26 雲行き②
頭上の空は、どんよりとした厚い雲が覆い被さっていく。
ぼつり、ぼつりと、落ちる雨粒がアスファルトの道を濡らし、吸い込む空気に独特の香りを含ませた。
「後もう少しだけ、もってくれよ」
加速する自転車。
俺はシャカシャカとひたすらペダルの回転スピードを上げる。
「あんなに、いい天気だったのになあ……こんちくしょう」
お天道さんを恨んだところで筋違いである。けれど、向島とミヤトレットで遊んでいる時は、まさかこんな空模様になるなんて微塵も思わせないぐらいの、雲ひとつない快晴だったのだ。
向島を晴れ男と認めなくてはいけないのだろうか。
あいつと別れ、家路を辿っていたら天気が崩れ始めた。
「ん? なんだろう……」
時刻は夕方。
顔を見せない太陽のためか、夜に近い薄暗さをさす風景に、見慣れた自分の家を捉えた時だった。家の門柱付近に、何やら人影が見える。
体付きからして女性……だな、それと重なるように大柄な男性がたたずんでいて、二人とも傘をさしていた。
俺ん家に用があるのかな? と思いはしたものの、俺は、家の側に居る二人を素通りする。
強くなりつつある雨脚を気にかけたのも、そうだが、変な勧誘や訪問販売とかだったら面倒だし、こっちから無理して関わる必要性を感じなかった。
「失礼だが」
自転車をガレージの端に停め、玄関に小走りで向かう途中、この一声で俺は、歩を止められる。
ちらりと目をやった先には、外灯に照らされる、艶やかな朱色の和傘が。
「へえ、和傘だったんだ。珍しい」
和傘がいうより、使っている人が滅多にいないからな。
感想とともによく見てみると、どうやら、女性の方は自分で傘をさしていなかったようだ。側の男性が二つの和傘を広け、右手にある片方を、女性の頭上にかざしている格好である。
「失礼だが、池上スバル殿であろうか」
和傘が邪魔で、顔は口元までしか見えない。
スレンダー体の線を、形取るようなパンツルックの女性。
視線を足元から、再び顔の方へ上げていくと、上着の七分袖から手の甲にかけ、包帯が巻かれているのに気付く。
よく通る声だからか、はたまた纏っている雰囲気がそうさせるのか。俺は、この和傘の女性に『凛としている』、そんな印象を受けた。
「ええと……っ」
俺の名前を口にした女性に、応えようとして――はっと息を飲む。すぅーと仰むいだ傘の向こうにあった、女性の力強い眼差しが、そうさせたのだ。加えて、美人さんだったってのもあります。
俺とあまり変わらなそうな年齢かな……いや、年上……か。ううん、ほんと女子はわかりづらい。
「不躾で、本当に申し訳なく思う。だが、私は貴方が池上スバル殿であるかどうか、知らなくてはならない。どうか教えてはくれまいか」
年齢当てクイズを自問自答していたら、和傘の美人さんは、後ろで束ねているであろう髪を揺らし、やや古風な喋りで再び尋ねてきた。
彼女にとって、視線の先にいる男が、池上スバルかどうなのか、余程気になるらしい。
しかしながら、雨に打たれ、着実に濡れていく俺の様を、この人が気にかけてくれているのかは、甚だ疑問である。
「そうですよ。俺、池上スバルっス」
「聞いていた風体から、もしやと思い尋ねてみたが、やはり池上スバル殿であったか……うむ、教えて頂き感謝する」
名前を教えたぐらいで、感謝を述べる和傘の美人さん。
俺、池上スバルの名が、それほど価値のある物だったとは思わなかったよ。
「本来なら私も名乗るべき、否、そのつもりではいたのだ。しかれど、それは出来ないようだ。すまない。重ねて申し訳なく思う」
「べ、別にいいですよ。そりゃ、あなたがどこのどちら様か気にはなりますけど、教えたくなければ……。ええと、なんと言いますか……俺、もう行っていいっスか?」
感謝の次は謝罪と、理解に苦しむところではある。が、パンツの濡れを感じる俺としては、どうでもいいことだ。一刻でも早く、この場を立ち去りたい。
「聞いていた話と違い、池上スバル殿が”そうでない”と判った以上、名乗れないと云うべきで、私の名に後ろめたさなどは無い。そのように受け取って頂こう」
俺のお願いは、雨音でかき消されてしまったんだろうなきっと……。
それにしても、最近の美少女は難解なことを言うのが流行りなのだろうか? 和傘美人が話す、言葉の意図がわからなかった。俺、理解力に乏しい子なのかね。
「それと――」
「お嬢っ」
何やら言いかけてた和傘美人が背を丸めた瞬間、ずっと側で、傘をかざしていた男性が声を上げた。
和傘美人は包帯が巻かれてある手で男性を制し、俯いていた顔を再び俺の方へ向ける。
その表情は男性の声に反して、特に目まいがしたとか苦痛で屈みこんだとかのものでもなく――凛としたものだった。
「池上スバル殿。今後、我々に関わるのは差し控えて頂きたい。それが貴方の為でもあるのだから」
そう言葉を残して、和傘美人は腰までありそうな長い髪を揺らし、大柄な男性とともに雨降る景色の中へと溶けてゆく。淡い外灯の光が混ざる薄暗さの中、艶やかさを失わない朱色の和傘も見えなくなった。……結局、なんだったのだろう。
「残念な美人さんだったな……」
自宅の玄関先で、濡れネズミになった俺が言えた言葉はこれぐらいだった。




