5.4 俺、何してるんだろう
太陽が顔を出した頃、俺はようやくアパートに戻った。
毎日開閉しているドアから感じる重圧に苦笑しながら部屋に入ると、直ぐそこにモナが居た。
廊下に座って膝を抱えた少女が、俺を見て嬉しそうに笑う。
「おかえり」
「……」
俺は彼女から目を逸らして、その横を通り抜けた。
少し間があって、後ろでモナが立ち上がる気配を感じる。
「ジュン、寒くなかった?」
「……」
その声を無視してリビングに向かった。向かって左側に食事をする机、右側にソファとテレビがある。モナが来てからベッドの代わりにしていたソファに体を投げて、目を閉じた。
「あ、ごめん、眠かったんだね」
「……」
「あと三時間で学校に行く時間だよ?」
「……」
「もう、仕方ないな……起こしてあげるから、ぐっすり眠ってね!」
「……」
「……じゃあ、また後で!」
足音が遠ざかった後、肺に残っていた空気を全て吐き出した。咳が出るほど息を吐いて、痛みで涙が出るくらいにまで続けた。何もかも吐き出してしまいたかった。
……俺、何してるんだろう。
どうして帰って来た? モナと会って何をするつもりだった?
お前の恋心は錯覚だから、そんなことに命を懸けるな。さっさと違う男の所に行け。とでも言うつもりだったのか?
「……っ」
握りしめた拳を振り上げて、乱暴に振り下ろす。
柔らかいソファに当たった拳は、少しも痛まなかった。
もう一度振り上げて、今度は自分の脚に当てる。
何度も何度も、感覚が消えるまで繰り返した。
でも言葉では言い表せない不快感は、消えるどころか大きくなる一方だった。
「……なんで」
どうして俺なんかを好きになるんだ。
「……この顔がそんなにいいのかよ」
他に良い所なんて無い。それは自分が一番分かっている。
だけどそんな理由で、あんなに眩しい恋が出来るのか?
……ありえない。きっと何か他の理由がある。
「……どんな理由があったら、あんな風になれるんだよ」
この期に及んで彼女達を羨ましいと考えている俺にはきっと理解出来ないのだろう。
……ダメだ。たとえ理解出来なくても、考えることを止めてはダメだ。
学校に行ったら優紀に会う。
そしたらどうする?
彼女に甘えて、何事も無かったかのように接するか?
……保留。
この先、一度はモナと話す機会があるだろう。
そしたらどうする?
……保留。
保留だ、保留にするしかない。いったいどうしろって言うんだよ。
「……俺のせいで、モナが消滅する?」
違う、あいつが選んだことだ。仮に俺が体液を差し出したとして、モナは拒絶するだろう。
愛の無いエッチは死んでも嫌だ。あの言葉は文字通りの意味を持っている。
……落ち着こう。少し時間を置くんだ。
脱力して暫く目を閉じてみたけれど、いつまでも眠気はやってこない。それどころか延々と頭の中で繰り返される思考のせいで、どんどん目が冴えていく。同時に、絶え間なく聞こえる時計の音が焦りを生んだ。このままでは何も進展が無いまま時間だけが過ぎ、やがてモナが俺を起こしに来る。
「……学校に行こう」
今はモナの顔を見たくない。だけど逃げるわけにもいかない。もちろん、優紀からも。
学校ならば、必ず二人と顔を合わすことになる。
今から家を出れば三時間以上の猶予があるから、ひとつは案が浮かぶはずだ。
体を起こして、音を殺しながら支度をする。
制服の袖に腕を通しながら、ふとモナの事が気になった。俺が帰宅した時、あいつはドアの直ぐ近くで待っていた。なら今度も俺を待っている可能性がある。
「……置手紙くらい残そう」
先に学校へ行っている。そう書いた手紙を机に置いた後、部屋の外へ向かう。
ドアを開けた時ふと気になって振り返ったが、そこには見慣れた暗い廊下があるだけだった。
静かな通学路を一人で歩くのは久しぶりだ。
まだ一ヶ月も経っていないのに、とても懐かしく思える。
少し肌寒い空気に頬を冷やしながら、特に何も起こらない道を歩く。
校門に辿り着いた時に少しだけ息があがっていたのは、時間の流れがゆっくりに感じられたせいだろうか。それとも別の要因だろうか。
とにかく校門についた。
当然まだ開いていなくて、きっと校舎も施錠されたままだ。
仕方なく職員が来るのを待つ事にする。
荷物を地面に置いて、漫然と空を見上げた。
ちょうどそこに黒い影が映る。
そして漆黒の翼を携えたそれは、俺の前に降りてきた。
「……」
モナの兄。彼は俺に会いに来たは良いものの、なんと言ったら良いか分からないといった表情をしている。かといって俺から何か言うことも無いので、それを黙って見ていた。
「昨日は、すまないことをした」
第一声は予想外のものだった。
何か謝られるような事をされただろうか?
そんな俺の表情を察してか、彼は事情を説明してくれる。
「君は覚えていないだろうが、君の精神に手を加えて、モナを襲うように仕向けたんだ」
それを聞いて、なんとなく察した。
だからモナの服が乱れていたのか。
「……妹から話は聞いたかい?」
頷く。
「そうか……突然のことで驚いたと思う。だが、事実なんだ。といっても、全ての悪魔が十七歳で消滅するわけではない。そもそも、前例はほとんど無いんだ。モナが十七歳で消滅するというのは、予測でしかない。彼女の……生命力のような物を我々は見ることが出来るのだが、その減り具合を元に計算すると、ちょうど彼女が十七歳になった時、それがゼロになる」
そして生命力を失った悪魔は、消滅する。
実にシンプルな説明だった。
「それを回避する為には、異性から体液を得るしかない。モナの場合、精液なら一滴で十年は延命できるだろう……なぁ君、頼む。一度モナを抱いてくれるだけでいいんだ……頼む」
妹を助けたいという強い思いが伝わって来た。
それを見て、俺はまた眩しいと思った。
「……他の体液なら、どれくらい必要なんですか?」
「そうだね……唾液なら一リットル、汗なら百リットルで、精液一滴と同じ効果が得られるだろう」
唾液で……あいつ、何が十分くらい飲み続けるだよ。全然足りねぇじゃねぇか。
それと、一滴ってなんだ。どれくらいなんだ。
……まぁ、聞いたところでどうにもならないけれど。
「というか、お兄さん」
「……なんだい?」
「精神の支配なんてことが出来るんだから、今度はもっとバレないように俺を操ればいいんじゃないですか?」
「……それは無理だ。モナの力は強過ぎる」
「絶対に見抜かれるってことですか?」
「ああ。同様に、無理矢理というのも難しいだろう。いや、不可能だ。実際過去に何度か試みたが、全て失敗した……あの子の力は、本当に強い」
「つまり、モナ自身が納得しなきゃいけないってことですね」
「その通りだ」
愛の無いエッチは死んでも嫌だ。
あらためて、この言葉に含まれた強い意志を感じた。
そのうえで、俺は言う。
「ごめんなさい」
「……待ってくれ、兄の目から見てもモナは魅力的だ。いったい、どうして」
「どうしても、その要求には答えられません」
「何もモナを貰ってくれと言っているわけじゃない、一夜限りの関係でもいいんだ」
「愛の無いエッチは死んでも嫌だ。モナが意思を曲げない限り、俺が何をしても無駄でしょう」
だって、
「俺は、ゲイなので」
ゲイという言葉をモナは知らなかったが、兄の方はどうやら知っているらしい。
そんな反応をしている。
「それに、あんた一週間後にまた来るって言ってませんでした?」
「……」
「自分の言ったことも守れないんですね、悪魔って」
「……」
「じゃあモナも同じなんじゃないですか。俺じゃなくても、きっと……」
言うと、どこか諦めたような表情で彼は姿を消した。
それから俺は再び漫然と空を見上げる。
時間を置いてみた。
何か案が浮かぶかなと思った。
だけど結果はこれだ。
何もかも、朝の冷たい風を受けて凍り付いただけだった。
「……俺、何してるんだろう」
再び呟いて、校門に背を預ける。
ちょうどそこに学校職員が現れた。
よく見ると、彼は陸上部の顧問だ。
「おお、純じゃないか。今日は早いな」
いつも通りの声。
「はい、おはようございます」
いつも通りの返事。
「今日は、あの子は一緒じゃないのか?」
「あの子?」
「ほら、最近ずっと一緒だったろ? たく、部活中も仲良く走りやがって……しかし、あの子すごいな。純のペースについていけるなんて……こりゃ、次の大会は期待できるぞ」
部活……そういえば、モナは陸上部に入ったんだっけ。
あいつ、身体能力だけは悪魔らしいというか……まぁ、終わった話だ。
特別な出来事なんて無い。
横でギャーギャー騒ぐモナを鬱陶しく思いながら走った、それだけだ。
「……次の大会、いつでしたっけ?」
「ええっと、夏だったかな? ま、直ぐだ直ぐ」
まだ四月。
夏、つまりは夏休みまで三ヶ月はある。
三ヶ月なんてあっという間だ。
なら、一週間は?
「とにかく、楽しみだな!」
「……ええ、そうですね」
「なんだこら、元気ねぇぞ!」
乱暴に、俺の肩を叩く。
その熱が少しだけ心地良くて、俺は笑った。
「眠いんですよ、教室に鞄を置いたら、走ってきます」
「おう。今開けるから、ちょっと待ってろよ」
と、無駄に暑苦しい教師を見送った。
「……あと一週間か」
あと一週間、何もしなければモナが消滅する。
そしたらどうなる?
どうにもならない。元に戻るだけだ。また静かな日常に戻るだけ。
もとに、もどるだけ。
そうなのか? ほんとうに、そうなのか?




