブルが虚空に出現し落下。いろんな物が現れては、消え、今度は柱時計が右から左へ。
と、とにかく、めちゃくちゃだ。
「えっ……」
視点が”また”変わった。さっきは桜子の後ろからエントランスホールを見ていたが、今度は、京華ちゃんの後ろに俺はいた、いるようだ。
俺や今ここで起きている事象は、桜子が引き起こしている。
俺にはそれがわかる。だから、
「桜子――っ」
叫ぶ。ありったけの力を込めて叫ぶ。
リンネの火炎が勢いを失う。ぱちぱちと火の粉が舞う中、桜子の洋服の裾がゆらゆらとそよぐ。
「チビ助よぉ。この現象、てめえの”アテラレ”だよなっ。ったくよーウゼえウゼえっ、ウゼーんだよっ」
猛然たるリンネの蹴りが、桜子へ襲いかかった。
瞬間、リンネは淡い光に包まれ消える。
俺はさして驚かない。リンネはここからは消えただけで、この邸のどこかに飛ばされただけだ。
それよりも、桜子の異常さが心配だ。
鏡眼を通して見ているからなのか。桜子のその瞳は――赤かった。そして、光を帯びていなかった。
「……ぐっ」
気合を入れ、立ち上がる……倒れた。
体に痛みはあまり感じない。歩けるはずだ。もう一度、立ち上がり足を踏み出し……倒れた。
床から桜子を見つめる俺の眼差しに、端の方から暗闇が迫ってくる。
「……く……そ」
「――れば――――だね」
なんだ……声が……する。
男の声だ。聞き覚えは……ない。
意識が踏ん張る。
「あらら、凄い事になってるね。これでも急いだんだけどな~」
声を辿ると、銀髪の男が桜子の背後にいた。
手には日本刀、抜き身の刃が光っている。
「……ろよ」
やめろよ……やめろ――やめてくれっ。懇願する。誰だっていい助けてくれっ。
頼む、頼む……か……ら。
――時間は、無情だ。
俺に絶望を叩きつけ、流れていく。
桜子の胸を、無機質な刃が貫く。ゆっくりと崩れていく少女の姿が目に焼き付く。
その眼球を、闇が覆う。意識が……すべてが……真っ暗…………だ……。




