05 みやと斎場③
これが名刺ってやつか……。
「少し面倒な名前で申し訳ないのですが、常葉と書いて常葉と読みます。桜ちゃんが言った僕の呼び名は気にしなくていいです。できれば忘れてください」
「どうして忘れてくださいなのだ。トッキーはトッキーなのに。スバルはトッキーをトッキーと呼んじゃダメなのか?」
「大声で繰り返さないで、恥ずかしくなるから。大体、僕をそんなアダ名で呼ぶのは桜ちゃんだけだから」
「私のお母さんもトッキーをトッキーって呼んでいたのだ」
「そうなんだよね。それがいけない。本を正せば椿姉さんが悪い。だから桜ちゃんまで僕の名前を間違って覚える」
「俺は池――」
「折角だし話そうかな。いいかい桜ちゃん。恐ろしいことに椿姉さんは、僕の名前を常葉だと勘違いして、そのアダ名をつけているから。嘘だと思うかもしれないけれど本当にそうなんだ。あの人、僕が大学へ入る頃になって、『あんたのジョウヨウってアダ名じゃなかったんだ』とか真顔で言ってくる人だから。本名なのにアダ名扱いだなんて酷い」
幾分『トッキー』優勢で名前を覚えつつある男性にしてはやや高い声音を持つ叔父さんは、桜子から肩をぽんぽん優しく叩かれると、次いで、高校生時分は棒状でない体型に批判が殺到した話を語る。
どうやらこのまま、チョコレートに包まれたスティック菓子を食べたくなった俺からの挨拶を待たずして、相槌にも手を抜かない真摯な姪と喋りに余念がない冗長な叔父による、偏ったトークショーが開催される模様らしい。
俺は初めて渡された名刺を瞥見してポケットへしまい、中学校では体操着のゼッケンも椿姉さんが付けたアダ名だったうんぬんを耳にしながら、眉尻を下げるトッキーさんのふっくらした顔へ、映画『アウストラル戦記』のガッベルさんを重ねてしまう。
ナスのへたを乗せたような髪型をしたガッベルさんは、主人公ネオを最後の聖戦へ導いた立役者だ。しかし、周りからピッグクラウン<食いしん坊の道化師>と揶揄されるガッベルさんは、お調子者ぶりやお喋りな口が災いして、常々周りを困らせてしまうトラブルメーカーだったりもする。
それでも、憎めない性格と愛嬌のある丸っこい体つきに魅了されるファンも多く、高い人気を誇る彼の、絶望に打ちひしがれる仲間達を奮い立たせた『俺の贅肉には平和が詰まっている!』は、アウストラル戦記史上、最も偉大な名言の一つとして数えられていた。
俺がどこかしらトッキーさんへ親しみを感じている間に、自身がアダ名によって苛まれたと語るエピソードがとうとう小学生の頃まで遡り、各時代を紡いだ話の裏では、一貫してトッキーさんが椿姉さんと呼ぶ桜子の母親の影があった。
「僕と二つしか違わないから、悪名高い椿姉さんの影響力は、自然と僕の友達や学校の先生にまで及んでいて、どこへ行っても椿姉さんの弟って言われて大変だったんだから」
「トッキーはお母さんと姉弟なのが、嫌なのか?」
「そんなことはない。多少苦い思い出があるだけで、全然そんなことないから」
催し(ショー)の客である俺は、姪と叔父の会話を黙って見守るべきなんだろうから、二度に渡る否定の意味を勘ぐったりはしないし、母親が名付け親である呼び名で苦しんだ叔父の話を長々聞いてなお、流線型でもない『トッキー』がなんの抵抗もなく喉を通過する辺り、さすが桜子だな。などと感心したりもしない。
「――それで椿姉さんと言えば、最近もいちいち電話で『若い子にナンパされた私ってまだまだ若いなう』なんて、無理をした言葉使いで自慢していたのに、今日のような大事な時は音沙汰なしだから酷い。登城家御大の弔事なんだから、柳家も家長が会葬して当然だろうに」
「トッキーじゃ、役に立たないのか?」
「椿姉さんの代理として役割は果たしているつもりだけれど、皆、柳の家督は嫡女が継ぐのを知っているから、僕が弔辞を読んだりすれば『柳の当主はまだ放浪している』、なんて陰口が飛び交うことになるから」
叔父さんは伊達じゃない。桜子のぶっきらぼうな物言いにも愛想を尽かせないトッキーさんである。
「お母さんは、お父さんと愛の逃避行中で忙しいって言っていたのだ」
「家出をしているようなものだから、そうも言い換えられるけれど、娘に何を吹き込んでいるんだか。椿姉さんは単に、家督を継ぐ事を嫌っているだけだろうに」
「トッキー。お母さん……おばあちゃんのことまだ気にしている?」
「おばあちゃん? そうなんだね……、桜ちゃんは自分の事より心配しなくてもいい椿姉さんを気に病んでくれているんだね。大丈夫。母さんが『玉珠』を桜ちゃんに預けた事、椿姉さんはちゃんと納得しているから」
眉尻を一段と下げるトッキーさんが桜子を思いやるようにして話す。
叔父と姪をほわり包み漂う柔らかい空気感を邪魔しないよう、俺は側の円柱みたく柱になろう。
柱は何も喋らないし何も考えないから、詮索なんて野暮は起こさない。
「ところで桜ちゃん。彼は随分と大人しい子なんだね。全然話してくれないから。僕が彼に鉄雄君の面影を見て、余計にそう思ってしまうのかな。彼のお父さんは元気一杯、わんぱく小僧が良く似合う人だったから」
トッキーさんの話題転換が終わると、ずっと眺めるだけだったの横顔達が息もピッタリ、俺に正面を向ける。
いや、いや、いや。――いやいやいやいやいやいや、ちょっと待ってくれっ、何故ここで、このタイミングで俺を指名するんっスか!?
そうして、こうして、あれして、だ。この瞬間だけでいいっ、口が三つ欲しい。
弁解する声で、あえて気を遣い黙ってましたと。批難する声で、付け入る隙もなく話したてていたのはそちら様じゃないですかと。質問する声で、どうして突然親父の名前が出て来るんですかと、同時に込み上がるそれらをすべて吐き出したいからだ。
けれど難儀なもので、人の顔に口は一つしかない。
我こそは一番に飛び出そうと順番を争う言葉らがひしめき合い、出口を塞いでしまう。
混み合って使い物にならない口はしばし諦め、ならば、口ほどにものを言うらしい目だろと、俺はくわっと見開く眼で、本日の相方である桜子にフォローを頼むと訴える。
黒い瞳がきらり。了解の合図が返って来た。
「トッキー、スバルはとても、恥ずかしがり屋さんなのだ」
――桜子さんのいけず。
俺は秘蔵っ子だった心の口で嘆いた。




