15 来訪者③
「ただいま」
この挨拶には誰も何も応えてはくれない。
親父は仕事だし、お袋はパートでこの時間はいたりいなかったり。妹も遊びに行っているかもしれないので、まあ、いつものことである。
履き古した青色のスニーカー、買った時はアクアマリンって色だったんだが、今では、使われていない時の学校のプールぐらいが相応しいのではないかと思われるそれを脱ごうとした時だった。
ズボンのポケットが振動する。学校の鞄を持ち替え、左手をそこへ。
スマホの画面には番号のみが表示されていて、俺は普段、登録していない電話は取らないのだが、
「もしもし……」
操作をして相手に呼びかけた。
この番号には見覚えがあったので、今回は例外だ。
『……あ。あ……』
掛けて来た相手は耳元で微かな声を発しただけだが、それでも誰だか全然予想できる。
「…………」
多少なりとも意地悪な気持ちがあったかもしれない。俺は、相手の言葉を待つことにした。
『……あ、あう。どちら様ですか?』
「それおかしいだろうっ。お前のほうから電話してんだから」
たくっ。何とんちんかんなことを言っているんだか。
「桜子、お前はアレか、イタ電が目的なのか」
『イタ電? ……違う。私の電話に電話があったお知らせがあった。だから電話した』
「さっきお前に電話したからな。てか、番号教えておいて電話に出れんとは、いかがなものかと思うぞ」
結構、虚しかったんだからな。
スマホを耳に添えながら、廊下を歩き、二階にある自分の部屋を目指す。
『お風呂に入っていた。だから……ごめんなさい』
「お、おお、そうなのか。なら仕方ないな……。別に謝らなくてもいいし。なんか悪かったよ。そのアレだ……、お前はいつも風呂入ってんだな」
バツが悪く話題を変えたかっただけなのだが、よくよく考えると、女子にお風呂の話を聞く俺の方がいかがなものかと思うが、後の祭り。
『絵を描いていると、よく絵の具が体に付く。だからお風呂もよく入る』
桜子の説明に、ふーんと然程感心を寄せずに返した。
リビングの前を通ると、微かにバラエティ番組でよく耳にする笑い声が聞こえていて、そっちに気が向いていたからだ。
――なんだ、いんじゃん
たぶん、お袋かシズク辺りがテレビでも見ているのだろう。
数歩足を運び、薄暗い階段を上がろうとする。上がった先のには、すぐに俺の部屋。それから廊下の突き当りまで行くと妹の部屋がある。
『その、確認したいのだが、お前はスバルなのか?』
何を今更……ああでも、名乗ってない訳だし、そうか。
「おう俺だ。これが俺……池上スバルさんの電話番号だから、よろしく」
階段を上がりきり、自分の部屋の前でわかりきったことを口にした。
『うん。……はぅ、私のは今のこれだ。電話番号、桜子だ。よろしく』
その言い方だと、”電話番号”が苗字に聞こえるぞ、桜子よ。
心の中でツッコミながら俺は自室のドアノブに手を掛けようとするが、どうも持っている鞄が邪魔で、上手く指が引っかからない。
それならと、両足の太ももでそいつを挟みドアを開け――
「大体、電話番号ぐらいわざわざ手紙――んおうっ!?」
デジャブーとは呼べないが、その言葉でも遜色ないと思う。
目の前にある光景は、俺の部屋ではなく今朝見た記憶のあるものであり、そこにたたずんでいる少女はまたしても下着姿で、違いと言えば、下着の色と携帯電話らしき物を耳に添えているぐらいなものだろうか。
「なんなんだよ!? なんで、俺の部屋が――いや、それもアレだけど……とにかく、すまん」
さすがに説明を受けた上、二回目というのもあったのだろう。驚きはしたが、思考が停止する程までは至らなかったので、俺は詫びの一言を言い、紳士的にドアを閉じよ――
「スバルっ。動くなっ」
『スバルっ。動くなっ』
鋭く発せられた桜子の言葉が、正面と耳元から聞こえた。そして、その声の主はこっち
に突っ込んで――来るんだよ!?
「おいおい、おい――どわっ」
俺は桜子の体当たりで、部屋の前の廊下へ仰向けに倒された。背中が痛い。
鞄を足で挟んでいたせいか下半身の踏ん張りが利かなかった。
「い……つう。いきなり何すんだよっ」
「おお、おお。おお、おおっ」
腹部に重みを感じたので、そっちへ首を起こして強めの口調で抗議するも、そこに見える桜子は息を荒々しくして、ただただ興奮気味に、『おお』を繰り返すばかりで俺の叱咤には無関心の様子だ。
しかも、それだけではない。この下着姿の美少女は馬乗りになっている。うん? 馬乗りにされているが正しいのか? どちらでも良いが、いや悪いが、この状況はいろいろと問題ではなかろうか。
「はうっ! スバル。玄関はどこだ!? どこだっ」
「お、え、え? ここ二階だから、普通に下。階段下りたらすぐだけど」
桜子の問いに気圧されて、素直に答えてしまう。
それを聞くなり桜子は俺から飛び退くと、なんと階段を下りようとしているではないか。
――ちょちょちょっ、待ってくれっ。それはマズいって!
一階にはお袋、もしかしたら妹も居るんだぞ。家に女の子を連れ込んだと思われるのは百歩譲って良いとして、その格好はアウトだろっ。
俺の動揺お構いなく目の前から去ろうとする下着少女に、思わず手が伸びる。しかし、残念ながらその行為は意味をなさない――どころか、
「だっ、俺のスマホぉ――っ」
選択を間違えた。差し出した手の平にはスマホがあったようで、悲痛な俺の叫びも虚しく、階段へ転がり落ちていった。
そしてこんな時に、である。
「お兄ちゃん、さっきからうるさいよっ」
聞き覚えのある声が、呼びかけてきやがった。
大切なスマホの落下で既に涙目の俺ではあるが、更に泣きたくなる事態だ。
――ふぁっきんしっと! だっ、こんにゃろうめがああああ。