アタタカイヤミ 96
波田さんの家を出て、時計を見る。午後10時。だいぶ遅くなってしまった。
僕は夜の冷風に当たりながら、そう思った。もう、この桜ヶ丘団地にひっそりとした人工の明かりを縫うように闇がしっとりと息づいていた。
僕は背後を振り返る。そこには貞さんがいた。
「帰るのか?」
「はい。もう、遅いですし」
「そうか」
貞さんは独りごちをいうようにいった。そして、貞さんは所在なさげに視線をさまよわせてこう言った。
「さっきはすまなかったな、つかみかかって。さっきのことは申し訳ないと思っている」
そう言って、貞さんは頭を下げた。それに僕は慌てて言う。
「いえ、いいですよ。気にしていませんから、頭を上げて下さい」
僕は貞さんの頭を上げさせ、重ねていった。
「あんなむごいことがあったのなら当然です。むしろ、今のうちに吐きだした方がすっきりします」
僕が善意のつもりでそう言った。実際、そう思ったからそう言ったのだが、それを言った瞬間、貞さんの雰囲気が戦場をかける武士のように剣呑になり、こちらをにらめつけてきた。
「わかったことを言うな!!君にはわからない、愛する娘が奪われた気持ちなどわかるはずがない!!怒ったところですっきりなんてするか!!私は、私は…………」
そう言って、貞さんはあとの言葉続かなかった。あまりに強烈な感情が言葉として整理できないのだ。
貞さんはまだ、何かを言うとして体を震わせたが、マグマのような感情に扱うことができず、やがてこの事を言うのはやめて、謝った。
「すまなかったな。そういえば、君は高校生だったな。高校生にこんなことを言うのはかなり酷だな。しかし、覚えてほしい。家族が自殺を、しかもいじめられて自殺されるともう幸せは一生来ないのだ。だから、それを覚えてほしいんだ」
貞さんは闇色の霧を纏い(まとい)ながらそう言った。僕は彼を見て、子供がいじめられて死んだ家族の絶望のほんの一端を見た気がした。
僕は貞さんの絶望を見て戦慄しつつ、あることを言うためにここに来たのだ。そして、僕はそのことを言う。
「貞さん」
貞さんが顔を僕のほうに向けた、僕は貞さんの目を見てこう言った。
「貞さん、これからどうしますか?」
「どうとは?」
貞さんは戸惑った目をしていた。目にはこの子は何を言い出すのだろう、という疑問があった。
「つまりですね、貞さん。この事を学校や教育委員長に言うつもりはないのですか?といっているんです」
貞さんはああ、といった目をした。さらに僕は続ける。
「それで多分、それだけではダメと思いますから、マスコミなどに伝える可能性もありますよ。どうしますか?貞さん」
それに貞さんは、まるで夜風が寒いかのように身を縮こまらせこう言った。
「そうですね。…………………考えておきます。でも、今は何も考えられない。今はその話題には触れないで下さい」
そう言って、貞さんは背を向けて家へ帰った。その寂寥たる背中に僕は何も言えることはできなかった。
そして、僕は自転車に乗って身を切る寒風の中を突き進んでいた。




